第9話 地下書庫での密室教育
「……暗いよ、紗良」
ワワワの声が、コンクリートの壁に虚しく反響した。
埃の積もった棚が並ぶ地下書庫。紗良は入り口の重い鉄扉を閉めると、カチリと無機質な音を立てて鍵をかけた。窓のないこの場所では、天井で細く震える蛍光灯だけが唯一の光源だ。
「視界が暗いのは照明のせいだけど、先行きが真っ暗なのはあなたの認識の甘さのせいよ、ワワワ。あんな女に付け入る隙を与えるなんて」
紗良はパイプ椅子をワワワの目の前に置き、鋭い音を立てて座った。
「いい? あなたは今、ネットの海で溺れかけているの。あの動画のせいで、あなたは『綺麗な顔なのに変な食べ方をする役人』、や『女に虐げられる可哀想な獣』みたいにおもちゃにされかけてるのよ」
紗良が勢いよく立ち上がり、ワワワの顔をゼロ距離まで覗き込む。
(……ああ、ダメ。真面目な説教してるのに、この距離で彼を見ると眼鏡越しでも……心臓の音が書庫中に響いちゃいそう! 落ち着け私、今は完璧な『支配者』として振る舞う時間よ!)
「あの女――美月とか言ったかしら。あんな薄っぺらな同情で、あなたの何が分かるっていうの? あなたをここまで美しく仕上げるために、私がどれだけの時間と、削り出すような情熱を注いできたと思っているのよ……!」
彼女の指先が、ワワワの頬を強く圧迫した。それが「愛」ゆえの執着であることに、彼女自身もまだ気づいていない。
「あなたの野性を、あなたのありのままを受け入れられるのは……この世界で、私だけなのよ」
ワワワは何も言えなかった。
確かに、紗良は誰よりも彼を知っている。しかし、その「知っている」という事実が、今の彼には重い鎖のように感じられてならなかった。
その時、地下へと続く階段で、微かな足音が響いた。
「テストの隠密行動」
テストが暗闇に溶け込むような足取りで、地下の廊下を進んでいた。その後ろを、美月が「本人は忍び足のつもり」でドタドタとついていく。
「ちょっとテスト、本当にここに入っていいの? 立ち入り禁止って書いてあったよ」
「テストの禁断の地」
テストは迷うことなく、一箇所の扉の前で足を止めた。
美月が扉に耳を当てると、中から紗良の「愛の説教(という名の独白)」が漏れ聞こえてきた。
「……信じられない。あんなところで二人っきりで……。やっぱり、和久井さんを助けなきゃ。私があの人を、ここから連れ出さないと……!」
美月の瞳に、強い正義感と無意識の独占欲が宿る。彼女にとって、ワワワはもはや動画の中の存在ではなく、自分の手で「お腹いっぱいにしてあげたい」一人の男性になっていた。
「ねえテスト、この扉、開かないかな」
「テストの正面突破」
テストがノブを回すが、鍵はびくともしない。
しかし、その様子をまたしても、Pが撮影していた。地下の防犯カメラの隙間から、暗視モードのスマホが、火花散る密室の外側を記録している。
P:【速報】地下の密室で監禁!? 正義の美少女、野獣を救えるか。 #地下 #潜入 #市役所の闇
「……ん?」
地下の異変に、地上で鼻を鳴らす者が一人。
ニク課長が、給湯室で自分のマグカップを洗いながら、ねっとりと微笑んだ。
「おやおや……。地下で、何やら騒がしいようだね。……暗闇でこそ、月は輝くというのに」
運命の歯車は、湿った地下の底で、さらに複雑に噛み合い始めていた。




