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たくさん食べていいですかっ!?  作者: ニクものがたり


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第1話 野獣の咆哮

和和和わわわ市役所の市民課。古い換気扇が回る低い音と、絶え間ないキーボードの打鍵音が混ざり合うこの空間で、和久井わくい めぐる――通称ワワワは、死んだ魚のような目で住民票の発行ボタンを押していた。


度の強い厚いレンズの眼鏡に、サイズの合っていないどこか野暮ったいワイシャツ姿。猫背気味の姿勢も相まって、彼は市役所という組織の背景に完全に溶け込んでいた。


「……はぁ」


小さく漏れた溜息は、隣のデスクに座る巨躯によってかき消された。


「ちょっと、ワワワちゃん。そんな湿気た顔してると、幸せが逃げちゃうわよ? ほら、私の特製プロテインバー、半分あげるから」


太い指先で差し出されたのは、銀色の紙に包まれた謎の塊だ。差し出し主はたすけ 久未くみ。通称クミ。盛り上がった上腕二頭筋をピンク色のポロシャツに押し込めた、市民課が誇るガチムチ系のオネエである。


「ありがとうございます、クミさん。でも、今食べると紗良にバレるんで……」

「あら、あの小姑ちゃん? 厳しすぎるわよねぇ。男の子は食べてナンボよ」


クミがワワワの肩をポンと叩く。その衝撃でワワワの眼鏡が少しずれた。その時だった。背後から、湿り気を帯びた低い声が耳元に滑り込んできた。


「……いい、……きだねぇ」


ワワワの背筋に、氷を這わされたような戦慄が走る。

二句にく 郁男いくお課長。彼は、仕立ての良さそうなスーツを着てはいるものの、ボタンの間から今にも弾け飛びそうな、パンパンに張ったメタボ腹を揺らしながら歩いてくる。この課の主であり、言葉をポエムという名の毒に変える男だ。ニク課長は、ワワワの腰のラインをじっと見つめ、ねっとりとした口調で続けた。


「和久井くん。君のその、デスクに向かう時の背中の曲線……。まるで、夜空に独り取り残された、孤独な三日月のようだ。あぁ……指でなぞって、満月にしてあげたいよ……」

「か、課長。仕事の話以外は、その……」

「フフッ。照れなくていい。君の鎖骨に溜まった雨水で、私は喉を潤したい。そういう種類の男なんだ、僕は」


ニク課長の手が、ワワワの肩に置かれたクミの手に重なる。

「ちょっと課長! 私の瑞々しい大腿四頭筋を差し置いて、この子を口説くなんて百年早いわよ!」

「クミくん、君は……そう、枯れない向日葵だ。だが今この場は、三日月が輝く夜なんだよ……」


二人の濃すぎるキャラクターに挟まれ、ワワワは「早く昼休みにならないか」と、それだけを祈っていた。


正午を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、ワワワは脱兎のごとく席を立った。

彼の手には、風呂敷に包まれた不自然に大きな長方形の塊がある。


市役所の裏手。雑草がまばらに生えた古いベンチが、彼の聖域サンクチュアリだった。

ワワワは周囲を警戒するように見渡す。特に、同じ市役所の広報課にいる幼馴染の紗良の姿がないかを。


「……よし」


風呂敷を解く。現れたのは、市販の弁当箱三つ分はあろうかという、自家製の特大タッパーだ。普段は幼馴染の紗良によって彼の食事は野菜中心となるよう厳格に管理されているはずだった。しかし、その巨大過ぎるタッパーの中には茶色い唐揚げが山脈のように連なり、その隙間を埋めるようにマヨネーズが和えられたパスタと、ギチギチに詰められた白米が鎮座している。


その瞬間、彼の瞳から「善良で凡庸な公務員」の光が消え、飢えた捕食者の色に染まる。


「ウおおおぉぉぉぉ……ッ!」


魂の底から絞り出すような低い咆哮。

箸などという繊細な道具は、今の彼には微睡まどろっこしい。

大きな唐揚げを二つ同時に口へ放り込む。

バリリっ!、と衣が砕ける音が響く。咀嚼。強靭な顎が、肉の繊維を容赦なく断ち切る。

「……んぐっ、ふぅ……ッ!」

続けて、白米の塊を口いっぱいに押し込む。頬がリスのように膨らみ、喉が力強く上下する。

それはもはや食事ではなく、生命の謳歌であり、暴力的なまでの本能の爆発だった。

普段の謙虚な姿勢はどこへやら、彼は獣のように前屈みになり、ただひたすらに「食」という快楽に没頭していた。


その様子を、数十メートル離れた植え込みの中から、高性能なスマホのレンズが捉えていた。


(……見つけた。これだ、これこそが『バズ』の種だ)


指先だけで画面を操作する影があった。SNS上の表示名は「P」。

Pは、カメラ越しに映るワワワの豹変ぶりに、薄い唇を吊り上げた。

市役所の地味な役人が、「食事」で野獣と化す衝撃映像。Pは迷わず録画ボタンを押し、ハッシュタグを並べ立ててタイムラインへと放流した。


それから数分後。

街の反対側にあるカフェで、その投稿を眺めている若者たちがいた。


「テストの圧倒的野獣感。……草」


無機質な声で呟いたのは、テストという美女だ。隣で画面を覗き込む美月が、目を輝かせる。

「えー! 何これ、凄くない!? この人、食べる時だけ別の人が憑依してるみたい!」


そんな、外部で広がり始めた波紋など露知らず、ワワワは口の端にマヨネーズを付けたまま、最後の一粒を飲み込み、天を仰いで大きく息を吐き出した。

「……ふうううう〜〜っ…」


その直後。

ワワワの胸ポケットで、スマートフォンが短く、死の宣告のように震えた。

画面には、見たくない名前が表示されている。


『氷川紗良:今、どこで何を食べてるの? GPSが市役所の裏を指してるんだけど。……まさか、分かってるわよね?』


ワワワの顔から、一気に血の気が引いた。

野獣の時間は終わり、また「管理」される日常が、音を立てて戻ってきたのである。

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