第34話 究極の告白
丘の上で交わした誓いは、僕たちの関係を決定的なものに変えた。
かつての僕は、紗良の厳しい管理を「義務」や「義務感」で受け入れていた。でも今は違う。僕自身の意志が、彼女の支配をその息苦しいほどの愛を望んでいる。
市役所への帰り道、並んで歩く僕たちの距離は以前よりもわずかに近かった。
「ワワワ、勘違いしないでね。あんたを甘やかすつもりなんて一ミリもないんだから」
紗良は正面を見据えたまま、少しだけ不機嫌そうに、でもどこか安堵したような声で言った。
「明日からのメニューはさらに厳しくなるわよ。美月と食べたあのケーキの糖分、完全に燃やし尽くすまで、一歩も引かないから」
「……ああ、望むところだよ。徹底的にやってくれ」
僕の返答に、紗良は一瞬だけ驚いたように僕を見た。そして、ふいっと顔を背ける。
「……変な男。管理されるのがそんなに嬉しいわけ?」
「嬉しいよ。君の管理があるから、僕は僕でいられるんだ。君が僕を『最高傑作』と呼んでくれるなら、僕は一生、君の所有物として完璧であり続けたい」
それは、世間一般の「愛」とはかけ離れたいびつな告白だったかもしれない。
けれど、これこそが僕の本音だった。過剰な食欲という名の深い穴を、彼女の狂気じみた独占欲だけが隙間なく埋めてくれる。
「……なら、死ぬまで私のそばにいなさい。あんたの食事も、時間も、身体も……その心臓の鼓動一つまで、全部私が奪い続けてあげる」
彼女は立ち止まり、僕のシャツの胸元をぐいと掴んだ。その瞳には、誰にも邪魔させないという強い光が宿っている。
「あんたが私なしじゃ生きていけない身体にしてあげるわ。それが私の……愛し方なんだから」
僕が彼女の細い指を握り返そうとした、その時。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、静かな昼下がりの空気に響いた。
茂みの陰から現れたのは、あのカメラを構えた男――Pだった。
「……素晴らしい。実に素晴らしいよ、君たち」
Pは歪な笑みを浮かべ、液晶画面を確認しながら歩み寄ってきた。
「管理と隷属、拒絶と渇望。これこそが僕が求めていた究極の『愛の形』だ。……さあ、いよいよクライマックスといこうか。この狂気の愛を、世界中に見せつけてあげようじゃないか」
ー平和だったはずの僕たちの檻に、最後の、そして最大の危機が忍び寄ろうとしていた。ー
Pの出現により、張り詰めた甘美な空気は一瞬にして凍りついた。
彼は不敵な笑みを浮かべ、手にしたスマホを愛おしげに撫でている。そのレンズの奥にあるのは、純粋な好奇心などではない。他人を「エンタメ」として消費し、その人生をかき乱すことで快楽を得る、歪んだ執着だった。
「和久井くん、そして紗良さん。君たちの『完成された世界』を壊すつもりはないんだ。ただ、少しだけスパイスを加えさせてもらったよ」
Pが指差した先――市役所のロビーに向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
掲示板や壁、至る所に「ある写真」が貼り出されていたのだ。
それは、かつての僕だった。
泥にまみれ、顔を脂で光らせながら、必死にスナック菓子を口に詰め込んでいる、あの肥大化した孤独の象徴。今の僕からは想像もつかないほど醜く、惨めだった頃の僕。
「……っ」
通り過ぎる職員たちの冷ややかな視線が、針のように僕の肌を刺す。
「これ、和久井さん?」「嘘でしょう、まるで別人……」「不気味ね」
ひそひそ声が波のように押し寄せ、僕の足元がふらついた。過去という名の泥沼が、再び僕の足を掴んで引きずり込もうとしている。
(逃げたい。今すぐ、この場から消えてしまいたい)
視界が白く霞み、呼吸が浅くなる。あの日、空き地で石を投げられた時と同じ絶望が僕を支配しようとした、その時。
ギュッ、と。
僕の右手を、力強く、そして熱く握り締める感覚があった。
「……何よ。みんなして、私の『最高傑作』をそんなにまじまじと見て」
静かだが、凛とした声がロビーに響き渡った。
横を見ると、紗良が毅然とした態度で立っていた。彼女は僕の手を離さず、指を絡めるようにして深く握り直す。
「過去がどうだったかなんて、関係ないわ。この男を、どん底からここまで完成させたのは、この私よ。文句があるなら、直接私に言いなさい」
彼女は冷徹な眼差しで周囲を一蹴した。その圧倒的な気迫に、野次馬たちは気圧されたように散っていく。
紗良は僕の正面に回り込み、僕の眼鏡を指でクイッと押し上げた。
「ワワワ。前を見なさい。あんたの価値を決めるのは、あの写真じゃない。今のあんたを支配している、この私よ。……分かった?」
「……ああ。分かったよ、紗良」
震えていた僕の足に、再び力が宿る。
過去の自分を「素材」としてではなく、「研磨される前の原石」として全肯定してくれた彼女の言葉が、何よりの救いだった。
(……そうだ。僕はもう、誰にどう見られようと構わない)
僕は、クイと眼鏡を上げた彼女の手首を掴み、そのまま彼女の小さな体を僕の胸の中へと引き寄せた。
「えっ……ちょ、ワワワ……!?」
驚きで目を見開く彼女を、僕は逃がさないように強く、強く抱きしめた。
周囲のひそひそ声が、一瞬で驚愕の静寂へと変わる。石鹸の香りと、彼女の少し早くなった鼓動が僕の五感を支配していく。僕は彼女の肩に顔を埋めながら、掲示板の惨めな写真ではなく遠巻きに僕たちを見る人々、そして呆然と立ち尽くすPを真っ直ぐに見据えた。
「見てくれ。これが、僕の選んだ答えだ」
僕は、自分でも驚くほど落ち着いた声で会場に響くように告げた。
「過去にどんな醜い姿を晒していようと、今の僕の輪郭を作ったのは、紗良だ。彼女に管理され、支配されることが僕の誇りなんだ。……他の誰が僕を否定しようと、僕の価値を決める権利は、僕の『支配者』である彼女にしかない!」
「……っ」
腕の中の紗良が、微かに震えた。それは拒絶ではなく、彼女の独占欲が僕の愛に呼応した熱だった。彼女は僕の胸に顔を伏せたまま、震える手で僕の背中のシャツをぎゅっと掴み返した。
その異様なまでの「純愛」のオーラに、ロビー中が息を呑む。
そして、その光景を一番近くで見ていたPが、ついに膝から崩れ落ちた。
「い゛い゛はな゛し゛だな〜!!(負けだ、負けだ! 全く、これっぽっちも面白くない!)」
振り返ると、そこには涙をダバダバと流しながら地団駄を踏むPの姿があった。彼は手にしたスマホを放り出しそうになりながら、芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「和久井くん! 君、あそこで『ひどい! 過去の僕を晒すなんて!』って泣き崩れるのが筋だろう!? なんだい今の、その……一切の付け入る隙がない『純愛』は! こんなの、僕が求めていたバズるエンタメじゃない、ただの救いようのない惚気じゃないか!」
Pは真っ赤な顔をして、震える指先で僕たちを指差した。
「スキャンダルをぶつけているのに、当の支配者が『それが何か?』って顔で抱き合うなんて……! これじゃSNSで炎上させるどころか、見た人全員が『あ、これ勝てないやつだ』ってスマホを置いちゃうよ! 完敗だよ、完敗! 君たちのその、狂った絆の勝ちだ!」
Pは「エンタメの神様に見捨てられた!」と叫びながら、掲示板に貼った写真を自分で剥がして回収し始めた。
「もういい! こんな甘すぎる純愛、僕の手に負える代物じゃない! 逃げるよ! さよなら! 二度と僕のレンズの前に現れないでくれ、胸焼けがする!」
捨て台詞を吐き散らしながら、彼は脱兎のごとくロビーから走り去っていった。そのあまりに情けない「負け役」っぷりに、周囲にいた職員たちの間にも、呆れたような、それでいて少しだけ和やかな空気が流れ始めた。
今の僕にはその声さえも心地よいBGMにしか聞こえなかった。
どんな過去を晒されようと、どんな悪意に晒されようと。
僕の隣には、僕という存在を全肯定し、永遠に磨き上げ続けてくれるこの最強の支配者がいるのだから。




