第28話 偽りの解放、美月との一日
日曜日の朝。雲一つない秋晴れの空は、皮肉なほどに澄み渡っていた。
待ち合わせ場所に現れた美月さんは、その柔らかな雰囲気に誂えたような淡いクリーム色のワンピースに身を包んでいた。風に揺れる裾と、柔らかく整えられた髪。彼女が僕を見つけてパッと顔を輝かせるたび、その周りだけ温度が数度上がったような錯覚に陥る。
「和久井さん、お待たせしました! ……ふふ、今日は本当に『内緒』の休日ですね」
彼女の屈託のない笑顔は、眩しすぎて直視できなかった。
昨日の夕暮れ、資料室で見た紗良の寂しげな背中が、今も網膜の裏側に焼き付いている。あんなに弱々しい彼女を見たのは初めてだった。僕のシャツの裾を掴んだあの指先の震えを思い出すたびに、胸の奥を冷たい風が通り抜けていく。
「さあ、行きましょう。まずは、ずっと気になっていたカフェがあるんです」
美月さんに腕を引かれるままに歩き出す。
彼女が連れて行ってくれたのは、街で人気の『パティスリー・リュミエール』だった。店内はバターと砂糖が焦げる甘美な香りに満ち、色とりどりの宝石のようなケーキがショーケースに並んでいる。
「和久井さん、今日は我慢しなくていいんですよ。……どれでも、好きなものを」
美月さんは僕の体調を気遣うように、そっとメニューを広げてくれた。
紗良なら、メニューを見た瞬間に「砂糖の致死量よ」と吐き捨て、炭酸水以外を注文することを許さないだろう。でも、目の前の美月さんは「どれも美味しそうですね」と、僕と一緒に選ぶことを楽しんでいる。
そこには、僕を縛り付ける「管理」も、背筋を凍らせる「恐怖」もなかった。
「……これ、にします」
僕が選んだのは、溢れんばかりの生クリームと大粒の苺が乗った、三層仕立てのショートケーキだった。運ばれてきたそれは、僕の一食分の規定カロリーを優に超えているだろう。
「どうぞ、召し上がれ。和久井さんの、本当の幸せのために」
美月さんの優しい声に促され、僕はフォークを銀色の層に突き立てた。
一口、口に運ぶ。
舌の上でとろける濃厚なクリームと、スポンジに染み込んだ甘いシロップ。それはまさに、僕の脳が、僕の肉体が、飢餓の底から求め続けていた「ご馳走」そのものだった。
美味しい。間違いなく、美味しいはずなのに。
「……っ」
咀嚼するたびに、心の中に冷たい空洞が広がっていくのを感じた。
甘い。あまりにも甘くて、優しい。けれど、その優しさには「スパイス」が足りなかった。僕を突き放すような罵倒も、震えるほどの独占欲も、僕の食事をミリ単位で監視するあの鋭い視線も、ここには何一つ存在しない。
(……なんでだろう。全然、満たされないんだ)
一口食べれば、もっと食べたくなる。
でもそれは、幸福感からくるものではなく、自分という存在が希釈されていくような、底知れない不安からくる渇望だった。紗良のあの狂気じみた支配がなければ、僕の食べるという行為は、ただの「作業」に成り下がってしまうのだろうか。
「和久井さん……? お味、お口に合いませんでしたか?」
美月さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。
僕は咄嗟に「……いえ、すごく美味しいです」と嘘を吐いた。
穏やかで、優しくて、救いに満ちた「普通」の休日。
けれど、僕は自分の心が、あの厳しい管理の下へ帰りたがっていることに気づいてしまった。
この甘い解放は、僕にとっての真実ではない。
一口ごとに僕を虚しくさせるこのケーキは、ただの「偽りの自由」という名の劇薬だった。




