第19話 奇跡の一枚
「……そこまでよ、食欲のバカ息子ッ!!」
冷徹な声と共に、ワワワの首筋に冷たい感触が走った。紗良が追いつき、予備の冷感タオルをワワワの顔面に叩きつけたのだ。
「うっ……あ、マスタード……ドッグ……」
視界を奪われ、鼻腔を冷気が支配する。ワワワの指先は、あと数ミリのところでアメリカンドッグを捉えきれず、空を掴んだ。
「テストの鎮静化」
「和久井さん、しっかりして! ほら、特製『美月の愛情ドロドロ・パワフルゼリー(高カロリー)』です! 飲み込んで!」
美月がクーラーボックスを開け、パウチ型のゼリーをワワワの口元へねじ込む。ワワワはそれをズボボボッッと吸い込み、ようやく理性の岸辺へと這い上がった。
一方、その惨状をプールサイドから眺めていたニク課長は、自身の銀色に光る腹肉を波打たせながら立ち上がった。
「あぁ……なんという残酷なディストピア。食を渇望する若き獅子と、それを阻む美しき看守たち。……クミくん、これこそが現代の『地獄の門』だとは思わないかね」
「アンタの腹の方が公共の地獄よ! さっさとシャツ着なさい!」
クミが脱ぎ捨てられた課長のワイシャツを顔面に投げつけるが、ニクはマトリックスばりのスローでかわし、再び自慢の水着を「パチンッ!」と不快な音で鳴らした。
その時、今まで撮影中には一言も喋ることも無かったカメラマンが震える声で叫んだ。
「……撮れた……撮れちゃいましたよぉぉ!! 氷川さん、これ歴史が動きますよ!!」
モニターに映し出されたのは、Pが撮影したあの一枚。
髪から滴る水滴に濡れた芸術品のような顔、鍛え込まれた彫刻のような肉体、アメリカンドッグを求める、餓えた獣のような切実な眼差し。そして、その背後で必死に彼を止めようとする紗良と美月の、躍動感あふれる美しさ。
加えて、プールサイドの遠くの方で、”銀色の何か(ニク課長の腹)”が謎の光を放ってボケているのが、奇跡的な遠近感を生み傑作となっていた。
「……悪くないわね」
紗良がモニターを覗き込み、不敵に微笑む。
「肉体美、躍動感、プールサイドの活気。これこそが、市民の購買欲……じゃなくて、プールへの突撃欲をビンビンに刺激する素晴らしいポスターよ!」
「でも氷川さん、これじゃ和久井さんが食いしん坊さんなのがバレちゃいませんか?」
美月が心配そうに言うが、紗良は聞いちゃいない。
「いいえ。これはもはや名作の絵画よ」
ワワワの素顔を世間の目から隠して独り占めしたいという当初の紗良の感情は一時的に抜け落ち、芸術の美を追及する姿がそこにはあった。
そうしてポスターの写真が決まった後の少しの自由時間。
「……あ、あの。私も、一応準備してたんですけど……」
美月が恥ずかしそうに、羽織っていたパーカーのジップを下ろした。
そこに現れたのは、フリルがついた清楚ながらも、「その面積で本当に大丈夫か!?」と全男子が心配するほど大胆なカッティングの「純白のビキニ」だった。パーカーを脱いだその瞬間、ドッカアァンという重低音が響いた(ような気がした)。収まりきらない柔らかな肉感が、極小ビキニの境界線でプルンと弾み、滑らかな肩からくびれたウエスト、そして意外にも引き締まった腹筋へと至る黄金の造形が、プールサイドに眩しすぎる光を放った。
「わ、和久井さんに元気を出してもらおうと思って、その……」
彼女が水着姿になった瞬間、そこは市民プールではなく、古の女神が降臨した神殿へと変貌を遂げた。プールに飛び込もうとしていた男は空中で静止し、談笑していたものたちは杯を手に持ったまま石像と化した。まさにヴィーナスの誕生、人々は抗えない磁力に引かれるように、その「奇跡」から目を逸らすことができずにいた。
ワワワはゼリーを吸う手を止め、美月の姿を凝視した。
「……ワ……ワワ……ワンダホー(Wonderful)……」
ワワワの魂が抜けたような呟きを聞いた瞬間、紗良の脳内で何かが音を立てて切れた。
「ちょっ……、ちょっと待ちなさい! 何よその格好、破廉恥だわ! 露出面積と仕事の能率には負の相関があるって統計が出てるのよ! 今すぐその不純な胸をしまいなさい!」
紗良は真っ赤な顔で美月の前に立ちはだかり、両手を広げてワワワの視界を遮ろうとする。しかし、動揺のあまり足元のサンダルが滑り、おっとっと、と情けなく、生まれたての小鹿のような情けないダンスを披露する羽目になった。。
(……な、なによあの暴力的なまでの肉感! 許せない、私のワワワをこんな破廉恥な方法で誘惑するなんて……!)
「紗良さん、そんなこと言って……お顔が真っ赤ですよ?」
「う、うるさいわね! これは日焼けよ、日焼け! ほら、ワワワ! そっちを見ちゃダメ、私のこの……この、知的な事務服姿でも見てなさい!」
紗良は必死に自分のブラウスの襟元を正し、モデルのようなポーズを決めようとするが、慌てすぎてボタンを掛け違えていることに気づかない。ワワワは困惑しながらも、再び漂ってきたアメリカンドッグの匂いに、静かに鼻をひくつかせた。




