第1話「辞表」
カティアは扉を叩いた。
三度、等間隔に。 王宮東棟、王太子の私室に通じる重い樫の扉。 蝋燭の灯りが廊下の石壁を揺らしている。
「——どうぞ」
くぐもった声が返った。 カティアは取っ手に手をかけ、背筋を伸ばしたまま室内に足を踏み入れた。
エーリヒは窓際の長椅子に腰掛けていた。 手元の書物から顔を上げ、来訪者を認めて軽く目を見開く。
「カティア? こんな時間に——」
「夜分に失礼いたします、殿下」
カティアは扉を閉め、規定通りの礼をとった。 右足を引き、スカートの裾を軽く持ち上げ、視線を一度落とす。 学園の最終学年として何百回と繰り返した所作が、今夜は妙に軽い。
「お時間をいただきたく参りました。お話は一つだけでございます」
エーリヒが書物を閉じた。 背表紙を長椅子の肘掛けに置く仕草に、迷いがある。
「……座るかい?」
「立ったままで構いません」
カティアは懐から封書を取り出した。
封蝋には、ヴァイスフェルト家の紋章が押されている。 白い羊皮紙に、黒インクで書かれた文面。 カティア自身の手で、三日前に清書した。
「婚約破棄の理由書でございます」
室内の空気が、止まった。
エーリヒの視線が封書に落ちた。 それからカティアの顔に戻り、また封書に戻った。
「……破棄?」
「はい。わたくしから申し出る形で、婚約の解消をお願いしたく存じます」
声は震えなかった。 十代の前半から、この夜のために言葉を選んできた。 封書を差し出す手も、まっすぐ伸びている。
エーリヒは立ち上がらなかった。 長椅子に座ったまま、カティアの手元を見つめている。
「……理由を、聞いてもいいかな」
「理由書に記載しております。ですが、口頭でも申し上げます」
カティアは一度だけ息を吸った。
「わたくしは、王妃になるよりも、文書修復に生涯を捧げたいと考えております」
沈黙が落ちた。
蝋燭の芯が小さく爆ぜる音がした。 エーリヒは口を開きかけ、閉じ、また開いた。
「……文書修復?」
「王立文書院にて、修復士として働くことを希望しております。父が院長と面会し、わたくしの試験修復の成果を提出済みです。学園の進路実習制度を利用し、明日から試用勤務を開始する手筈も整えてございます」
エーリヒの表情が揺れた。 困惑と、驚きと、それから——もう一つ、名前をつけにくい感情が、瞳の奥をよぎった。
「……父上は」
「陛下には、父が非公式にお伺いを立て、内諾をいただいております」
言葉が一つ出るたびに、エーリヒの肩から力が抜けていくのが分かった。 国王の内諾。公爵家当主の承認。院長の受け入れ。 すべてが整った後で、当事者に知らされている。
これは相談ではない。 通告だ。
エーリヒもそれを理解したのだろう。 膝の上で組んでいた両手が、ゆっくり離れた。
「僕は——」
言葉が途切れた。
カティアは待った。 この人が何を言うか、あるいは何を言わないかで、今後の手順が変わる。 引き止められれば、計画の修正が必要になる。
五秒。 十秒。
エーリヒは視線を窓の外に向けた。 学園祭の前夜で、遠くに篝火の明かりが見える。
「……君が、そう望むなら」
その一言を聞いた瞬間、カティアの胸の奥で、長く張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
「殿下のお言葉を、『異存なし』として理由書に添えさせていただきます。手続きは双方合意による円満解消として進められますので、殿下側のお立場への影響は最小限に抑えられるかと存じます」
事務的な説明だった。 それが今の自分にできる、最後の誠意だと思った。
エーリヒは窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「……カティア」
「はい」
「君は——ずっと、こうするつもりだったのかい」
問いかけに、カティアは正直に答えた。
「はい。長い間、準備をしてまいりました」
エーリヒが振り向いた。 その目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。 悲しみとも少し違う。
何かを探すような目だった。 引き止める言葉を、今この瞬間にも見つけようとして、けれどどこにも見当たらない——そういう目。
カティアはその視線を受け止め、深く礼をとった。
「お時間をいただき、ありがとうございました。殿下のご健勝を、心よりお祈り申し上げます」
踵を返し、扉に向かう。 取っ手に触れた瞬間、背後でエーリヒの声がした。
「——元気で」
振り返らなかった。
「殿下も」
扉を閉める。 廊下に出た瞬間、自分の足音がやけに大きく響いた。
石畳の廊下を歩きながら、カティアは右手を見た。 封書を握っていた手のひらに、封蝋の温もりがまだ残っている。
終わった。
十代の前半から描いてきた計画の、最初の、そして最も重い一手が終わった。 予想していたよりもずっと簡単に。
引き止められなかった。 それは計画通りだ。 ゲームの知識が正しければ、エーリヒは優柔不断で、自分から関係を壊す決断はできない。 こちらから差し出せば、受け取る。そういう人だ。
分かっていた。 分かっていたから、計画したのだ。
なのに。
廊下の角を曲がり、人の気配がないことを確認して、カティアは壁に背を預けた。
あの最後の二文字。 たった一言の別れが、思ったよりも胸に残っている。
「……感傷ですわね」
独り言が石壁に吸い込まれた。
数秒だけ目を閉じた。 それから背筋を伸ばし、歩き出す。
エーリヒの私室では、王太子が一人、封書を手に取っていた。
封蝋を指でなぞる。 ヴァイスフェルト家の紋章。 鷲と百合の意匠が、蝋燭の灯りに浮き上がっている。
「……文書修復、か」
呟いて、封書を机の上に置いた。
引き止めなかった。 引き止める言葉を探して、見つけられなかった。
それは——つまり、最初からなかったということだ。
扉を叩く音がした。 規則正しい三度のノックではなく、控えめな二度。
「僕だ。入ってもいいかい、エーリヒ」
アルノルトの声だった。 エーリヒは封書を引き出しにしまい、「入れ」と答えた。
アルノルトが静かに入室した。 黒い髪を丁寧に撫でつけ、夜中だというのに衣服に乱れがない。
「殿下。先ほどヴァイスフェルト嬢がこちらにいらしたと、侍従から」
「ああ……聞いたのか」
「概要だけ。婚約破棄の申し出があったと」
エーリヒは長椅子に深く座り直した。
「……カティアから切り出された。理由書も、手続きも、全部整えた上で」
「さようですか」
アルノルトの声に、動揺はなかった。 一呼吸の間を置いて、穏やかに続けた。
「殿下がお辛いようでしたら、対応は私にお任せください。手続きの窓口は宮内省ですが、書類の確認程度であれば——」
「いや」
エーリヒは首を振った。
「カティアの意思だ。僕が——余が、異存なしと伝えた。それでいい」
「承知いたしました」
アルノルトは一礼した。 その顔は、いつも通りの穏やかな微笑を湛えている。
「では、明日以降の学園祭に関する段取りを確認してもよろしいでしょうか」
「……ああ、頼む」
アルノルトが手帳を開き、翌日の予定を読み上げ始めた。 エーリヒは頷きながら聞いていたが、視線は何度も机の引き出しに戻った。
アルノルトはそれに気づいていた。 気づいた上で、何も言わなかった。
婚約破棄。 公爵令嬢が、自ら王太子との縁を切った。
断罪の舞台を整える必要がなくなった。 リゼッテを動かす工作も、もう不要だ。
好都合だった。
これで一つ、余計な手間が省けた。
予定の読み上げを終え、アルノルトは一礼して退室した。 廊下に出た瞬間だけ、口元の微笑が消えた。
もっとも——公爵令嬢が文書院に行くという話は、少し気にかかる。
だが、今は考えすぎるほどのことではない。
足音を響かせず、アルノルトは闇の中を歩いていった。
翌朝。
カティアは日の出とともに目を覚ました。
寮の部屋は、すでに半分片づいている。 衣装箱の上に、修復道具の入った革鞄が一つ。
竹製のヘラ。 麻布の端切れ。 小瓶に入った定着液。 薄い鉛筆。 拡大用の硝子玉。
前世の技術を、この世界の材料で再現するために、十代の半ばから少しずつ揃えてきた道具たち。
カティアは一つずつ確認し、鞄の蓋を閉じた。
窓の外では、学園祭の飾りつけが朝日に光っている。 今日この場所は華やかな祝祭に包まれるだろう。 けれど自分は、もうその舞台にはいない。
馬車は裏門に手配済みだ。 目立たないよう、式典が始まる前に発つ。
鞄を手に取り、部屋を出る。
廊下には誰もいない。 早朝の静けさの中、自分の足音だけが響いた。
裏門には、ヴァイスフェルト家の紋章が入った小さな馬車が待っていた。 御者が帽子を取って頭を下げる。
「文書院まで、お願い」
馬車に乗り込み、革鞄を膝の上に抱えた。
車輪が石畳を転がり始める。 学園の塔が、窓の外でゆっくり遠ざかっていく。
カティアは鞄の留め金に指を触れた。 中に詰まった道具の重みが、膝を通じて伝わってくる。
これが、自分の全部だ。 婚約者の肩書きでもなく、公爵令嬢の家名でもなく。 この手と、この道具と、前の人生で身につけた技術。
馬車が角を曲がった。 学園が見えなくなった。
前を向いた。




