柊家の夜明け前 Episode 4「名前も聞かなかった」
本番が終わったのは夜の九時過ぎ。
終演後の片付けを手伝って、着替えて、劇団員で近くの中華料理屋に入った。安くて量が多い、稽古終わりや本番後によく使う店だ。円卓を囲んで、ビールが来て、乾杯して、誰かが「今日どうだった」という話を始める。
由紀は餃子を食べながら、別のことを考えていた。
あの男のことを。
正確に言えば、あの男が言ったことを。
君の間の取り方は、計算じゃない。
演劇を始めて三年。上手いと言われたことはあった。光ると言われたこともあった。でも誰も、こういう言い方をしなかった。上手いとか下手とかではなく、どうやっているかを言い当てた人間は。しかも、修理に来た男が。
名前を聞けばよかった。
扉が閉まってから何度も思った。でも本番五分前だった。今さらどうしようもない。顔はまだ覚えている。ただ細部がすでに薄れてきている。背格好と、工具箱と、声の低さだけが残っている。
「由紀」
隣から朱里の声。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「顔が全然ここにいない」
由紀は餃子を飲み込んだ。
「ちょっと考えごとしてた」
「何を」
少し迷う。
「照明を直しに来た人のこと」
朱里がビールを置いた。
「あの人?」
「うん」
「なんで」
「帰り際に少し話して。名前を聞き忘れた」
朱里がまじまじと由紀を見た。
「由紀が人の名前を聞き忘れて惜しいと思うの、初めて見た」
「そんなことないですよ」
「ある。お前は人に関心がないわけじゃないけど、自分から追いかけるタイプじゃない」
由紀は黙った。
「何を話したの」
「間の話」
「間?」
「演技の話じゃなくて、でも同じ話になった」
朱里はしばらく由紀を見ていた。それから何も言わずにビールを飲んで、少し経ってから口を開く。
「田島に聞けば分かるんじゃない。あいつが呼んだんでしょ」
由紀は円卓の向こうの田島を探した。チャーハンの前にいる。
由紀が「さっきの修理の人って誰ですか」と聞くと、田島は少し驚いた顔をした。
「え、湊さんが聞くんですか」
「まずかったですか」
「まずくはないですけど、湊さんが人のこと聞くの珍しくて」
「朱里にも同じこと言われた」
「そうですよね、なんか意外で」
チャーハンをひと口食べてから、田島は続けた。
「あの人は柊海斗さんって言って、大学院生です。修士課程で。俺と同じアパートに住んでて、機械に詳しいって知ってたんで今日頼んだんですよ」
「大学院生」
「はい、工学系だと思います。柊って名字、珍しいでしょ」
珍しい。由紀はそれを頭に入れる。
「連絡先って分かりますか。聞きたいことがあって」
「あ、はい。同じアパートなんで確認してみます。ちょっと待ってもらえますか」
田島が席を立った。由紀はテーブルに戻る。
朱里が待ち構えていた。
「どうだった」
「名前は分かった。柊海斗さん、大学院生で工学系。田島さんと同じアパートに住んでるらしい」
「柊」
「珍しいよね」
「うん」
朱里が少し考える。
「で、聞きたいこととは」
由紀は少し間を置いた。
「帰り際に言ってた話の続き」
「続き?」
「計算じゃないなら、何なのか。それをまだ聞けていない」
朱里はしばらく由紀を見た。それから「へえ」と言う。
「それが聞きたくて連絡先を?」
「変かな」
「変じゃない」
朱里が少し笑った。
「むしろ由紀らしい。ちゃんと理由がある」
田島が戻ってきたのは十五分ほど後。
顔が少し申し訳なさそうだ。
「湊さん、行ってきたんですけど、来週修士論文の締め切りがあるらしくて。今週は集中したいから、来週以降にしてほしいって」
「来週で構わないです」
「じゃあ来週また確認してみます」
田島が戻っていった。
朱里が唐揚げに箸を伸ばす。
「論文の締め切り」
「うん」
「そっちが優先なのは当然だ」
「そうだと思う」
由紀はビールを飲んだ。
来週以降に話ができる。最初に何を言うかはまだ決めていない。間の話の続きを聞きたいとそのまま言えばいい、と朱里なら言うだろう。由紀にも分かってはいる。ただ、一回会っただけの人間に対してそれがどのくらい変なのかが、うまく測れない。
「朱里」
「何」
「会えたとして、最初に何て言えばいい」
朱里が長いため息をついた。
「お前、そこから分からないのか」
「分からない」
「先週のお礼でも、あのとき話してた続きでも、なんでもいい。とっかかりなんてなんでもいい」
「話の続きがあるから聞きたい、でいい?」
「それで十分だ」
「ありがとうございます」
「礼を言う前に話してから言え」
朱里が笑った。由紀も少し笑う。
同じ夜。
海斗はアパートで修士論文の第三章を書いていた。
締め切りまで六日。書けていない部分がまだ全体の三分の一ほどある。今週中に仕上げなければ田端教授に何を言われるか分からない。
ドアをノックする音。
開けると田島だった。
「夜遅くにすみません。ちょっといいですか」
「はい」
「今日の劇団の人なんですけど。湊さんっていって、柊さんに聞きたいことがあるって言ってて。会ってもらえますか」
海斗は少し考えた。
湊さん。今日の現場にいた誰かだ。名前は覚えていない。機械の追加の説明でも必要なのかもしれない。
「来週以降なら」
「今週は論文ですもんね。分かりました、そう伝えます」
「すみません」
「いや、全然。じゃあまた来週」
田島が帰っていく。
ドアを閉めて、机に戻る。
今日のことは特に思い返していなかった。照明盤を直した。端子を交換した。役者の一人と少し話した。
少し話した。
海斗は手を止めた。
間の話をした。計算じゃないと言った。向こうが「なぜ分かるのか」と聞いて、「機械も間が大事なんです」と答えた。そこで打ち切って帰ってきた。
名前を聞かなかった。
今さらそこに気づく。気にならなかったと言えば嘘になる。ただ、なぜ気になるのかが自分でもよく分からないまま帰ってきた。
田島経由で来週に劇団の人間と会えるなら、そのとき聞けばいい。
海斗は第三章の続きに向かう。
コーヒーが冷めていた。
翌週の火曜日。
由紀は昼の稽古を終えて稽古場を出た。空は曇っている。バイトまで二時間ある。
朱里が後ろから追いかけてきた。
「田島から話はあったか」
「まだ」
「そうか」
二人で並んで歩く。
「まあ、来なければ来ないで縁がなかったということだ」
朱里は前を向いたまま言った。由紀は黙った。
しばらく、足音だけが続く。
「朱里」
「何」
「ああいう人って、どういう人だと思う」
「どういう、とは」
「自分の仕事に集中していて、人への関心が薄い感じで。でも見たことは言える」
朱里が少し黙った。
「消えるよ、ああいう人は」
「消える?」
「空気みたいに。いつの間にかいなくなってる。仕事で動くか、別の現場に行くか、そもそも世界が違うか」
由紀は歩きながら聞いた。
「朱里も、そういう人を知ってるの」
「いる」
「どうなったの」
「いなくなった」
短い間。
「捕まえようとしなかったから。向こうも自分から繋がりを作る人間じゃなかったから。気づいたら別の現場にいた」
「後悔した?」
「した」
それきり少し黙った。
「だから言ってる。捕まえないと消える。田島に催促したら」
「……してみます」
朱里が少し驚いた顔をした。
「珍しいな、由紀が自分から動くのは」
「珍しくていい」
その夜、由紀は田島のアパートまで歩いた。
稽古場から十分ほど。田島が以前「海斗と同じアパートだ」と言っていた建物だ。
インターホンを押すと、しばらくして田島が出てきた。
「あ、湊さん。柊さんのことですよね」
「来週以降なら、って言ってたと聞いて」
「はい。今週は論文が終わってないらしくて。もう少し待てますか」
「全然待てます。論文が終わったようであれば、また声をかけてもらえますか」
「分かりました。連絡しますね」
自分の部屋に戻って、台本を開いた。間の部分に鉛筆で印をつける。いつも通りの作業だ。
でも今夜は、印をつけるたびにあの言葉が戻ってくる。
君の間の取り方は、計算じゃない。
計算じゃないなら、何なのか。それをまだ聞けていない。
その問いだけ、まだ持ち続けていた。
その週の木曜日の夜。
田島が由紀の部屋をノックしたのは八時過ぎ。
「湊さん、柊さんが論文終わったって。明日の夜なら時間があるって言ってて」
「ありがとうございます」
「場所、どうしますか。俺が間に入りましょうか」
「……お手数でなければ」
「全然。明日の夜、アパートの一階で落ち合えば。七時とかどうですか」
「大丈夫です」
田島が帰っていった。
由紀はドアを閉めて、しばらくそこに立つ。
明日会える。
顔は、まだ覚えている。ただ細部はすでに薄れている。声は覚えている。工具箱を持ち直した手の動きも、なぜか覚えている。
何を話すかは決まっている。
計算じゃないなら、何なのか。
それだけ聞ければいい。
由紀は台本に戻った。
高円寺の夜が、窓の外に続いていた。




