第36話 晩餐の約束
市役所を包んだ喧騒が嘘のように、夜の街は静まり返っていた。
秋の夜風は心地よく、僕の火照った頬を冷やしていく。横を歩く紗良は、ロビーでの凛とした態度が嘘のように、またいつものぶっきらぼうな表情に戻っていた。けれど、その歩幅は僕に合わせるようにゆっくりとしていて、時折僕の袖が彼女の腕に触れるたび微かな熱が伝わってきた。
僕たちが辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇むバー『La Cave』だった。
カウベルが小さく鳴り、重い扉を開ける。
「いらっしゃい。……あら、今日は二人揃っていい顔してるじゃないか」
カウンターの奥で、店主の“ね”ちゃんがいつものようにどこか見透かしたような微笑みを浮かべて僕たちを迎えた。琥珀色の照明に照らされた店内には、ジャズの調べと微かなリキュールの香りが溶け込んでいる。
「ねちゃん、いつものを」
「……はいはい。でも、今日は少し趣向を変えさせてもらうわよ」
ねちゃんはいつものカルーアミルクではなく、二つのクリスタルグラスを取り出した。
シェーカーがリズム良く振られ、注がれたのは淡いピンク色をした透明感のあるカクテルだった。
「これは……?」
「お祝いだよ。二人がようやく、自分たちの『檻』の鍵を自分たちで見つけたみたいだからね」
ねちゃんが差し出したのは、アルコール度数を抑えたハーブと柑橘の香りが爽やかな一杯だった。一口含むと心地よい酸味が喉を通り、今日一日の緊張がゆっくりと解けていくのが分かった。
「……ねえ、ワワワ」
グラスを見つめたまま、紗良が静かに口を開いた。
「今日、ロビーであんたの過去を見たとき……正直、少しだけ怖かったの。あんたがまた、あの孤独な飢えの中に帰ってしまうんじゃないかって」
彼女の指が、グラスの縁をなぞる。
「美月が言った通り、私の愛は毒かもしれない。あんたを縛って、管理して、普通の幸せから遠ざけているだけなのかもしれない。……でも」
彼女は顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、管理者の冷徹さではなく、共に歩む決意を固めた一人のパートナーとしての光が宿っていた。
「今日からはね、食事を一緒にすることにしたの。もちろん、あんたのカロリー計算は私が一グラム単位で続けるわよ? でも、これからは私もあんたと同じメニューを食べる。あんたを管理しながら、私も同じ味を識るために」
それは、彼女なりの「共に生きる」という誓いだった。
これまでは僕を突き放して管理していた彼女が、これからは僕の飢えも、味気なさもその全てを共有すると言ってくれたのだ。
「……それって、デートの誘い? それとも、一生の契約?」
僕が少しだけ茶化すように尋ねると、彼女は耳を赤くして「どっちもよ、バカ!」と顔を背けた。
「あんたが私の味を知って、私があんたの飢えを知る。そうやって、二人で一つの『満足』を作っていくの。……文句、ある?」
「……あるはずないよ。最高の晩餐になりそうだ」
カウンターの隅で、ねちゃんが嬉しそうに頷いている。
僕たちはグラスを軽く合わせ、小さな音を響かせた。
管理されることの悦びと、管理することの重圧。その両方を分かち合う、いびつで、けれど何よりも強固な絆。
明日から始まる新しい日常はきっとこれまで以上に厳しく、そしてこれまで以上に美味しいものになる。そんな確信を抱きながら、僕は彼女の隣でゆっくりとカクテルを飲み干した。




