第35話 ニク課長の祝辞とクミの涙
ロビーを包んでいた重苦しい沈隠は、紗良の凛とした宣言によって打ち砕かれた。Pが撒き散らした「過去の僕」という悪意の破片は、彼女の毅然とした態度の前ではもはや無力な紙クズに過ぎなかった。
捨て台詞を残して逃げ去るPの背中を見送るまでもなく、周囲の職員たちは気圧されたようにそれぞれの持ち場へと戻っていった。残されたのは静まり返ったロビーと、繋がれたままの僕たちの手。
「……ったく、騒々しいわね」
紗良はワワワの抱擁から脱出すると、何事もなかったかのように前髪を整えた。けれど、その指先がわずかに震えているのを僕は知っている。彼女だって、僕を守るために必死に虚勢を張っていたのだ。
「和久井くん、紗良さん。実に見事な『純愛』だったよ」
背後から低く、けれど響く声がした。振り返ると、そこには腕を組み、満足そうに頷くニク課長の姿があった。
「課長……。お騒がせして、申し訳ありません」
僕が頭を下げると、課長は三日月のような細い目で僕たちを見つめ、詩的な響きを湛えた声で告げた。
「謝ることはない。……三日月は満月となり、一つの夜を完成させた。欠落を抱えた二人が、互いの歪みでパズルを完成させたようなものだ。……いいものを見せてもらったよ」
その言葉が、彼なりの最大限の祝福であることはすぐに分かった。
「ちょっとニク! 何カッコつけてんのよ!」
隣で鼻を真っ赤にして、ハンカチを握りしめているのはクミさんだった。彼女は我慢しきれないといった様子で僕の肩を豪快に叩く。
「もう……あんたたち、最高のコンビよ! あんなの、愛がなきゃ言えないわよ! 私、感動しちゃったじゃないの!」
クミさんは大粒の涙を流しながら、鼻を勢いよくかんだ。その騒がしさが、今の僕には何よりも救いだった。過去の醜い僕を知られても、ここでは「今の僕」を見てくれる仲間がいる。
「……和久井さん」
ふいに、少し離れた場所から名前を呼ばれた。
そこには、美月さんが立っていた。彼女の瞳には先ほどまでの騒動への驚きと、それ以上の深い悟りの色が浮かんでいた。
彼女は僕たちの方へゆっくりと歩み寄ると、僕ではなく紗良の目を見つめた。
「……分かりました。私には、和久井さんと紗良さんの間の鎖を解くことはできませんでした」
美月さんは寂しげに、けれどどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「和久井さんの飢えを満たせるのは、私の用意した温かな食事じゃない。……紗良さんの、その激しくて冷たい『毒』だけなんだもの。……負けました」
美月さんは僕に一度だけ深く頭を下げると、静かにその場を去っていった。彼女の背中は自由を奪われた僕を憐れんでいるのではなく、僕がようやく見つけた「終着駅」を認めてくれているようだった。
「……フン、当たり前じゃない」
紗良は美月さんの背中に向けて小さく呟くと、再び僕に向き直った。その瞳には、いつもの厳しい管理者の光が戻っていた。
「さあ、いつまで突っ立ってるの。仕事に戻るわよ。……それから、今日の夕飯のメニュー、さっきのストレス分を加味して、さらに100キロカロリー削るから。覚悟しなさい、ワワワ」
「……ああ、もちろんだ。頼むよ、紗良」
僕は微笑み、彼女の後を追った。
騒動が過ぎ去った後の市役所の廊下は、いつもよりずっと歩きやすく僕たちの足音は心地よく共鳴していた。




