番外編「ポチニャン、サイバーさんに特攻します!!」前編
『ギャル魂MAXIMUM!!』は毎週土曜の午後一時から放送される生放送の情報バラエティで、五時間枠だった。前半はスタジオトーク、中盤に街頭ロケ、ロケから戻ったらゲストコーナーと視聴者参加企画を挟み、後半にまたスタジオで締める構成。視聴率は堅調で、スポンサーも安定している。昼の顔をしているのに中身は全力でギャルという、不思議なポジションの番組だ。
番組が終わった。
エンディングのテーマが流れ、カメラの赤ランプが消えた。スタジオの空気がふっと緩む。スタッフが動き始め、セットの照明が落ち着いた明るさに切り替わる。生放送が終わった直後の、独特の脱力感。
丸井ポチ子はメイクを落とし、私服のパーカーに着替えたところだった。大ぶりのギャル眼鏡をかけ直しながら、スマートフォンを開く。
LINEが来ていた。
送信者:角井ニャン子。
「ポチ子、今どこ」
「楽屋。なに」
「お願いがあります」
「珍しいね。なに」
「秋葉原に行きたいです」
ポチ子は三秒、画面を見た。
「なんで」
「今日インタビューした人、秋葉原に行くって言ってましたよね」
「言ってたけど」
「会いに行きたいです」
「何時だと思ってんの」
「19時32分です」
「そういう話じゃない」
「行きましょう」
「もういないって。あの人もうとっくに帰ってるでしょ」
「でも」
「でもじゃない」
三秒。
「お願いします」
ポチ子は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
外した状態のほうが視力が良い。眼鏡は完全に伊達だ。理工学部出身のギャル芸人というポジションを強調するための小道具として、事務所と話し合って作り上げたキャラクターの一部——なのだが、気づいたら普段からかけるようになっていた。眼鏡というのはそういうものなのかもしれない。
「まあ、行くとしたら」
ポチ子はそこで一度止まった。
どうせ行くなら、という考えが浮かんだ。アキバの電子部品街。遼さんが案内してくれれば、YouTubeの企画として使える素材になる。今日の渋谷の取材の続きとしても成立する。
悪くない。
いや、かなりいい。
「ちょっと待って。もし行くならYouTube企画にできるかもしれない。制作に確認する」
「何それ」
「どうせ行くなら素材にした方がいいじゃん。無断で行ったら何も残らないし」
「ポチ子えらい」
「えらいじゃない。思いついただけ」
「えらいです」
ポチ子は「もう」と言いながら、制作の北川に電話をかけた。北川は『ギャル魂MAXIMUM!!』のプロデューサーだ。四十代、元バンドマン、ギャル魂を信奉する男。いつもリボン付きのヘアバンドをしている。
「もしもーし北川さん、ポチ子ですけど」
「おう、どした。放送終わったろ」
「終わったんですけど、ニャン子が秋葉原行きたいって言って」
「秋葉原?」
「今日取材で会った人、よく秋葉原に来てる人らしくて、会いに行きたいみたいで」
「ほお」北川の声が少し上がった。「それ、YouTube的においしくない?」
「いけますかね」
「ちょっと待って。最近アキバのコンテンツ話してたんだよ企画会議で。タイミング良くない?」
「そうなんですか」
「行っていいよ。素材取ってきて。ただ相手が嫌がったら即撤収な。一つだけ守って」
「分かりました」
「ニャン子に言っといてよ、ギャル魂忘れんなって」
「伝えます」
電話を切る。
ニャン子にLINEを送る。
「北川さんに許可取った。YouTube企画として行く。嫌がられたら即撤収。いい?」
「ポチ子えらいすぎます」
「さっきもえらいって言った」
「二回分えらいです」
「楽屋来て。一緒に出る」
スマートフォンをしまいかけて、ポチ子は少し止まった。
華さんに連絡を入れておくべきか。
相手は華さんの兄だ。事前に一言入れておけば、角が立たない。それがえらいポチ子のやり方だ。
でも。
仕込みたくない。
リポーターとして、仕込みのある偶然と仕込みのない偶然は全然違う。現場で会って、現場で驚いて、現場で面白いことが起きる。それがポチ子の信条だった。華さんへの連絡は、会えたら事後報告でいい。
見かけたら事前報告でもいいし、会えなかったら、そもそも報告することもない。
……ただ、万が一トラブルになったときのことを考えると。
ポチ子は三秒悩んだ。
スマートフォンをしまった。
行ってから考える。
地下鉄で二十分。
秋葉原の改札を出たのは夜の八時を少し回ったころだった。
平日の夜でも中央通りは人が多い。アニメショップの看板が色とりどりに光っている。電子部品街の路地はすでに静かだが、消えてはいない。
ニャン子は私服で来ていた。帽子とマスク。一応の変装。ただし歩き方がアイドルなので、帽子とマスクの意味が半分しかない。
「いると思いますか」
「いないと思う」とポチ子は答えた。「だから言ったじゃん、もういないって」
「でも来ました」
「来たけど」
「来ちゃいましたね」
「ニャン子が言い出したんでしょ!!」
「そうでした」
ニャン子は少し辺りを見渡した。電子部品の店は閉まっているものが多い。開いているのはアニメショップや飲食店が中心になっている。ガンダムのフィギュアが飾ってある店の前を通り過ぎながら、ニャン子が言った。
「あの人、こういうところに来てるんですね」
「電子部品を買いに来てるって言ってたからね」
「何のために」
「機械を作るため」
「何の機械を」
「今日は温度と湿度のセンサーのキャリブレーション用の治具作るって言ってた」
「……ちぐ」
「治具。作業するための道具を作るための道具ってこと」
「難しい」
「難しいよ。でも遼さんにとっては普通らしい」
「普通じゃないですよね」
「普通じゃない。だから面白い」
ニャン子がポチ子を見た。
「ポチ子は分かるんですね、あの人のこと」
「分かるっていうか、専門用語が通じるから話ができるだけ。でも……」ポチ子は少し考えた。「あのレベルは分からない。私、メッシュ解析で単位落としてるし」
「何ですかそれ」
「回路の計算方法」
「難しいんですか」
「ループが複数あるときにしんどくなる。でも遼さんはたぶん、そういうのを難しいって思ったことない人だよ。難しいって思う前に答えが見えちゃう人」
ニャン子はそれを聞いてから、また前を向いた。夜の中央通りを歩きながら、どこかを見ている。
「……かっこいいですね」
「遼さんが?」
「そういう人って」
ポチ子は何も言わなかった。
言う代わりに少し早足になった。
「とりあえず部品街の方向行ってみよう。もういないとは思うけど」
中央通りから一本入った路地を歩いていると、前の方から声が聞こえた。
二人組の男性だった。二十代、おそらく電子工作系の雰囲気。大きな紙袋を持っている。
「——今日いたらしいよ、サイバーさん」
「マジ? 何時ごろ?」
「夕方って聞いた。良さそうなコンデンサを何個か選んでいったって、山本さんとこの店員が言ってた」
「何個かってのはありがたいよな。残しといてくれるもんな」
「だよな」
ポチ子の耳がピクッとした。
——サイバーさん。
界隈で有名な人間がいるらしい。コンデンサを選び取っていく人物。夕方まではいたが、もういない。
ニャン子を振り返る。ニャン子もポチ子を見ていた。
「なんか有名な人がいたらしいですね」
「みたいだね。でも夕方で、今はもういないっぽい」
「そうですか……」
ニャン子は少ししょんぼりした。その表情がかわいいことにポチ子は気づいていたが、それを言っても仕方ない場面なので黙っていた。
歩く。
路地のつきあたりまで来た。
ポチ子が足を止めたのは、古い雑居ビルの前だった。二階の窓に明かりがついている。入口のドアに手書きの紙が貼ってある。
「OPEN」
店名がない。看板もない。雑居ビルの二階に手書きの紙だけ。
ポチ子はカメラを向けた。
「これ、めちゃくちゃ怪しくないですか!! 秋葉原の路地裏、名前のない店!! 撮れ高としてどうですか!!」
「どうですかね〜」
「入ってみていいですか視聴者的に!!」
「いいんですかね〜、入って」
「OPENって書いてあるし!! 入っていい店でしょこれ!!」
「そうですかね〜」
「行きましょう!!」
二人は階段を上がった。
ドアを開けると、コーヒーの匂いがした。
狭い店だった。椅子が四脚。カウンターに三席。壁には何も貼っていない。BGMもない。ただコーヒーの匂いだけがある。
カウンターの中に、男がいた。
スキンヘッド。黒縁の角ばったサングラス。小柄。ネルシャツ。年齢が読めない。四十代にも六十代にも見える。腕に、うっすら油染みが残っている。
男はポチ子とニャン子を見た。
サングラス越しでも、値踏みするような目の動きが分かった。
「……ネットか」
一言だった。
「え」とポチ子が聞き返した。
「YouTube用の素材、撮りに来たんやろ」
「なんで分かるんですか」
「スマホの構え方が違う。観光客と取材は別の持ち方する」
男はカップを二つ出した。
「まあ、座りなはれ」
ポチ子とニャン子は顔を見合わせてから、カウンターに座った。コーヒーが出てきた。飲んだ。
「……うまい」とポチ子が言った。本音だった。
「コーヒーだけが取り柄やから」と男が言った。
「あの、失礼ですがどなたですか」
「PC坊主」
「……PC坊主」
「ここらへんでそう呼ばれてる。本名は伊勢谷や」
ポチ子は「PC坊主」と一度繰り返した。スキンヘッドを見た。サングラスを見た。ネルシャツを見た。腕の油染みを見た。
「……なるほど」
「なるほどって言うな」
「すみません」
「あの、人を探してるんですけど」
「誰を」
「今日、渋谷で取材した方で。遼さんって方で、このあと秋葉原に部品を買いに来るって言ってたので」
男が手を止めた。
「柊の子か。たしかに来とったみたいや 」
「ご存じなんですか」
「ご存じもなにも。近くの山本のとこの店員から聞いた。今日良質のコンデンサが狙い撃ちのように何個か動いたって。それで来てたのが分かった」
ニャン子がうなだれた。
「もう帰ったんですね……」
「それはわからん」男はサングラスを直した。「ここらへんでは『サイバーさん』って呼ばれてる。あんたら、路地で聞こえてたやろ」
「聞こえてました」とポチ子が言った。「あれが遼さんのことだったんですね」
「そういうことや」
ポチ子は少し考えた。
「サイバー遼……どこかで聞いたことあるような。なんか、シティーハ——」
「それ以上はあかん」
PC坊主が即座に言った。
「え」
「あかんと言ったらあかん」
「でも」
「あかん」
ポチ子は口を閉じた。ニャン子が「何ですかね〜」と小声で聞いた。ポチ子は「なんかあるんだと思う」と小声で返した。
男が少し笑った。笑うと、サングラスの下の口元の皺が深くなる。年齢が少しだけ滲む。
「まちなはれ」
ポチ子が首を傾けた。
「何を待つんですか」
「特攻する気やろ、あんたら」
「……どうして分かるんですか」
「顔に書いてある」
男はコーヒーカップを磨きながら続けた。
「座って。ちょっと聞いてから行き」
PC坊主は、サングラスをかけ直してから、カウンターに肘をついた。
「あの子に会いに行くんやったら、ちょっとだけ教えたる」
「ちょっとだけ、ですか」
「ちょっとだけや。長くするつもりはない」
ポチ子はスマートフォンを取り出した。
「撮っていいですか」
「ここはやめとき。音声だけ」
「分かりました」
ポチ子はスマートフォンをポケットにしまい、レコーダーアプリだけ起動した。PC坊主が、コーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「あの子がアキバに来だしたんは、高校生のときや。最初はひとりで部品棚を見てた。ごく普通の工作好きの高校生、て見えた。でもちょっと違った」
「どこが違いましたか」
「速さが違う。棚の前に立って、ぱっと見て、すっと取る。悩まない。でも間違えない。これやったら悩んで選んでる方が信用できると思うやろ? でもあの子はその逆で、考えてないんやなくて、見た瞬間に結論が出てるんや」
「……それ、かなりすごいことですよね」
「すごいっちゅうより、異常や。同じように見える部品でも、微妙にスペックが違う。ロットが違う。製造年が違う。それを手に取った瞬間、指先で分かるみたいやな」
ニャン子が口を開いた。
「……指先で分かるんですか?」
「アナログの職人はそういうもんや。あの子はデジタルもアナログも両方できる。そっちのほうが本当は珍しい」
「どのくらい珍しいんですか」
「ここ二十年でわしが見た中で、一人しかおらん」
ポチ子がペンを走らせている。ニャン子は静かに聞いていた。
「スイーパーって呼んどる奴もおる、界隈で」とPC坊主が続けた。
「スイーパー?」
「良い部品をさらっていくから、そう言われだした。でも惜しい。あれはスイープやない」
「何なんですか」
「選別や。あの子、全部取らん。必要な分しか取らん。余分には一個も手を伸ばさん。だから残りが残る。他の客にとっては親切なんや、実は」
ポチ子は「へえ」と言って、少し考えた。
「それって、遼さんが必要な量を正確に把握してるってことですよね」
「そういうことや」
「それはすごい」
「普通やと思っとるやろ、本人は」
「……絶対思ってます」
「そういう子なんや、あれは」
PC坊主はカウンターをとんとんと叩いた。
「あとな、一個だけ教えといたる」
「はい」
「機械の話をするときだけ、顔が変わる」
「顔が?」
「普段はぼーっとした顔しとるやろ。感情があんまり見えない。でも機械の話になると、少しだけ目が変わる。そこを突いたら饒舌になる。それ以外は基本的にうんかいなかで終わるから、そこだけ注意しとき」
ポチ子はメモを見直した。
「あと、姉妹が芸能人やって知ってるか?」
「知ってます。柊凛さんと柊華さん」
「分かっとるか、やったら話は早い。あの子はそのことを一ミリも自分と関係があると思てないから、そっちに話を持っていっても何も出てこん。機械の話だけや、何かが出てくるのは」
ポチ子は領いた。
「あと」
「まだありますか」
「名前で呼んだらちょっとだけ反応する。柊さんやなくて、遼さん。本人は気にしてないが、少しだけ体の向きが変わる。ほんの少しやけど」
「細かい」
「長年見てきたからな」
PC坊主はカウンターに背を向け、コーヒーメーカーのボタンを押した。
「以上や。行ってき」
「……いるんですか、今」
「知らん」
「知らんて」
「わしはここから出んから。でもあの子、アキバ来たときは帰り際にここに寄ることが多い。今日まだ来てへん。ということは——」
「まだいるかもしれない」
「知らん」
「知らんのかい」
「可能性の話をしただけや」
ポチ子はニャン子を見た。
「行こう」
「行きましょう」
二人が立ち上がって、ドアに向かった。
「まちなはれ」
ポチ子が振り返った。
「まだ何かありますか」
「コーヒー代」
「あ!!」
ポチ子とニャン子がそれぞれ五百円玉をカウンターに置いた。PC坊主はそれを見もせずに受け取った。
「あの子が傷つくようなことはすんなよ」
その一言だけ。
背中を向けたまま言った。
ポチ子は「はい」と答えた。
階段を下りたところで、ニャン子が小さく言った。
「あの人、遼さんのことが好きなんですね」
「好きっていうか」ポチ子は少し考えた。「愛でてるんだと思う。お気に入りの標本を見るみたいな感じで。でも本人には絶対言わないやつ」
「かわいいですね」
「かわいいっていうか……まあ、かわいいか」
中央通りに戻った。
夜風がある。
電子部品の店はほとんど閉まっているが、一軒だけ明かりがついている。ショーウィンドウに部品の箱が並んでいるタイプの古い店だ。
その前に、人が立っていた。
黒髪。Tシャツ。ジーンズ。
ぼーっとショーウィンドウを眺めている。動かない。人混みの中で、一人だけ時間が止まったみたいに立っている。
周囲の人間が気づき始めていた。
二人組の女性が通り過ぎながら振り返った。
「——サイバーさんだ」
声が聞こえた。
別の方向から男性の声。
「あ、ほんとだ。今日まだいた」
「また良いの見つけたんじゃないですか」
「静止してる」
「いつものやつだ」
界隈の人間が、それぞれのペースで、でも確かに反応していた。サイバーさんが来た、という情報が、路地の空気をほんの少し変えた。
ニャン子がポチ子の袖を引いた。
ポチ子は見ていた。
遼はまだショーウィンドウを見ている。部品の箱を眺めている。何かを計算しているのか、考えているのか、ただ眺めているだけなのか、外からは全く分からない。
「かっこいい……」
後ろから声が来た。別の女性客らしかった。
「あの無駄のなさ、かっこいい」
「分かる。動かないのに存在感ある」
「何見てるんだろう」
「部品じゃないですか、絶対」
「それがかっこいいんですよ」
ポチ子はニャン子を見た。
「ニャン子、かっこいい? あれ」
「かっこいい……」
ニャン子もうっとりしていた。
「あの、ポチ子」
「なに」
「かっこいいです」
「だから何が?」
「あの人が」
「うん、分かった。なんで?」
ニャン子はしばらく考えた。
「動かないのに、何か考えてる感じがするから……ですかね〜」
「それ分かるって普通じゃないよ?」
「そうですかね〜」
「周りの人も同じこと言ってたもんね」
「みんな分かるんですね〜」
ポチ子はもう一度遼を見た。ショーウィンドウの前で静止している。ぼーっとしているように見えて、目だけが動いている。陳列されている部品の一個一個を、ゆっくりと見ている。
PC坊主の言葉が頭にあった。
——見た瞬間に結論が出てる。
ポチ子はスマートフォンを取り出した。ラインで華に送る。
「今秋葉原にいます。遼さんいました。YouTube企画として声かけてもいいですか」
三秒で返信が来た。
「え、なんで秋葉原に!!」
「ニャン子が行きたいって言ったので」
「ニャン子ちゃんが!? なんで!?」
「遼さんに会いたいって」
少し間があった。
「……まあ兄だし、止める理由ないですよ。ただ機械の話以外はあんまり反応しないと思うので頑張ってください」
「知ってます。PC坊主さんに聞きました」
「伊勢谷さん!? PC坊主のおじさんに会ったんですか!?」
「喫茶店で教えてもらいました」
「あの人が喋った!?」
「喋りました」
「珍しい。頑張ってください」
ポチ子はスマートフォンをしまった。
全部整った。
北川プロデューサーの許可。
PC坊主からのブリーフィング。
華への確認。
準備は完了している。
「ニャン子」
「はい」
「行くよ」
「行きましょう!!」
ニャン子が急に元気になった。
ポチ子はスマートフォンのカメラを起動した。
遼はショーウィンドウを見ていた。
正確には、奥の棚に並んでいるセラミックコンデンサの箱の配置を確認していた。今日すでに部品を買ってここに立ち寄る必要はなかったのだが、帰り道にたまたま通ったら、窓の中に見慣れない箱が見えた。
新しい入荷らしい。
型番が気になった。
だから立ち止まった。
後ろから声が来た。
「遼さん!!」
遼はゆっくりと振り返った。
見覚えのある顔が二人、立っていた。
一人はカメラを構えている。
もう一人は帽子とマスクをしている。
ポチ子とニャン子だった。
遼は二秒考えた。
「……今日の人ですか」
「そうです!!」ポチ子が言った。「覚えてますか!!」
「渋谷でインタビューされた人」
「そうです!! またお会いしましたね!!」
「秋葉原に来てたんですか」
「ニャン子が来たいって言ったので」
遼はニャン子を見た。
ニャン子はマスクをしたまま、動いていなかった。
「……かっこいい」
「え」
「かっこいいです」
遼は少し考えた。
「俺のことですか」
「はい」
「なんで」
「ショーウィンドウを見てたから、です……」
遼は振り返ってショーウィンドウを見た。もう一度遼を見た。
「部品の箱を見てただけですけど」
「かっこいいです」
「……そうですか」
意味が分からない、という顔だった。否定するでも照れるでもなく、ただ「そうですか」で完結している。
ポチ子がカメラを構えながら前に出た。
「遼さん!! 今日はですね、私たちのYouTubeチャンネルの企画として来ました!! 華さんにも確認を取ってあります!!」
「……妹が?」
「はい! ご連絡したらOKいただきました!!」
遼はスマートフォンを取り出して、なにか確認した。
「LINEきてた」と呟いた。
「読んでなかったんですか」
「気づいてなかった。了解、と送っておきます」
遼は手早くLINEを返信してから、スマートフォンをしまった。
「何をするんですか」
「秋葉原にいる遼さんに、秋葉原の案内をしていただきたいんです!!」
「俺が?」
「遼さんがアキバで一番詳しそうなので!!」
遼は少し考えた。
「詳しいというほどでもないですが」
「詳しくないですか」
「詳しい人はもっといます」
「でも遼さんも詳しいですよね」
「……そうかなあ」
「じゃあ案内してください!!」
「……なんでそうなるんですか」
「詳しい人に案内してもらうのが一番早いからです!!」
遼はポチ子を見た。ニャン子を見た。カメラを見た。
「断れないですか」
「難しいです!!」
「……まあ、いいですけど」
「やった!!」
ニャン子がぴょんと跳ねた。遼がそれを見て、少し目を細めた。
「何を案内すればいいですか」
「まずは遼さんが今日来た場所から教えてください!!」
遼は視線をショーウィンドウに戻した。
「ここから話しますか」
「お願いします!!」
「……このセラミックコンデンサ、見ますか」
「見ます!!」
「ニャン子さんは?」
遼がニャン子を見た。
ニャン子は少し止まった。
「……あの」
「はい」
「名前、言ってませんでした」
「そうでしたっけ」
「角井ニャン子です」
少し赤くなっていた。
遼が「角井さん」と言った。
「……はい」
「見ますか、コンデンサ」
「見ます」
ポチ子がカメラを向けたまま、一人で「ニャン子が照れてる」と思った。言わなかった。
遼はショーウィンドウを指差した。
「あの赤いラベルの箱、新しい入荷だと思うんですけど」
「はい!」
「型番が見えなくて。あの系統のシリーズなら耐圧特性が良いやつがあって、今作ってる回路に使えるかもしれないんですよ」
「どんな回路ですか!!」
「センサーのキャリブレーション用の治具で——あ、今日も言いましたね、これ」
「言いましたね!! 続きが気になってたんです!!」
遼は少しだけ顔が変わった。
目が、さっきまでと違う。
PC坊主が言った通りだった。機械の話になると、少しだけ目が変わる。
「続き、聞きますか」
「聞きます!!」
「じゃあ中入りましょうか。箱の型番確認したいし」
遼は当然のように店のドアを開けた。
ポチ子とニャン子はその背中を追いながら、目を見合わせた。
ニャン子が口だけで言った。
「かっこいい」
ポチ子も口だけで返した。
「分かった」
店の中は狭かった。
棚が天井まで続いている。引き出し式の小さな箱が無数に並んでいて、それぞれにラベルが貼ってある。素人には何が何だか分からない。
遼は迷わず奥の棚に向かった。
赤いラベルの箱を手に取る。ラベルを見る。二秒。また元に戻す。
「違いましたか?」とポチ子が聞いた。
「型番は合ってたんですが、容量レンジが想定より上でした」
「大きすぎた?」
「そうです。キャリブレーション用に使うには精度の粒度が合わなかった」
「精度の粒度、ですか」
「容量が大きいコンデンサって、低容量域での制御が荒くなるんですよ。この用途では十ピコファラッドから百ピコファラッドくらいの範囲で細かく動かしたいので」
「ピコファラッド……」ポチ子がカメラを向けながら言った。「視聴者の方、ついてこれてますか!! 私はギリギリついてます!!」
「どのくらいギリギリですか」とニャン子が聞いた。
「ピコファラッドが百万分の一マイクロファラッドってのは分かります!!」
「分かるの、すごいですね」と遼が言った。
「理工系出身なので!! でも正直、ピコファラッドの感覚が体に入ってないから、小さいのか大きいのかが肌感でわからないんですよ!!」
「そういうものですか」
「学部生で感覚まで染み込ませる人ってそんなに多くないと思います!! 遼さんはいつ肌感になりましたか」
遼は少し考えた。
「……中学生のころには、たぶん」
「中学生!!」
「おかしいですか」
「おかしくはないですけど!! 早い!!」
「そうかな」
「そうです!!」
ニャン子がそっと手を挙げた。
「あの」
「はい」と遼が答えた。
「ピコファラッドって、なんですか」
静寂。
「電気を貯める量を測る単位です」と遼が言った。
「コンセントの中に、電気がいっぱい入ってる感じですか」
「コンセントは電気を流す口なので、貯めるとは少し違いますが……考え方としては近いです」
「そうなんですね〜」
「ニャン子さんは、電気の勉強は?」
「してないです」
「学校では?」
「理科で豆電球を光らせました」
「……豆電球」
「光りました」
「光ったんですね」
「嬉しかったです、あのとき」
遼がポチ子を見た。
「豆電球の話は大事ですよ」と遼が言った。
「なんで?」とポチ子が聞いた。
「最初にLEDを光らせたとき嬉しかった話、今日もしましたよね。豆電球が光ったときと、たぶん同じ感覚です」
「……ほんとだ」とポチ子が言った。「ニャン子、おんなじだ」
ニャン子が遼を見た。
「……同じ、ですか」
「電気が流れて、光る。その最初の一回が、たぶんどこかに残るんだと思います」
ニャン子は少し黙ってから、言った。
「遼さんも、残ってるんですか。豆電球みたいなの」
「残ってます」
「何が?」
「最初に自分で回路を作ってモーターを回したとき。中学一年のときだったかな。それは今でも覚えてます」
「なんで覚えてるんですか」
「……なんでだろう」
遼が少し考えた。
「壊れてても直せるし、動かなくても直せる。でも最初に動いたときだけは、新しいんですよね。直したんじゃなくて、初めて動いた。それは一回しかない」
ポチ子がカメラを向けたまま、少し黙った。
ニャン子も黙った。
遼は気づかずに次の棚を見ていた。




