第18話 空腹のダイブ
「はい、完璧よワワワ。そのまま、少しだけ顎を引いて……そう、『輸出用高級ブランド牛』のような気高い表情で…!!ぐへ、ぐへへへ!」
置物と化したカメラマンを無視し、よだれを垂らさんばかりの「ぐへへ顔」で指示を飛ばす紗良。その興奮に煽られ、ワワワはもはや自分を本物のダビデ像だと思い込み、プールサイドの階段でパツパツの筋肉をこれでもかと光らせていた。
「テストの心拍数爆上がり」
しかし、その「完成された肉体美」の内側では、凄まじい飢餓の嵐が吹き荒れていた。そしてついに、その瞬間が訪れる。
(……クッ、きたキタキタぁぁっ!! 油の海で衣がジュワワワァッと歓喜の産声を上げる音……! 砂糖と塩の禁断のハーモニーが熱風に乗って俺を殴りにくる……!)
プールの外、撮影会に合わせてプレオープンする予定だった売店のシャッターがガラガラと開いた。試作中だった「揚げたてアメリカンドッグ」が、こんがりときつね色の衣をまとってカウンターに並べられたのだ。その暴力的に甘く香ばしい香気は、塩素の匂いを軽々と突き抜け、ワワワの鼻腔をジャックした。
「あぁ……完成された肉体が黄金の果実に吸い寄せられていくね……」
銀色の水着の下にメタボ腹をたわわに実らせたニク課長が、アンニュイな吐息を漏らす。彼はプールサイドのベンチでトドのように横たわり、自身の腹をゆっくりとなで回していた。
「ニク! 撮影の邪魔だからその腹引っ込めなさいよ!!」
クミの怒声が響くが、ワワワの耳にはもう届かない。彼の瞳から理性の光がスッと消えた。
「和久井さん? どうしたんですか、そんなに鼻をヒクヒクさせて……」
美月が不安げに覗き込んだ、その直後だった。
「…………ッッ!!!!」
ワワワは無言のまま、弾かれたようにプールサイドを駆けた。
バシャアァァッン!
美しい飛び込みではない。それは、獲物に向かって最短距離で突っ込む「野獣の跳躍」だった。
「ワワワ!? どこ行くの、まだ撮影の『ベストボディタイム』は終わってないわよ!」
紗良の制止も虚しく、猛烈な水飛沫を上げながら、ワワワは最短距離で売店へと向かってプールを横断し始めた。
(遅い。世界が、遅すぎる。この水の粘り気すら、俺の行く手を阻む敵だというのか。見ろ、この青いタイルの一枚一枚が、俺の周りで悲鳴を上げているのが聞こえる。……まだだ、まだ速い。俺という矢が、揚げたてのアメリカンドッグを貫くまでは、決して呼吸を許さない。)
「テストのカジキマグロ」
「待ちなさいワワワ! そのアメリカンドッグが、私の積み上げたカロリー計算を……数千年の文明を崩壊させるのよ!」
紗良が厚底のビーチサンダルを脱ぎ捨て、裸足でプールサイドを全力で並走する。
「和久井さん、ダメです! それを食べるなら、せめて私の特製『愛情入りドロドロゼリー』を吸ってくださいーっ!」
美月も重いクーラーボックスを引きずりながら、必死に後を追う。
だが、飢えた野獣は止まらない。
プールの縁にガバァッと手をかけ、濡れた体のまま売店のカウンターへ身を乗り出した。その筋張った指先が、カリカリに揚がったアメリカンドッグの串に触れようとした、その時。
カシャリ。
「……いい表情だ。今回もまた、良いネタになりそうだね」
売店の陰から、Pが冷徹な笑みを浮かべてシャッターを切っていた。
その頃、ニク課長はプールサイドで一人、銀色の布地の下の腹肉を揺らしながら陶酔のポエムを詠っていた。
「あぁ……これぞ、未完の官能。届かぬ愛こそが、最も美しい……」




