第31話 紅蓮の救世主
空き地の隅、錆びついた土管の陰が僕の定位置だった。
手元には、スーパーの特売で買った大きなスナック菓子の袋。湿った空気の中、バリバリという咀嚼音だけが、僕がまだ「僕」として形を保っていることを証明していた。
「おい見ろよ、また食ってるぜ。和久井、そんなに食うからお前、豚みたいになるんだよ」
通りがかった同級生たちの嘲笑が飛んでくる。一人が石を投げ、僕の足元で泥が跳ねた。かつての「天使」への面影を必死に探しては、見つからないことに安堵し、彼らは僕を徹底的に見下すことで自分の優越感を確認しているようだった。
僕は何も言い返さない。ただ、塩まみれの指先を震わせながら、次の破片を口に放り込む。怒りも悲しみも、炭水化物の塊と一緒に飲み込んでしまえば、少しだけ楽になれる気がしたから。
「……汚ねえ顔」
不意に、頭上から冷徹な声が降ってきた。
見上げると、そこには夕日を背負って立つ一人の少女がいた。
真っ赤なリボンを揺らし、燃えるような眼差しで僕を見下ろす少女――紗良だった。
「ちょ、何だよお前」
「部外者はすっこんでろよ!」
囃し立てていた連中が紗良に詰め寄る。けれど、彼女は眉一つ動かさなかった。
「……あんたたち、うるさいわよ」
彼女は迷いなく一歩踏み出し、手にした習い事のバッグを振り回して、僕を囲んでいた連中を一人残らず文字通り叩き伏せた。圧倒的な気迫と容赦のなさに、さっきまで僕を嘲笑っていた少年たちは、捨て台詞を残して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静まり返った空き地で、僕は呆然と彼女を見つめていた。
彼女はゆっくりと僕の方を向くと、僕が抱えていた菓子の袋を無造作に奪い取った。
「な、何をするんだよ……!」
「黙ってなさい、この豚」
彼女は僕の胸ぐらを掴み、その小さな体からは想像もできない力で僕を自分の方へ引き寄せた。至近距離で見つめる彼女の瞳は、怒りに燃えているようでいて、同時に、奥底に眠る「何か」を確信しているようだった。
「あんたのその美しさは、私だけのものよ。世間のゴミみたいな視線に汚されて、肉の中に埋もれていいもんじゃないの。……私が、あんたを磨き直してあげる」
彼女の細い指が、僕の泥だらけの頬をなぞった。その指先は驚くほど熱く、僕の心の中にこびりついていた孤独の氷を、一瞬で溶かしていくようだった。
「今日からあんたは、私の『ワワワ』。私の下で、誰よりも輝く宝石になるのよ。……分かった?」
それは救済という名の、宣戦布告だった。
目の前の少女が差し出したのは、優しい手ではなく、僕を縛り上げ、削り出すための強固な「檻」だった。
けれど、僕はその檻の中にこそ、求めていた居場所があることを直感していた。
僕は震える声で、「……イエスマム」とだけ答えた。
空き地に伸びる二人の影が、一つの深い闇となって重なり合った。
あの日から始まったのは、慈悲なき「矯正」の日々だった。
学校が終われば、待ち構えているのは赤いリボンを揺らした小さな独裁者だ。彼女は僕の手から菓子袋を取り上げ、代わりに使い古された縄跳びを握らせた。
僕が十歩走るたびに膝をつき、脂の乗った汗を流して喘いでいても、彼女は「立ちなさい、この肉塊」と冷徹に言い放つ。僕の脚が棒のようになり、胃袋が痙攣して道端の雑草さえも食べたいと思うほど飢えていても、彼女の視線が僕を逃がしてはくれなかった。
けれど、地獄のような日を重ねるうちに、僕は気づいてしまった。
彼女はただ、僕を追い込んでいるわけではなかったのだ。
僕が放課後の校庭を何十周も走る時、彼女はいつも僕の数歩先を走っていた。
僕が夕食を抜いて空腹に震える夜、彼女は自分の食事も僕と同じ量まで削り、電話越しに僕が眠りにつくまで、荒い呼吸を整えながら本を読み聞かせてくれた。
「……苦しいのは、あんただけじゃないわ。あんたが宝石になるまで、私も一緒に削られてあげる」
それは、歪んだ共依存だったのかもしれない。
けれど、かつて僕を「天使」ともてはやし、醜くなった途端に背を向けた大人たちより、僕の醜態を凝視し、罵倒しながらも決して手を離さない彼女の方が、僕にはよほど聖女のように思えた。
ある夏の終わりの夕暮れ。
街外れにある急勾配の坂道を、僕たちは走っていた。
もう一歩も動けない。肺が焼けるように熱く、意識が朦朧として地面に倒れ伏した僕の横で、彼女もまた肩で息をしながら立ち止まった。
「……ほら、立ちなさいワワワ。あと少しで、てっぺんよ」
「……無理だ、紗良。もう、お腹が空いて……力が入らないんだ……」
情けなく涙をこぼす僕の前に、彼女は膝をついた。
そして、僕が背負っていた、重い参考書が詰まったリュックサックを無造作に自分の肩にかけ直した。自分だって限界のはずなのに。
「半分、持ってあげる。だから、歩きなさい。あんたの足で、あの夕焼けを見るのよ」
彼女に支えられ、泥まみれで辿り着いた丘の頂上。
そこから見えた景色は、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
贅肉が削ぎ落とされ、少しずつ「人間」の形を取り戻し始めた僕の隣で、彼女は満足そうに微笑んだ。
「見て。世界で一番美しいわ、今のあんた」
その時、僕は確信した。
彼女が僕を厳しく律し、支配しようとするのは、僕の本当の価値を――僕自身さえも見捨てた僕の「美しさ」を、世界でたった一人、狂信的に信じてくれているからなのだと。
僕の肉体を削り出し、僕という存在に「意味」という名の鎖を与えてくれたのは、紛れもなく彼女だった。
痛みの先にあるこの光を、彼女と一緒に見るためなら、僕はいくらでも「宝石」として飼い慣らされてもいい。
雨のガード下、僕はゆっくりと目を開ける。
頬を伝うのは、雨水か、それともあの日流した涙の続きか。
重い眼鏡を指で押し上げ、僕は夜の闇へと歩き出した。
向かう先は、決まっている。
僕を僕たらしめる、唯一の支配者が待つ場所へ。




