第26話 綻びゆく静寂
【ワワワ視点】
バー『La Cave』でのあの一夜。ねちゃんが僕の胃袋に添えてくれた「許し」という名のナッツ一粒は、僕と紗良の間にあった張り詰めた糸を、ほんの少しだけ緩めてくれたような気がした。
「……感謝しなさいよね。あんたが最近、あまりにもフラフラしてて見てられないから、特別にサービスしてあげただけなんだから。別に、あんたが可哀想だと思ったわけじゃないわよ?」
差し出されたのは、いつもの「茹でたささみと温野菜」といった無機質な低カロリー弁当ではなかった。包みを開けると、そこには厚切りのロースカツが贅沢に挟まり、隠し味にマヨネーズが微かに光る、ボリューム満点の特製カツサンドが鎮座していた。
彼女は相変わらずツンと突き放した言い方をするけれど、その頬は微かに紅潮している。僕の幸せを願ってくれている――そんな温かな温度が、彼女の厳格な管理の中に確かに混じり始めていた。
「……いただきます」
震える手でカツサンドを口に運ぶ。噛みしめた瞬間、溢れ出す肉の旨味と衣に染みた油の甘みが、乾ききっていた僕の細胞一つ一つに染み渡っていく。暴力的なまでの美味しさに目頭が熱くなった。
でも、一度知ってしまった「本当の自由」の味は、僕の胃袋を静かにけれど着実に蝕んでいた。彼女の作る完璧な栄養バランスの食事は、今の僕にはどれだけ健康に良くてもどこか「刺激」が足りない。僕の細胞の奥底がもっと暴力的な脂や、猛烈な塩分を求めて夜な夜なうずき出すのを感じる。
お昼休み、僕は窓の外で揺れる街路樹を見つめながらこっそりと自分の腹をさすった。管理という名の鉄の檻に守られながら、僕の魂はもっとワイルドな何かを渇望している。紗良の愛の深さを知れば知るほど、それを裏切ってでも食べたいという背徳的な食欲が、僕の中の良心の境界線を越えて膨れ上がっていくのが分かった。
「和久井さん? 何か悩み事ですか? さっきからずっとため息ばかりついていて……」
不意に背後から声をかけられ、僕は心臓が止まるほど飛び上がった。振り返ると、そこにはいつものように、控えめながらも真っ直ぐな笑みを浮かべた美月さんが立っていた。
「あ、いえ……! 何でもありません。ちょっと、考え事をしていただけで……」
「そうですか。……もしよろしければ、この後少しだけお話ししませんか? 和久井さんのためにとっておきの場所を見つけたんです」
彼女の瞳は、紗良の鋭いそれとは違う、底なしの優しさに満ちていた。その誘いが、僕をさらに深い「欲望の渦」へと引きずり込もうとしていることに、僕はまだ気づかないまま……。
「……ええ、いいですよ」
僕は、自分でも驚くほど自然に頷いてしまっていた。
紗良への罪悪感と、どうしても抑えきれない食欲の狭間で、僕の穏やかな日常はまた少しずつ音を立てて崩れ始めていた。その先にあるのが地獄だとしても、今の僕にはその甘い誘惑を振り切る勇気がどうしても見つからなかったんだ。




