第26話「安全圏の外」
朝の柊家マンション。
リビングのテーブルに、台本が開いたまま置いてある。
遼はそれに触れず、黙ってトーストを食べていた。凛の台本は、凛が戻るまで動かさない。それが暗黙の了解だ。「勝手に触るな」と言われたわけではないが、何となくそう決めている。
台所から華が「遼、卵焼きいる?」と聞いてきた。
「いる」
「何個分?」
「二個」
「分かった。お姉ちゃんの分も作っておくね」
三人分の朝食が、いつも通りの手順で進んでいく。
しばらくして、凛が洗面所から戻ってきた。スーツ姿で、ロールブラシを手に持ったまま。台本を見た瞬間、少し目を細めた。
「……夕べ、ここに置きっぱなしにした」
「そうだな」
「触った?」
「触ってない」
「……ありがとう」
ロールブラシをソファに置いて、席についた。コーヒーを一口飲む。台本のページを一枚めくって、また戻す。
遼はトーストの最後のひと口を食べながら、ちらっと見た。昨夜から顔の種類が変わっていない。「詰まってる顔」とはまた違う。もう少し内側に向いている。
「今日、何の撮影?」
「神崎さんのドラマ」
「そか」
「……何か言いたいことある?」
「ない」
凛が遼をじっと見た。本当に何もない顔をしていたので、「そう」とだけ返した。
華が卵焼きを皿に盛りながら、「お姉ちゃん、昨日遅かったよね。台本全部読み直してた?」と聞いた。
「うん」
「セリフ入ってる?」
「セリフは問題ない」
「じゃあ何が」
凛は少し間を置いた。
「演技のことは、現場で解決するしかないから」
「そっか」
それ以上追わない。華の「そっか」は引き際が早い。この兄妹の中で、距離の測り方が一番上手いのは案外華だと遼は思っているが、それを言ったことはない。
卵焼きが三皿に分かれて、静かな朝食が続く。
柊家を出たのは九時過ぎ。
凛はタクシーの中で台本を読んでいた。
セリフは入っている。動線も頭に入っている。シーン7——台本に赤ペンで丸をつけたシーン——の主人公の感情が、どういう質のものか。その一点だけが、まだ自分の中でうまく固まらない。
「安全圏にいる」と神崎恒一は言った。
先週の撮影の後だった。控えめな言い方で、でも正確に、凛の演技の構造を指摘した。うまくやれている、のではなくて、うまくやれる範囲の中にいる。その違い。
凛は窓の外の東京を見た。
(分かってる。分かってるけど——)
どこが安全圏で、その外に何があるかは、分からないまま今日の現場に来てしまった。
スタジオは、普段通り動いていた。
スタッフの声、照明の調整音、共演者の声出し。凛は挨拶を済ませて、控室で最後の確認をした。
「柊さん」
神崎恒一がドアの前に立っていた。五十代の、身なりの地味な演出家。でも現場での指示の精度は、凛がこれまで一緒に仕事をした誰よりも高い。
「今日は、計算しないでください」
一言だけ言って、もう現場の方へ向かっていく。
凛はその背中に向かって、「分かりました」と返した。
分かった、という意味ではなかった。ただ、それしか言えなかった。
撮影が始まる。
シーン1からシーン6まで、順調に進んだ。凛の出番は少ない。だが一つ一つのシーンで、立ち方、声のトーン、視線の落とし方——全部を計算して組み上げていく。それが凛の演技の方法だ。六年間、そうやってきた。
シーン7。
凛のシーン。
台本の台詞は一行。
「あなたは、知らなくていい」
相手役の男性俳優が演じる場面。凛の役はその相手に対して、この一言だけを言う。笑ってはいけない。かといって怒っているわけでもない。複雑な、でも静かな台詞。
「本番いきます」
凛は相手を見た。計算する。テンポはこれくらい。声のトーンはこの高さ。視線は相手の目ではなく、少し下。
「あなたは、知らなくていい」
カット。
「……もう一度」
神崎の声。
凛は頷いて、また組み直した。今度は声を少し落としてみる。視線を相手の目に向けてみる。
「あなたは、知らなくていい」
「もう一度」
また。
今度はテンポを変えた。前半を少しゆっくりにして、最後の「いい」を短く切る。
「もう一度」
また。
また。
また。
何度目かで、凛は気づいた。
自分はずっと、「何を変えれば正解になるか」を探している。テンポか、声のトーンか、視線の角度か。正解への計算を、ずっとしている。
——ここが安全圏だ。
一瞬、そう思った。
思ったまま、次の「もう一度」が来た。
凛は——考えるのをやめた。
そうではなくて。正確には、考えを手放した。この台詞を言う前に何かを組み立てようとする、その動作をやめた。
相手を見た。ただ、見た。
「あなたは、知らなくていい」
沈黙。
神崎の声が来るまで、三秒くらいあったと思う。
「……もう一度。同じでいい」
凛の胸の中で、何かが静かに揺れた。
「失敗じゃない」と言われたのと同じことだ。
撮影が終わったのは夕方。
神崎が凛のそばを通る際に、ひと言だけ言った。
「あなたは変われる」
振り返らず、次のスタッフのところへ歩いていく。
凛は廊下に一人残された。
「変われる」は、まだ変わっていない、という意味でもある。
それでも——なぜか、口の端が少し動いた。
翌日。
映画『春を告げる鐘』の撮影現場。
スタジオとは別の空気がある。映画の現場はドラマよりも動きがゆっくりで、でも一カットにかける時間の密度が違う。凛はここに来るたびに、少しだけ呼吸の仕方を変える感覚になる。
今日の凛の出番は午後から。
午前中は華の撮影で、凛は隅のパイプ椅子に座って待っていた。
華の演技を見ていた。
高校の教室のシーン。華が演じる主人公・葵と、宮本奈々が演じる茉莉が、机を並べて話している。ごく短い場面。でも——
凛は椅子の上で、ほんの少し前のめりになった。
華のセリフは特別難しくない。でも華が話すと、その言葉が空気の中に溶けるみたいに広がる。計算で出している音ではない。感覚がそのまま言葉になっている。
隣の奈々もそうだ。二人のやり取りを見ていると、スタジオなのにそこが本当に高校の教室に見えてくる。現実が書き換わる感覚。凛は六年女優をやっているが、それがまだうまく分からない。
「カット」の声。
モニターに映像が確認されて、監督が「OK」と言った。華が力を抜いて笑った。奈々が隣で「よかった」と言いながら肩を叩いた。撮影の空気が、一瞬だけ柔らかくなる。
(華は、安全圏にいない)
いつからかは分からない。でも華は、最初から外側にいる。計算の枠を持たずに演技の中に入っていく。だから溢れる。
(私は——この現場でも、まだ中にいる)
昨日の神崎の現場で、一度だけ外に出た。
でも「一度」だ。
午後。凛の出番が来た。
凛が演じるのは三浦柚。葵の兄・朔の姉。感情を外に出さない、静かな女性。凛の演技スタイルにそのまま乗せればいい役——のはずだった。
本来なら。
でも今日は、昨日が体に残っていた。
「計算しないでみた」感触が、まだどこかにある。消えていない。
準備が整って、「本番」の声がかかる。
凛は相手役の前に立った。深呼吸は一回。
台詞を言う直前に、昨日みたいに「手放す」動作をするかどうか、少し迷った。
迷っている間に——始まった。
台詞を言った。
昨日より短い沈黙で「OK」が出た。
監督が近づいてきた。
「柊さん、今日何か変わりましたか?」
凛は少し考えた。
「……わかりません」
「いいですね」
監督はそのまま次のカットの確認に向かった。
凛は自分の手を見た。
手は変わっていない。でも——何かが、少しずれた気がする。
撮影の合間、凛は奈々の横を通りかかった。
奈々は椅子に座って、水を飲んでいた。台本は膝の上にある。でも読んでいるわけではない。ただ現場の空気の中にいる。
目が合った。
「お疲れ様です」
「お疲れ。凛さん、今日のシーン、良かった」
「……ありがとうございます」
「良かった、の意味が伝わってるといいんだけど」
凛は奈々を見た。
「伝わってると思います」
「そ。ならいい」
奈々はそれ以上何も言わなかった。椅子の上でストレッチをしながら、次の確認作業に戻っていく。
凛は少し歩いてから、振り返った。
奈々は何も見ていない。現場の空気を、ただ受け取っている。
(あの人も——安全圏にいない)
二十年かけてそこに立っている。凛は、まだ一日目だ。
撮影が終わって、スタジオを出たのは夜の八時前。
タクシーに乗って、柊家マンションへ向かう。車内で台本を閉じた。今日は読まなくていい。
マンションのエントランスに入ると、ちょうど遼が買い物袋を提げて戻ってきた。コンビニの袋に、卵と牛乳とミネラルウォーター。
「お疲れ」
「うん」
エレベーターを一緒に待って、一緒に乗った。遼はスマートフォンを見ている。凛は正面の鏡越しに自分の顔を見た。
目が少し赤い。
気づいていない。遼はスマートフォンの画面から顔を上げない。
部屋に入ると、華が先に帰っていた。台所で洗い物をしている。
「お疲れ」
「お疲れ。ごはん、作っておくね」
「……ありがとう」
凛は荷物を置いて、洗顔に向かった。
鏡の前で顔を洗いながら、一人になった。
(……どうして泣きそうなんだろう)
分からない。悔しいわけでも、嬉しいわけでも——たぶん、どっちもある。どっちがどれくらいかも分からない。
タオルで顔を拭いて、もう一度鏡を見た。
目の赤みが少し増した。
まずい、と思って洗面台の下の棚から目薬を出した。さすのが遅いか早いかの問題ではなかったが、とりあえずさした。
夕食は華の作ったパスタだった。
遼がフォークを動かしながら「美味い」と言った。華が「そうでしょ」と言った。凛はワインを少し注いで、自分でも飲んだ。
「凛、今日なんか目赤くない?」
華が聞いた。
「花粉」
「今の季節に?」
「秋にもなる人はなる」
「……そんな話、初めて聞いた」
「いるんだよ、一定数」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫」
遼がパスタをフォークに巻きながら、ちらっと凛を見た。
「花粉か?」
「そうだって言ってる」
「……そか」
花粉で終わらせて、戻った。
凛は「そかじゃないんだよ」と言おうとして——やめた。
「そか」でいい。今は。
夜、一人で部屋に入った。
ベッドに腰を下ろして、しばらく天井を見た。
昨日は泣かなかった。今日は、部屋に入った瞬間から目が熱い。
なんで。
計算しないで、ただ相手を見て、台詞を言った。そんなことで、どうして——
「あなたは変われる」という神崎の言葉。
「今日何か変わりましたか」という監督の問い。
華の演技を横で見ていた午前中の空気。
「良かった」と言った奈々の顔。
全部が一度にきた。
凛は、静かに泣いた。
声は出さない。ただ、涙が出た。
嬉しいのか悔しいのか、自分でもまだ分からないまま——
ただ、今日のことを誰かに話したい、とは思わなかった。
話せる言葉がまだない。
翌朝。
遼が台所でお湯を沸かしていたら、凛が洗面所から出てきた。
目の下が少し赤い。
「風邪か?」
「違う」
「そか」
「……そかって何!」
「違うって言ったから」
「だからってそかって終わるの!?」
遼はコーヒーのフィルターをセットしながら、「……何があったの」と言った。若干遅い。でも一応聞いた。
「なんでもない」
「そか」
「だから!」
華が眠そうな顔でリビングに入ってきた。凛と遼のやり取りを一秒で把握して、「遼、そこはもう少し聞いてあげてよ」と言った。
「聞いた」
「タイミングが悪い」
「聞いた」
「一回目から聞いてあげなよ」
「聞いたのに違うって言ってた」
華が凛を見た。凛が遼を見た。遼はコーヒーを淹れている。
「……遼って、基本的に不器用だよね」と華が言った。
「普通だと思うけど」
「遼の普通は普通じゃないんだよ」
「そうか?」
凛はため息をついた。
「もういい」
「そか」
「そかって言わないで」
「じゃあ何て言えば」と遼が本気で聞いてきたので、凛は「うるさい」とだけ言ってコーヒーを奪った。
アリアが柊家のインターフォンを押したのは、昼過ぎのことだった。
三日連続の訪問だ。
遼が「どうぞ」と言って鍵を開けると、今日のアリアはリュックを背負っていた。片手にコンビニの袋。中身がいくつか入っている。
*"Hi."*
「どうぞ」
*"I brought snacks today. Felt bad coming three days in a row empty-handed."*
(今日は軽食持ってきた。三日続けて手ぶらも悪いと思って)
*"I'll have it later."*
(あとで食べます)
*"Now is fine too."*
(今でもいい)
*"I'm in the middle of something."*
(今は作業中なので)
*"Then eat while you work."*
(じゃあ作業しながら)
*"……I'll do that."*
(……します)
リビングに入って、アリアはいつもの位置、作業台の横のスペースを確保した。遼はプログラムの画面に向かっている。今日は比較的集中度が高い。アリアはそれをもう三日で学習した。
コンビニの袋を開けた。おにぎりが二個と、プリンが一個。
*"Pudding,"* と遼が言った。
*"It was there. Want some?"*
(あったから。食べる?)
*"……Later."*
(……後で)
*"Later, then."*
(後でね)
アリアは技術書を開いた。今日は自分で調べた内容について、遼に聞きたいことが三つある。それを順番に聞いていくつもりだ。
*"Ryo."*
「なんですか」
*"I was looking into the noise stuff last night, and there's a part I don't get."*
(ノイズの件、昨日の夜に調べてたんだけど、分からないところがあって)
タブレットに画面を出して見せる。遼がひと目見て言った。
*"The premise of this calculation is wrong."*
(ここの計算の前提が違います)
*"Where?"*
(どこが)
*"The way input impedance is handled has changed. This is using an older method."*
(入力インピーダンスの扱いが変わってる。旧式の方式を使ってる)
*"Ah——the paper I referenced might have been old."*
(あ——参照した論文が古かったのかも)
*"Probably."*
(たぶん)
*"So what's the current method?"*
(じゃあ今の方法は?)
遼がキーボードを動かして、別の画面を出した。数式が並ぶ。アリアは身を乗り出して、順を追って見ていく。
しばらく、技術の話だけが続いた。
夕方。
華が帰宅して、リビングに顔を出した。
「アリアさん、また来てたんだ」
「……きた」
「お姉ちゃん今日何時に帰るか、遼知ってる?」
「知らない」
「そっか——アリアさん、今日ご飯食べてく?」
華が気軽に聞いた。アリアは少し驚いた顔をしてから、遼を見た。
*"……Is it okay for me to stay?"*
(いていいですか)
*"If Hana's cooking, ask her."*
(華が作るなら、そっちに聞いてください)
アリアが華を見た。
「……あの、華ちゃん、ごはん……たべて、いいですか」
「いいよ! 余裕!」
「……ありがとう、ございます」
「何食べたい?」
アリアが少し考えた。
「にほんの……たべもの、が、いいです。なんでも」
「カレーでいい?」
「カレー……すき、です。*very much.*」
話が決まって、華が台所に向かった。
アリアがロバートにメッセージを送った。今夜は柊家で夕食をとる、という内容。
ロバートからは三十秒で返信が来た。
*"Please be back by nine."*
(九時までに戻ってきてください)
アリアは「OK」と返した。
夕食の途中に、凛が帰ってきた。
撮影が早く終わったらしい。玄関のドアが開く音。リビングに入ってきた凛は、テーブルにアリアがいるのを見て、一秒止まった。
「あ、アリアさん。今日も来てたんですね」
「柊凛さん、ですよね。……こんにちは」
「こんにちは。……遼、また来ていただいてるの」
「技術の話をしていたので」
凛がアリアに向き直った。
「うちの弟がお世話になってます」
「いえ、わたしが……おじゃましてます」
凛は荷物を置いて、手を洗いに行った。戻ってきて、華が「椅子一個ずらして、横に座って」と言ったので、アリアの隣に座った。
「アリアさん、日本語うまくなってる?」
華がカレーを盛り直しながら聞いた。
「むずかしい。でも、聞くのは……少し、わかるように、なりました」
「喋る方は?」
「……まだ、です」
「教えてあげようか」
「ほんとう、に?」
「遼じゃ教えてくれないだろうし」
「遼は、おしえてくれる。でも……はつおんの話、ばかりで、おもしろくない」
遼が「正確さは大事です」と言った。
「せいかく、すぎて……おもしろくない」とアリアが繰り返した。
凛が少し口の端を動かした。笑ったかどうか、ほんのわずかな量だったので、アリアには確認できなかった。
「柊凛さんは……えんぎを、するとき、なにを、かんがえますか」
食後、アリアが聞いた。
テーブルで四人、お茶を飲んでいた。遼はスマートフォンを見ている。華はアリアの日本語教材になるべく簡単な言葉を探している。
凛は少し間を置いた。
「今日は——あまり考えなかった」
アリアが遼の方をちらりと見た。遼が小声で英語に訳した。アリアが凛に向き直る。
*"That was good or bad?"*
(それは良かったの、悪かったの?)
「……たぶん、良かった」
*"Maybe?"*
(たぶん?)
「まだよく分かってないから」
アリアが少し考える顔をした。遼がまた小声で訳す。
*"I get that. Like when you don't know right away if an experiment worked or not."*
(分かる。実験がうまくいったのか、すぐ分からないやつ)
「そう」
*"The data is there, but the framework to evaluate it hasn't caught up yet."*
(データは出てるんだけど、評価の枠組みが追いついてない感じ)
凛は少し間を置いてから言った。
「……そういう感じかもしれない」
「うまくいった可能性の方が高いと思う」と遼が言った。スマートフォンから顔を上げないまま。
凛が遼を見た。
「何を根拠に」
「昨日と顔が違う」
「……具体的に」
「いつもより内側に向いている。昨日は外にいた。そういう顔の日は、何か起きてる」
華が「遼って、そういうことだけは気づくんだよね」とぼそっと言った。
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
アリアが *"Ryo, how do you say 'the look on someone's face is different' in English?"* とタブレットを出した。「顔の種類が違う」という表現が欲しいらしい。
遼が説明し始めた。凛はコーヒーカップを持ったまま、「まあ、うるさい」と言った。遼は聞いていない。
九時前にアリアが帰り、華が洗い物をして、遼がプログラムの続きに戻った。
リビングに凛が一人残った。
コーヒーを飲みながら、台本を膝に置いた。開かなかった。
「昨日と顔が違う」と遼は言った。
気づいていた。
気づいていたのに、「そか」で終わらせた。でもあのタイミングで「何があったの」とは聞かなかった——正確には、聞けない話だということは、たぶん分かっていた。
凛は台本を閉じた。
今夜は読まなくていい。明後日の撮影の準備は、明日でいい。
「あなたは変われる」という言葉が、まだどこかにある。
変われる、ということは——まだそこじゃない、ということだ。でも今日は、昨日より少しだけ前に出た。
たぶん。
凛は天井を見た。
窓の外で、東京の夜が続いている。どこかで誰かが何かをしている。神崎恒一は今日の映像を確認しているかもしれない。華の映画の監督は次の撮影の準備をしているかもしれない。遼は部屋でプログラムを書いている。
自分は——ここにいる。
まだ安全圏の内側にいるかもしれない。でも今日は、外の輪郭が少しだけ見えた気がする。
(分からないまま、でいい。今は)
それが怖かったのか、嬉しかったのか——凛には、まだはっきりと分からなかった。
ただ、もう一度泣きそうになったので、コーヒーをひと口飲んで、気持ちを切り替えた。
翌朝。
三人で朝食を食べていた。
いつも通りの柊家。凛が遼の取り皿に手を伸ばした。
「それ私が先に取った」
「隙を見せたから」
「隙じゃない、置いただけ」
「置いてある間は共有物」
「そんな法律はない!」
「兄妹間は慣習法で」
華が「慣習法って何」と聞いた。遼が説明し始めた。凛は取り皿を奪い返しながら「どうでもいい」と言った。
いつも通りの朝だった。
凛の目の赤みは、今朝は引いていた。遼は気づかなかった。華は気づいたけど、聞かなかった。
兄妹というのは、たいていそういうものだ。




