第27話 美月の誘い、紗良の沈黙
昨日、紗良がくれたカツサンドの脂の甘みが、まだ舌の裏側にこびりついているような気がした。
皮肉なものだ。彼女がくれた「許し」という名のその一切れは、僕の空腹を満たすどころか、眠っていた本能を乱暴に叩き起こしてしまった。絞りすぎた僕の肉体は、栄養を求めて絶え間なく悲鳴を上げている。視界の端が時折ちかちかと白く光り、自分の足取りがどこか他人事のように心許ない。
「……和久井さん、無理は禁物ですよ」
市役所の非常階段の踊り場。美月さんは僕の様子を伺うようにそっと隣に並んだ。彼女からは紗良のとはまた違う、陽だまりのようなどこか懐かしくて甘い香りがした。
「今度の日曜日、一日だけ……わたしに時間をくれませんか?」
美月さんの声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「紗良さんに内緒で街へ行きましょう。わたしが和久井さんを自由にします。重い眼鏡も、厳しいカロリー計算も全部忘れて。……お腹いっぱい、好きなものを食べさせてあげたいんです」
自由。そして、満腹。
それは今の僕にとって、どんな宗教の救いよりも甘美で毒々しい響きを持っていた。紗良を裏切ることになる。それは分かっている。けれど、ふらつく意識の中で僕は、彼女の差し出した救いという名の「共犯関係」に、抗うことができなかった。
その日の夕暮れ。僕は重い足取りで広報課の資料室へ向かった。
窓の外は、血のような夕焼けが街を塗り潰そうとしている。影の中に立つ紗良に、僕は美月さんとの一件を告げた。隠し通せる相手ではない。何より、僕の中に残った僅かな良心が彼女の糾弾を求めていた。
「……日曜日、美月さんと出かけてくる」
怒声が飛ぶと思った。あるいは、冷徹な言葉で僕を縛り上げるのだと。
けれど、返ってきたのは、鼓膜に届くかどうかの微かな沈黙だった。
「……そう。好きにすれば」
紗良は僕を見ようともせず、ただ俯いたまま力なくそう言った。
いつもの傲岸不遜な支配者の姿は、そこにはなかった。逆光の中に浮かび上がる彼女の肩は、驚くほど細く頼りなく見える。
「紗良……?」
僕が戸惑って声をかけると、彼女は一歩だけ僕に歩み寄った。
そして、震える指先で、僕のシャツの裾をほんの少しだけ縋るように掴んだ。
(……行かないで)
そんな声が聞こえた気がして、胸の奥が鋭く痛んだ。
けれど、彼女はすぐにその指を離した。まるで、何かに弾かれたかのように。
「私には、あんたを止める権利なんて……よく考えたらなかったものね。……もう行って」
突き放すような言葉。けれど、その声は微かに震えていた。
背を向けて去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は得体の知れない喪失感に襲われた。
自由を手に入れるための切符は、手の中にあった。
でも、どうしてだろう。美月さんが約束してくれたはずの「満腹」が、今は何よりも虚しく、遠いものに感じられて仕方がなかった。




