番外編「だせえ」
土曜の昼下がり、渋谷。
柊凛と柊華は、特に変装もせずに歩いていた。
凛はベージュのシンプルなコートに、ゆるくまとめたダークブラウンの髪。華はカーキのパーカーにスニーカーで、大きなトートバッグを肩に下げている。どこにでもいる二人組、というには顔が良すぎるが、芸能人オーラのようなものは——不思議と出ていない。
本人たちに言わせれば「消してる」わけではなく、「ただ買い物してるだけ」なのだが。この二人、普段から芸能人オーラを意識的に纏っているわけではない。遼に言わせれば「家でうるさくしてるのと同じ顔で外出てるから」だが、それを本人たちに言うと二人がかりで怒られるので黙っている。
「ねえ、あっちのカフェ入ろうよ」
華がショーウィンドウのポップを指差す。「プリンパフェがあるって書いてあった」
「まだお昼ご飯食べてから一時間も経ってないよ」
「プリンは別枠」
「そんな枠ない」
「ある。プリン枠は独立してる。消化器官が違う」
「同じだよ」
「お姉ちゃんだって食べたいでしょ」
「……ちょっとだけなら」
「でた『ちょっとだけ』。絶対半分以上食べる」
「食べない」
「毎回食べてる」
「今回は食べない」
「毎回そう言う」
二人がポップの前で立ち止まった、ちょうどその瞬間だった。
「あ、あの……すみません」
声が、横から届いた。
低くて少し裏返っている。
凛と華が同時に振り向いた。
男子が二人いた。
二十歳前後。一人は背が高く、前髪が少し落ちてきている。もう一人は黒縁眼鏡で、姿勢だけはやたらいい。二人ともジャケットを着ており、そのジャケットがクリーニングに出したばかりのように綺麗だった。スニーカーも真新しい。全体から「今日のために準備した」感が滲み出ていた。どことなく地方の風を引きずっていて、「東京に来て日が浅い」ということが体全体から漂っていた。
そして二人とも、致命的に緊張していた。
背の高いほう——後に岡田と分かる——は、すでに声が震えていた。眼鏡のほう——後に菅原と分かる——は少し後ろに立って、口をきつく結んでいる。目が、泳いでいる。
「えっと、あの……よかったら……お茶とか……でも、あ、嫌だったら全然……いや、もちろん嫌ですよね、急に、こんな……」
岡田が言っているのか謝っているのかよく分からない言葉を発し続けた。菅原が後ろで目を閉じた。
そのとき、横の方から笑い声が聞こえた。
「うわ、だせえ……」
少し離れた場所に、別の男子グループが立ち止まっていた。四人組。スニーカーが高い。にやにやしながらこっちを見ている。
「あんなんOKするわけなくない?」
「てかもう謝ってるじゃん」
「声かける前から謝り始めてる」
「完走できんの?」
岡田の耳が、みるみる赤くなった。
菅原は目を閉じたまま動かない。石になろうとしているようだった。
凛は、その笑い声を聞いた。
華も聞いた。
凛は岡田をもう一度見た。赤くなった耳。それでも引っ込まない体。恥ずかしいのに、足がその場を離れない。
凛は華を見た。
華はすでに、柔らかく笑っていた。
「いいですよ」
華が言った。
岡田が止まった。
「え」
「お茶、行きましょう。ちょうどあっちのカフェ入ろうとしてたところで」
「え……え?」
華がにっこり笑って、当然のようにカフェの方向へ歩き出す。凛が隣に並んで、固まっている二人に向かって「どうぞ」と短く言った。
後ろのグループから「……え、まじか」という声がした。
華が振り返らずに言った。
「まじですよ」
二人組が慌てて追いかけてきた。
カフェの窓際席、四人向かい合わせ。
とりあえずメニューを開いたが、岡田と菅原は明らかにメニューを見ていなかった。目が字を追っていない。二人ともうっすら呆然としたまま、時々顔を見合わせている。
「……決まった?」
凛が聞いた。
「あ、えっと……コーヒーで」
「同じく」
二人が同時に言って、また顔を見合わせた。注文した内容が完全に一緒だった。
店員が去って、しばしの沈黙。
華がメニューをぱたんと閉じた。「名前、教えてもらっていい?」
「あ、岡田といいます。岡田誠一」
「菅原です。菅原拓人」
「どこから来たの?」
「岩手です」岡田が言う。「……北の方の。あんまり知られてないところで」
「二人とも?」
「俺は隣の秋田です」菅原が言った。「高校が岩手で一緒で」
凛が、少しだけ表情を動かした。
「秋田」
「……何か、ありましたか」
「お母さんが秋田出身で」
「え」
「もう長いこと向こうには帰れてないけど、よく話してた」凛が言った。「秋田の冬の話とか、雪の話とか」
菅原がコーヒーカップを両手で持ったまま、少し止まった。
「……どのあたりか、聞いていいですか」
「由利本荘の方って言ってた」
「あ」菅原の目が少し変わった。「近いです。俺の実家、横手なんで」
「横手って、かまくらのところ?」
「そうです。毎年作ってました、子供の頃」
「それ、すごく聞いてたな」凛が言った。どこか遠いものを見るような顔で。「かまくらの中で甘酒飲む、って」
「飲みます」菅原が静かに言った。「今でも飲みます」
少しの間、二人の間に静かなものが流れた。
華がそれを見ていた。何も言わなかったが、口元が少しだけ柔らかくなった。
「……県またいで通ってたの?」
華が先を続ける。
「親の仕事の関係で、高校だけ岩手で。寮に入ってたんで」菅原が補足する。話すと落ち着いている。岡田より冷静そうだが、コーヒーカップを受け取るとき手が微妙に震えていた。
「どんな大学?」
「俺、医学部で」岡田。
「私法学部です」菅原。
「えっ」
華の目が少し丸くなった。
「なんで声かけてきたの」
「………」
岡田と菅原、揃って沈黙した。
「いや、それは……なんか……」
「なんか大学生って感じのことしないとなって」岡田が言う。「大学来てから毎週末二人でご飯食べて終わってて……それはそれで楽しいんだけど」
「それは十分楽しくない?」
「楽しいんですけど! でもなんか……上京したんだべし、なんかしないとって」
「大学生になったから何かしないと、みたいなの、あったんですか」
菅原が口を開く。「そうです。そういう……漠然とした」
「じゃあ今日が初めて? 声かけたの」
「はい」
「だよね」
凛が静かに言った。
「声、震えてたよ」
「……やっぱり分かりましたか」
「最初から」
岡田が顔を覆った。「全部見えてたんですね……」
「声かける前から謝ってたよ」
岡田が顔を覆った。「やっぱり……」
「俺は止めようとしてたんですけど」菅原が言った。
「え、止めようとしてたの?」華が聞く。
「最初は。でも岡田が『行くべ』って言い出して……」
「じゃあ一緒に来たのは?」
菅原が少し間を置いた。
「……なんか、行ってしまいました」
岡田が菅原を見た。「共犯だろ」
菅原が「黙ってて」と言った。
凛が紅茶を一口飲んだ。「まあ、来てよかったと思うけど」
そこへプリンパフェが来た。
華の顔が、ぱっと変わった。
「来た来た来た」
スプーンを持つ速さが普段の三倍になる。一瞬で体の重心がプリンパフェに向いた。
「……生き生きしてる」
岡田がぽつりと言った。
「プリンが好きで」
「好きというか、あれは」凛がコメントする。「もう愛情の問題で」
「愛情?」
「お姉ちゃん、うちのプリン取るんだよね、毎回」
「取ってない。一口もらってるだけ」
「毎回半分になる一口ってなんなの」
「大きさの話は関係ない」
「大ありだよ!」
岡田と菅原が顔を見合わせた。さっきまでの緊張が、少しずつ溶けていくのが自分たちでも分かった。
「一口ください」
凛がプリンパフェに手を伸ばす。
「え待って自分の来てないじゃん」
「あなたのが先に来たから」
「来るの待ってよ!」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない量を一口って言うのやめて!」
普通の、姉妹の喧嘩だった。
菅原が静かにコーヒーを飲んだ。岡田は思わず笑っていた。
凛のプリンパフェも来て、しばらく話が続いた。
岡田は喋ると意外と面白かった。少し訛りがあって、興奮すると語尾が「〜だべ」になる。「医学部って聞くと引かれることが多い」「なんか怖い人って思われるんだべな、気合い入ってて近寄りがたいって言われる」「普通なんですけど」と少し不満そうに言った。
菅原は対照的に言葉が少なく、でも言葉を選ぶのが上手かった。訛りは岡田より薄いが、たまに「〜だがら」が出る。「岡田が喋りすぎてるときだけ止めます」「いつも止めてもらってる」「今日も止めようとしたけど、なんか勢いがついてて」「俺の足も動いてたけどな」「同罪です、はい」。
「東京、慣れた?」
「んー……外食が高くて」岡田が言う。「ラーメン一杯千円超えるって、地元じゃ考えられないべ」
「それは確かに高いね」
「しかもそれが普通みたいな顔して出てくるし」
「慣れるよ、そのうち」
「慣れたくないべ……」
「でもコーヒー一杯でこんなにするって、岩手にいたら考えられなかったべ……」
「二人ともここ出身なんですか?」岡田が聞いた。
「東京の奥の方」華が言う。「渋谷とは全然違う感じの」
「渋谷って、慣れます?」岡田が聞く。「俺、交差点でまだちょっと怖くて」
「慣れるよ」
「どのくらいで」
「気づいたら慣れてた」
「それはあんまり参考にならないですね……」
菅原が静かに言った。「俺は一回、渡りきれなかったです」
「え」
「信号が青になって、踏み出したんですけど……怖くて引き返しました。一周しました」
岡田が「知らなかった」と言った。「お前、言えよそういうこと」「言えないべ、恥ずかしくて」「今言ってるじゃん」「なんか……言いやすい空気で」。
「仲良くなったのは高校で?」
「同じクラスで、岡田が最初に話しかけてきて」
「話しかけやすそうだったから」岡田が言う。
「話しかけやすかったの?」
「なんか……静かそうだったんで。怒らなそうで」
「今日もその判断で声かけたの?」菅原が聞いた。
「え?」
「怒らなそうだったから」
岡田が止まった。「……無意識にそうかも」
菅原が深いため息をついた。
「なんか、いつも俺が怒られを引き受けてる気がしてたんだよな」
「ちゃんと分かってたんだ」
「今更気づいたんですか」
「気づいてたかもしれないけど言語化したのは今」
凛が紅茶を飲みながら「友達って感じだね」と言った。
「え?」
「仲がいいんだなって」
岡田と菅原は、少しの間黙った。
「まあ……そうですね」
菅原がやや照れくさそうに答えた。岡田はコーヒーをかき混ぜながら「昔からの友達なんで」と言った。
「大学、別になってさみしくない?」
「最初はちょっと……でも週一くらいで会ってるし」
「声かけに来るのも一緒だしね」
「それは……そうですね」
二人がまたかすかに笑った。
話が弾んで、一時間以上が経った頃。
菅原が「あの」と切り出した。
「お名前、聞いてもいいですか。ちゃんとした名前というか……苗字も含めて」
凛と華が少しだけ間を置いた。
「柊凛と、柊華です」
凛が答える。
一瞬。
岡田と菅原の表情が、完全に固まった。
「…………」
「…………」
沈黙が長かった。
岡田が、ゆっくり口を開いた。
「……朝ドラの」
「連ドラの主演の」
「日本アカデミー賞新人賞の」
「同じ苗字の」
「二人とも、柊さんですか」
「はい」
静寂。
岡田がゆっくり天井を見上げた。
「……なんで」
「なんでとは」
「なんで俺ら、声かけてるんですか」
「それは私たちに聞かれても」
「人に声かけたの人生初で、よりによって」
「よりによって」
「なんで今日なんですか」
「聞かれても」
「しかも仲良くなってるし」
「それは順調だと思うけど」
「プリンの話とか交差点の話とかしてたし!」
「楽しかったけどね」
「楽しかったけど!?」
岡田が頭を両手で抱えた。菅原は眼鏡をいったん外して、手で顔を覆った。眼鏡の処理に困って、テーブルの上に静かに置いた。
「なんで気づかなかったんでしょうね」
菅原がぽつりと言った。
「気づいてなかったの?」
「……二人とも綺麗だなとは思いましたけど、芸能人だとは……」
「変装とかしてないの」
「変装は別にしてないけど」
「じゃあ普通に歩いてたんですね」
「普通に」
「それで気づかなかった俺ら、眼が悪かったのか……」
「俺、眼鏡かけてるのに」
「それは別の話では」
岡田と菅原が小声で話し合っていた。
「本当に、すみませんでした」
菅原が頭を下げた。岡田も深く倣う。
「ナンパなんかしてしまって」
「いきなり声をかけてしまって」
「プリンのお話まで聞かせてもらって」
「交差点の話まで聞いてもらって」
「お時間取らせてしまって」
「土下座した方がよくないか」岡田が菅原に小声で言う。
「この状況で土下座したら余計迷惑だよ」菅原が止める。
「じゃあどうする」
「謝り続けるしかない」
「謝り続けます」
「いいから」
凛が言った。
「え」
「楽しかったし」
二人が顔を上げた。
「本当に、ただのお茶だったし。全然怒ってない」
「……でも」
「あと、会計はこっちで出します」
岡田と菅原が固まった。
「いや、そんな」
「受け取れません!」
「俺らが声かけたんですよ!? どういう理屈でお会計が!?」
「ごちそうする」
華が財布を取り出しながら言う。「勇気出して声かけてきたし。あと、さっきカフェの外で笑ってた人たち、いたじゃないですか」
「……はい」
「あの人たちより、ずっとかっこよかったと思うよ」
岡田が黙った。
菅原も黙った。
二人とも、今度は何も言わなかった。
岡田はただ深く頭を下げた。短く、でも迷いなく。
菅原も同じように下げた。眼鏡をかけ直してから。
「ありがとうございました」
声が、さっきの震えとは違う種類だった。
カフェを出て、凛と華は並んで歩いた。
「なんか、素朴だったね」
華が言う。
「うん」
「一周したって話、笑った」
「菅原くんの」
「真顔で言うんだもん」
少しの間、二人とも黙って歩いた。
「でも、ちゃんとやってきそうじゃない? あの二人」
華がポケットに手を突っ込みながら言う。
「どういう根拠で」
「謝るとき、迷わなかった。頭の下げ方、ちゃんとしてた」
「医学部と法学部か」
「関係ある?」
「関係あるかは知らないけど……あの菅原くん、言葉の選び方が面白かった」
「岡田くんもなんか、突破力あったよね」
「あの緊張で声かけてくるの、普通じゃないよ」
「だせえとか言われてたのに」
「それでも引っ込まなかったから、ついていったんじゃん、私たち」
凛は少し考えて、「まあそうか」と言った。
風が吹いた。
「プリン、もう一個食べたい」
「プリンパフェ食べたばかりでしょ」
「あれはお姉ちゃんに半分食べられたから実質半個」
「食べてない。一口だから」
「一口じゃない量を一口って呼ぶの、本当に毎回やめてほしい」
「……テイクアウトできるって書いてあったよ、さっきの店」
「知ってた」
「だよね」
二人は来た道を少しだけ戻った。
それから十数年後。
岡田誠一は東京の大学病院の外科医になった。専門は消化器外科で、三十代半ばにして院内で名前が通るほどの腕になっていた。
ある年の冬、柊華が急性虫垂炎で緊急搬送された病院が、岡田の勤務先だった。夜間当直で執刀したのが岡田だと、華が知ったのは手術後のことだ。病室に顔を出した岡田を見て、華は少し首を傾げた。「どこかで……」と言いかけて、岡田が先に言った。「渋谷で、ナンパしたことがあります」。華はしばらく黙って、それから「ナンパの人だ」と言った。岡田は笑った。
菅原拓人は国会議員になった。文化芸術振興の委員会に入ったのは偶然ではなかったかもしれない。凛が出演した映画の公的支援制度が審議されたとき、委員会で最も丁寧に質疑を重ねたのが菅原だった。凛はそれを後から知った。知人に「菅原議員と面識あるんですか」と聞かれて、「昔、少しだけ」と答えた。それ以上は言わなかった。
二人がどのようにして関わることになったのかを、凛も華も説明できない。ただ、必要なときに、静かに、適切な場所に、あの二人がいた。
あの日のコーヒーの味を、岡田と菅原はよく覚えていた。緊張しすぎてほとんど味がしなかった、と岡田は言う。菅原は「凛さんがプリン取られてた」と言った。岡田は笑った。菅原も笑った。
渋谷のあのカフェは、十数年後にはもう別の店になっていた。




