第3話 説教
夕刻。
仕事を終えたワワワが、重い足取りで向かったのは、街の路地裏にひっそりと店を構えるバー『La Cave』だった。この店の重厚な扉を開けるのは、いつだって処刑台に登るような心地だ。
カウベルが小さく鳴る。
店内は薄暗く、カウンターの奥にはオーナーの”ね”ちゃんが立っている。彼はワワワを一瞥し、何も言わずに冷たい水を出した。
「……来たわね」
カウンターの最奥。そこには、不機嫌を絵に描いたような顔で座る紗良がいた。
彼女の手元には、大ぶりで豪奢なカクテルグラスが置かれている。細い指先がそのステムを弄び、液体を小さく揺らしていた。
陶器のような肌に、整った顔立ち。そして、その首筋から下――。
本人が「徹底した管理の証」と言い張る、起伏の欠片もない平坦な胸元(つまり単なる幼児体型である)が、焦燥で微かに上下している。
「紗良。あの、動画の件だけど……」
「座りなさい。あと、眼鏡を拭きなさい。指紋がついているわ」
冷徹な声。ワワワは言われるがまま隣に座り、震える手で眼鏡を拭く。
紗良はスマホを取り出し、画面をワワワに向けた。そこには”P”が投稿した例の動画が再生されている。
「視聴回数、現時点で12万。コメント欄を見て。」
『この食べっぷり、最高に雄を感じる』。といった野獣のような食事風景に対したコメントが大半だが、それらに紛れて、『この眼鏡の奥、実はすごいイケメンじゃない?』『この骨格、磨けば絶対光る』……といったコメントがちらほら存在している。
「和久井 輪」
紗良が鼻がくっつくほどに顔を近づけ、急に本名で呼び捨てる。ワワワの心臓が跳ねた。
「私が苦労して、その分厚いレンズの奥に隠し続けてきた『私の宝もの』が、安っぽいSNSの数字稼ぎに暴かれようとしているの。……この意味がわかる? 眼鏡という防壁が壊れれば、ハイエナのような女たちがあなたの顔を求めて群がってくるわ。……そんなこと、私が許すと思う?」
ワワワの顔の間近で一気呵成に攻め立てる彼女の目はガンギマリ状態で軽いホラーだ。
「も、申し訳ありません。でも、あの時はどうしても空腹が……」
「空腹? 私が今朝、あなたのデスクに置いた栄養ゼリーはどうしたの?」
「……ニク課長が『君の唇と同じ質感がたまらないねぇ』って、代わりに吸っちゃいました」
「あのおっさん、一回法的に消去すべきね」
紗良は深いため息をつき、ワワワの顎をクイと持ち上げた。
「いい、ワワワ。あなたは私のものなの。私が自分の……この、栄養すら行き届かない身体を犠牲にしてまで、世間の目から隠し通してきた大事な『秘密』。それを他人に覗かせていいわけがないの」
紗良の平坦な胸元に視線が行きそうになり、ワワワは慌てて目を逸らした。彼女にとって、この身体のラインはワワワの管理を優先させているという「献身」の象徴であった。
その時、カウンターの入り口付近で、短い声が響いた。
「……生一つ」
常連の”あ”さんだ。彼はカクテルが主役のこの店で、一切の迷いなくジョッキを煽る。その無機質なやり取りが、逆にこの場の緊張感を際立たせた。
「……とにかく」
紗良がワワワのぶ厚い眼鏡を指で押し戻し、その瞳を至近距離で睨みつける。
「明日から一週間、昼食は私の目の前で食べること。そしてその眼鏡、絶対に外さないこと。もし誰かに素顔を晒したら……」
(「二度と外の世界に出られないくらい私の支配を脳に刻み込み、いや物理的に縄で縛り付けて……」)
「は、はい……」
後半はブツブツと独り言のようで最後まではっきりとは聞こえなかったがとりあえず肯定をしておくのが正解と考えワワワは首を縦に振る。
しかし、彼らの知らないところで、物語はさらに加速していた。
バーの扉のすぐ外。闇に紛れて、二つの影がヒソヒソと話し込んでいる。
「テストの隠密行動」
「ちょっとテスト、あんまり近づくとバレちゃうよ。でも……」
美の化身、美月が扉の隙間から中を窺う。
「動画の野獣とは全然違う。あの女の人の前だと、まるで借りてきた猫みたい。……面白い。ねえ、明日からもあの人、追っかけてみない?」
好奇心で月のように煌めく美月の瞳。
ワワワの「素顔」という隠された宝石を巡り、少女たちの戦いは新たな局面を迎えようとしていた。




