第29話 鏡の中の空白
カフェを出て、僕たちは近くにある緑豊かな公園のベンチに座った。
秋の柔らかな木漏れ日が、美月さんのクリーム色のワンピースを黄金色に染めている。先ほど食べた苺のショートケーキの、暴力的なまでの甘さが胃の奥で重く沈んでいた。
「和久井さん。……あの、少しだけ、いいですか?」
美月さんが、僕の顔を覗き込むようにして身を乗り出した。
彼女の指先が、僕の視界を遮っている野暮ったい眼鏡のフレームに触れる。紗良が「外界の毒から守るための防壁」として僕に強要し続けている、重くて分厚い、時代遅れの眼鏡だ。
「……あ」
抵抗する間もなかった。彼女の細い指がスッと眼鏡を持ち上げると、僕の鼻梁にかかっていた不自然な重みが消え、頬を秋の風が撫でた。
「やっぱり……。外さなくても十分素敵ですけど、和久井さんは本当に息を呑むほど素敵ですね」
美月さんは、まるで壊れ物を愛でるような純粋な瞳で僕を見つめ、ふわりと微笑んだ。
眼鏡を外した僕の視界は、少しだけぼやけている。けれど、その朧げな世界の中で美月さんの笑顔だけが、鮮明に眩しく輝いていた。
「紗良さんは、この美しさを隠しておきたいのかもしれません。でも、私は……本当の和久井さんに、もっと自分を好きになってほしいんです。隠さなくていい、今のままのあなたが一番素晴らしいんですよ」
それは、僕がこれまでずっと誰かに言ってほしかったはずの言葉だった。
「デブ」と罵られ、肉の塊として扱われたあの日々。その後、紗良に助けられてからも、僕は常に彼女の「管理」というラベルを貼られた標本だった。
美月さんがくれるのは、ありのままの僕への肯定。支配も、強制もない、透明な優しさ。
「……ありがとうございます」
僕は美月さんに合わせて、精一杯の笑みを浮かべた。
彼女の期待に応えたかった。この穏やかで、救いに満ちた「普通」の瞬間を、心から享受しなければならないと思った。
(なのに……どうしてだろう)
美月さんの隣で笑えば笑うほど、僕の心は、鏡の中にポッカリと空いた空白を見つめているような感覚に陥っていた。
彼女が僕を肯定するたびに、僕の耳の奥には全く逆の冷徹な声がこだまする。
『動かないで。あんたは私の宝石なんだから、黙って磨かれていればいいのよ』
『また脂を摂取したの? この愚図。……今夜は徹底的に絞り直してあげるわ』
あの、低くて冷たい、有無を言わせない命令。
僕を人間としてではなく、自分だけの「秘宝」として、狂ったように管理し、独占しようとする紗良のあの異様な情熱。
美月さんの優しさは、僕に「自由」をくれる。でも、自由になった瞬間に、僕は自分が何者であるかを見失ってしまう。
僕を「和久井 輪」という輪郭に繋ぎ止めていたのは、彼女が首に巻き付けた、あの重苦しくて冷たい「管理」という名の鎖だったのだ。
「和久井さん……? 何か、悲しいことでも考えていますか?」
美月さんの不安げな声に、僕は慌てて眼鏡を奪い取るようにしてかけ直した。
フレームが鼻に当たる鈍い感触。視界が再びクリアになり、と同時に僕は奇妙な安堵を覚えた。
「いえ……。少し、風が冷たかっただけです」
僕はもう一度、美月さんに笑いかけた。
けれど、その笑顔はもう自分でも分かるほど空虚なものだった。
僕の心は美月さんの隣にいながら、あの自分を冷たく射抜く支配者の声を狂おしいほどに求めていた。




