第32話 夜の資料館、二人の残像
意識が浮上したとき、雨音はいっそう激しさを増していた。
ガード下の湿った冷気から逃れるように歩き出し、無意識のうちに辿り着いたのは、市役所の裏手にある古い資料館の前だった。
ここは、かつてPに追い詰められ、僕が醜い食欲の残滓を晒しそうになった場所。そして、紗良がその「守護者」として僕を奪い去っていった、僕たちの聖域であり独房でもある場所だ。
街灯の頼りない光に照らされた建物の影に、人影があった。
傘も差さず、ただ彫像のように立ち尽くしている。
「……紗良?」
僕の声に、その人影がゆっくりとこちらを向いた。
濡れた髪が白い頬に張り付き、事務服のブラウスは雨を吸って重そうに沈んでいる。いつもは僕を射抜くような鋭い彼女の瞳が、今は迷い子のようにおぼつかなく揺れていた。
「……遅かったじゃない。どこまで、歩き回っていたの」
声は震えていた。僕を見つけた瞬間、彼女の顔に安堵の色が広がったのを、僕は見逃さなかった。
激昂されると思っていた。美月さんと「自由」を謳歌してきた僕を、彼女なら徹底的に罵倒し、新たな矯正プログラムを叩きつけるはずだった。けれど、彼女はただ、悲しげな笑みを浮かべて僕を見つめている。
「おかえりなさい、私のワワワ。……お腹、空いていない?」
その言葉は、あの日、空き地で僕の菓子袋を奪った時の傲慢な響きとは、正反対のものだった。
そこにあるのは、僕を支配する者の余裕ではなく、自分の宝物を失うことを恐れる一人の脆い少女の祈りだった。
「美月さんと、楽しい時間を過ごしたんでしょう? 美味しいものを食べて、眼鏡を外して、普通の男の子として笑って……。私が奪ったものを、彼女は全部持っていたでしょう」
彼女は一歩、僕に近づいた。雨の匂いに混じって、かすかに彼女の体温が伝わってくる。
「……私、あんたの自由を奪いすぎたかしら。私のエゴであんたを縛り付けて、磨き続けることが、本当はあんたを苦しめているだけなんじゃないかって……」
彼女の指が、僕の濡れた頬に触れる。その指先は氷のように冷たく、けれど僕の心には美月さんがくれたどんな温かな言葉よりも深く、熱く突き刺さった。
自由。それは確かに、美しくて穏やかなものだった。
けれど、そんな真っ白な世界に、僕の居場所はなかった。
僕は、彼女に管理され、彼女の視線に削られ、彼女の手によって「宝石」という意味を与えられなければ、ただの空っぽな肉塊に戻ってしまう。
「……紗良、自由なんていらないよ」
僕は彼女の冷え切った手を、自分の両手で包み込んだ。
美月さんの隣で感じたあの空虚な空白を、今、目の前の彼女の絶望が完璧に埋めていく。
「君の管理なしじゃ、僕は自分が誰かも分からないんだ。お腹が空いたよ。君が決めた、君が許した、あの味気なくて厳しい食事を、僕に与えてほしい」
僕の言葉に、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、雨に混じって流れ落ちた。
彼女は僕の胸に顔を埋め、絞り出すように言った。
「……馬鹿ね。あんたは本当に、私がいなきゃダメなんだから」
資料館の重い静寂の中、僕たちは雨に打たれながら、再び強く、深く、その鎖を結び直した。
もう二度と、この檻から出ることはないだろう。
そして僕は、その絶望的なまでの独占を心から祝福している自分に気づいていた。




