第25.5話 バー『La Cave』で…
重厚なオーク材の扉を開けると、カサブランカの強い香りと、低く流れるチェロの調べが氷川紗良を迎え入れた。市役所での鉄面皮を脱ぎ捨てた彼女が向かったのは、街の片隅に佇むバー『La Cave』。
「いらっしゃい、紗良。相変わらず色々あったみたいだな。フフッ、今にも誰かを刺しそうな顔してるね」
カウンターの奥で、琥珀色のグラスを磨きながら不敵に微笑むのは、この店のオーナー”ね”ちゃんだ。そしてカウンターの端、影に沈むような特等席には常連の”あ”さんが座っていた。
「……ねちゃん。それに、”あ”さんもいたのね」
あさんは答えなかった。視線さえ動かさず、ただ目の前のジョッキをじっと見つめている。この静謐なバーにあって、彼が注文するのは常に一つ。
「……生」
彼が今夜初めて発したその一言に応じ、ねちゃんが手際よく黄金色の液体を注ぐ。きめ細やかな泡がジョッキの縁を飾り、あさんはそれを無造作に掴むと、一気に喉を鳴らした。
「……ぷはぁ」
それ以外、彼は何も喋らない。しかし、その圧倒的な「飲みっぷり」と「充足感」を体現する背中は、今夜の紗良には暴力的なまでの説得力を持って迫ってきた。
「分かるかい? 紗良。”あ”さんのあの幸せそうな顔。……君は、ワワワからあれを奪いすぎなんだよ」
ねちゃんがキリッと冷えたカルーアミルクを出しながら、声を潜めた。
「芸術品を保存するには適正な湿度が必要。紗良がやってるのは『乾燥』。このままじゃ、せっかくの最高傑作が脆くなって崩れてしまうぞ。”あ”さんを見てみなよ。彼があんなに静かなのは、あのジョッキ一杯の『許し』が喉を潤しているからさ」
紗良は、黙々と生ビールを流し込む”あ”さんの、どこか野生味を感じさせる横顔を盗み見た。もし、自分の管理が限界を超え、ワワワから「潤い」を完全に奪ってしまったら。彼は”あ”さんのように静かに座っていることさえできず、外の世界に溢れる甘い誘惑……あの美月という女が差し出す、安っぽくも温かい救いに縋ってしまうのではないか。
「……独占するというのはね、ただ縛ることじゃない」
”ね”ちゃんが、小さな小皿に盛られた燻製ナッツを紗良の前に置いた。「これは俺からの助言。紗良が自分の手で、ワワワに『許し』を与えるんだよ。君の手から与えられる一粒の毒が、彼を一生君の檻に繋ぎ止める薬になるんだから」
”あ”さんがジョッキを空にし、無言で席を立ちこちら側に歩いてきた。彼はカウンターに千円札を置き、”ね”ちゃんに短く告げた。
「……もう一杯」
「はいはい、毎度」
彼の「注文以外は喋らない」という徹底した美学は、言葉以上に紗良の胸を打った。彼をこれほどまでに寡黙に従順(?)にさせているのは、この一杯のビールという「報酬」なのだ。
帰り道、秋の夜風に吹かれながら、紗良はバッグの中のナッツの袋を強く握りしめた。
翌朝、市役所でワワワにハーブティーを差し出した彼女の瞳には、以前のような冷徹さだけでなく、壊れ物を扱うような、微かな「慈しみ」の色が混じっていた。
「……ワワワ。今日の午後、一粒だけ……ナッツを許してあげるわ」
その言葉を聞いた時の、ワワワの弾けるような笑顔。
それを見た紗良は、敗北感と共に、言葉にできない甘美な充足感を覚えたのだった。




