第30話 降り出した雨の記憶
美月さんと別れた後の駅前通りは、休日を惜しむ人々の喧騒に包まれていた。
「今日はありがとうございました。和久井さんのあんなに優しい笑顔が見られて、私、本当に嬉しかったです」
最後にそう言って、少しだけ名残惜しそうに手を振って去っていった彼女の背中。その暖かな余韻さえも、今の僕には自分を責める刃のように感じられた。
彼女がくれたのは、曇りのない「善意」だった。でも、その善意が、僕の中に潜む歪んだ本能を浮き彫りにしてしまった。
ポツリ、と額に冷たいものが当たった。
見上げると、先ほどまでの澄んだ秋空はどこへやら、厚い灰色の雲が街を覆い始めている。瞬く間に雨脚は強まり、アスファルトを叩く無機質な音が周囲の音をかき消していった。
「……くしゅん」
濡れたシャツが肌に張り付き、体温を奪っていく。
雨宿りをするために駆け込んだ古いガード下。そこは湿ったコンクリートの匂いと、暗がりが支配する場所だった。壁に埋め込まれた錆びついた鏡のようなステンレス板に、ずぶ濡れの男が映っている。
眼鏡の奥の瞳は虚ろで、頬は不自然なほどに削げている。
これが、紗良が磨き上げ、美月さんが「素敵」だと言ってくれた僕の姿。
けれど、雨に打たれ独りきりになった今の僕には、それが自分自身のものだとは到底思えなかった。
(……ああ、そうか)
激しい雨音を聞いているうちに、意識が遠のいていく。
この冷たい感覚。足元から這い上がってくるような絶望的な孤独。
僕はこれを知っている。ずっと昔、心の奥底に鍵をかけて封印したはずの、あの「泥」のような記憶だ。
なぜ、僕はあれほどまでに、胃袋が裂けそうになるまで食べ続けなければならなかったのか。
なぜ、あの冷徹で、独善的で、狂気に満ちた彼女の支配を、僕はこれほどまでに渇望しているのか。
水たまりに落ちる波紋が、鏡のように僕の意識を過去へと引きずり込んでいく。
雨音が、次第に幼い日の自分の泣き声に変わっていくのを感じた。
重い眼鏡の奥で、僕は目を閉じる。
視界が暗転し次に目を開けたとき、そこにはもう今の僕はいなかった。
いたのは、光り輝く「天使」ともてはやされ、そして音を立てて崩れ去っていく一人の哀れな少年の姿だった。
雨音に混じって、誰かの笑い声が聞こえる。
それは温かな賛辞のようでありながら、今の僕には標本箱に閉じ込められた蝶に向けられる冷ややかな観察眼のように思い出された。
ー僕の幼少期は、皮肉にも「美しすぎる」ことから始まった。ー
「まあ、なんて可愛らしい子。まるで天使のようだわ」
「和久井くん、こっちを向いて。まるでお人形さんみたい」
物心ついた時から、僕は周囲の大人たちにとっての「玩具」だった。
透き通るような白い肌、長い睫毛に縁取られた大きな瞳。親戚の集まりや近所の会合に連れ出されては、見知らぬ大人たちに頬を撫でられ、着せ替え人形のように着飾らされた。
彼らが愛でていたのは「僕」という人間ではない。自分たちの虚栄心を満たしてくれる、都合のいい「美しいオブジェ」だ。
「天使」というラベルを貼られた僕は、泣くことも、汚れることも、ましてや拒絶することも許されなかった。
その息苦しさから逃れる唯一の出口が、食欲だった。
最初は、誰にも見られない場所で隠れて食べるスナック菓子だった。
口の中に広がる強烈な塩分と油。それが、空虚な賛辞で満たされた僕の心を、物理的な重さで埋めてくれる気がした。
大人たちの前で微笑む「天使」を演じ終えた後、暗い部屋で貪る炭水化物だけが、僕に自分が生きているという実感を与えてくれたんだ。
十歳を過ぎる頃、魔法は解けた。
いや、自ら壊したのかもしれない。
ストレスを食欲で塗り潰し続けた僕の体は、限界を超えて膨れ上がった。
かつての繊細な輪郭は肉に埋もれ、首の境界線は消えた。大好きだったはずの大人たちは、僕を見るなり露骨に顔を顰めるようになった。
「……あら、和久井くん。随分……その、立派になったわね」
「昔はあんなに可愛かったのに。もったいないわ」
手のひらを返したような拒絶。
かつて僕を「天使」と呼んだ口から漏れるのは、今や「動く肉塊」への蔑みと、期待外れの商品を眺めるような冷笑だった。
同級生たちは僕を「豚」と呼び、僕が通り過ぎるだけでクスクスと笑い声を立てては、そっぽを向くようになった。
美しさを失った僕には、もう誰も触れようとしない。
あんなに嫌っていたはずの「視線」が消え、代わりに訪れたのは、肺の奥まで凍りつくような圧倒的な孤独だった。
僕はただ、泥まみれのベンチに座り、泥のような味のする安菓子の袋を開ける。
指先に付いた油を舐め取りながら、僕は思った。
(ああ、これでいいんだ。誰も僕を見なくていい。僕はただ、この空腹さえ満たせれば……)
そう自分に言い聞かせながら、溢れそうになる涙を、喉の奥に無理やり流し込んだ。
雨に濡れたガード下で、僕はあの日の、肥大した孤独に震えていた自分自身を抱きしめていた。




