表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/164

第26話「安全圏の外」

 朝の(ひいらぎ)家マンション。


 リビングのテーブルに、台本が開いたまま置いてある。


 (りょう)はそれに触れず、黙ってトーストを食べていた。(りん)の台本は、凛が戻るまで動かさない。それが暗黙の了解だ。「勝手に触るな」と言われたわけではないが、何となくそう決めている。


 台所から(はな)が「遼、卵焼きいる?」と聞いてきた。


「いる」


「何個分?」


「二個」


「分かった。お姉ちゃんの分も作っておくね」


 三人分の朝食が、いつも通りの手順で進んでいく。


 しばらくして、凛が洗面所から戻ってきた。スーツ姿で、ロールブラシを手に持ったまま。台本を見た瞬間、少し目を細めた。


「……夕べ、ここに置きっぱなしにした」


「そうだな」


「触った?」


「触ってない」


「……ありがとう」


 ロールブラシをソファに置いて、席についた。コーヒーを一口飲む。台本のページを一枚めくって、また戻す。


 遼はトーストの最後のひと口を食べながら、ちらっと見た。昨夜から顔の種類が変わっていない。「詰まってる顔」とはまた違う。もう少し内側に向いている。


「今日、何の撮影?」


「神崎さんのドラマ」


「そか」


「……何か言いたいことある?」


「ない」


 凛が遼をじっと見た。本当に何もない顔をしていたので、「そう」とだけ返した。


 華が卵焼きを皿に盛りながら、「お姉ちゃん、昨日遅かったよね。台本全部読み直してた?」と聞いた。


「うん」


「セリフ入ってる?」


「セリフは問題ない」


「じゃあ何が」


 凛は少し間を置いた。


「演技のことは、現場で解決するしかないから」


「そっか」


 それ以上追わない。華の「そっか」は引き際が早い。この兄妹の中で、距離の測り方が一番上手いのは案外華だと遼は思っているが、それを言ったことはない。


 卵焼きが三皿に分かれて、静かな朝食が続く。


   


 柊家を出たのは九時過ぎ。


 凛はタクシーの中で台本を読んでいた。


 セリフは入っている。動線も頭に入っている。シーン7——台本に赤ペンで丸をつけたシーン——の主人公の感情が、どういう質のものか。その一点だけが、まだ自分の中でうまく固まらない。


 「安全圏にいる」と神崎(かんざき)恒一(こういち)は言った。


 先週の撮影の後だった。控えめな言い方で、でも正確に、凛の演技の構造を指摘した。うまくやれている、のではなくて、うまくやれる範囲の中にいる。その違い。


 凛は窓の外の東京を見た。


 (分かってる。分かってるけど——)


 どこが安全圏で、その外に何があるかは、分からないまま今日の現場に来てしまった。


   


 スタジオは、普段通り動いていた。


 スタッフの声、照明の調整音、共演者の声出し。凛は挨拶を済ませて、控室で最後の確認をした。


「柊さん」


 神崎恒一がドアの前に立っていた。五十代の、身なりの地味な演出家。でも現場での指示の精度は、凛がこれまで一緒に仕事をした誰よりも高い。


「今日は、計算しないでください」


 一言だけ言って、もう現場の方へ向かっていく。


 凛はその背中に向かって、「分かりました」と返した。


 分かった、という意味ではなかった。ただ、それしか言えなかった。


   


 撮影が始まる。


 シーン1からシーン6まで、順調に進んだ。凛の出番は少ない。だが一つ一つのシーンで、立ち方、声のトーン、視線の落とし方——全部を計算して組み上げていく。それが凛の演技の方法だ。六年間、そうやってきた。


 シーン7。


 凛のシーン。


 台本の台詞は一行。


「あなたは、知らなくていい」


 相手役の男性俳優が演じる場面。凛の役はその相手に対して、この一言だけを言う。笑ってはいけない。かといって怒っているわけでもない。複雑な、でも静かな台詞。


「本番いきます」


 凛は相手を見た。計算する。テンポはこれくらい。声のトーンはこの高さ。視線は相手の目ではなく、少し下。


「あなたは、知らなくていい」


 カット。


「……もう一度」


 神崎の声。


 凛は頷いて、また組み直した。今度は声を少し落としてみる。視線を相手の目に向けてみる。


「あなたは、知らなくていい」


「もう一度」


 また。


 今度はテンポを変えた。前半を少しゆっくりにして、最後の「いい」を短く切る。


「もう一度」


 また。


 また。


 また。


 何度目かで、凛は気づいた。


 自分はずっと、「何を変えれば正解になるか」を探している。テンポか、声のトーンか、視線の角度か。正解への計算を、ずっとしている。


 ——ここが安全圏だ。


 一瞬、そう思った。


 思ったまま、次の「もう一度」が来た。


 凛は——考えるのをやめた。


 そうではなくて。正確には、考えを手放した。この台詞を言う前に何かを組み立てようとする、その動作をやめた。


 相手を見た。ただ、見た。


「あなたは、知らなくていい」


 沈黙。


 神崎の声が来るまで、三秒くらいあったと思う。


「……もう一度。同じでいい」


 凛の胸の中で、何かが静かに揺れた。


 「失敗じゃない」と言われたのと同じことだ。


   


 撮影が終わったのは夕方。


 神崎が凛のそばを通る際に、ひと言だけ言った。


「あなたは変われる」


 振り返らず、次のスタッフのところへ歩いていく。


 凛は廊下に一人残された。


 「変われる」は、まだ変わっていない、という意味でもある。


 それでも——なぜか、口の端が少し動いた。


   


 翌日。


 映画『春を告げる鐘』の撮影現場。


 スタジオとは別の空気がある。映画の現場はドラマよりも動きがゆっくりで、でも一カットにかける時間の密度が違う。凛はここに来るたびに、少しだけ呼吸の仕方を変える感覚になる。


 今日の凛の出番は午後から。


 午前中は華の撮影で、凛は隅のパイプ椅子に座って待っていた。


 華の演技を見ていた。


 高校の教室のシーン。華が演じる主人公・葵と、宮本(みやもと)奈々(なな)が演じる茉莉が、机を並べて話している。ごく短い場面。でも——


 凛は椅子の上で、ほんの少し前のめりになった。


 華のセリフは特別難しくない。でも華が話すと、その言葉が空気の中に溶けるみたいに広がる。計算で出している音ではない。感覚がそのまま言葉になっている。


 隣の奈々もそうだ。二人のやり取りを見ていると、スタジオなのにそこが本当に高校の教室に見えてくる。現実が書き換わる感覚。凛は六年女優をやっているが、それがまだうまく分からない。


 「カット」の声。


 モニターに映像が確認されて、監督が「OK」と言った。華が力を抜いて笑った。奈々が隣で「よかった」と言いながら肩を叩いた。撮影の空気が、一瞬だけ柔らかくなる。


 (華は、安全圏にいない)


 いつからかは分からない。でも華は、最初から外側にいる。計算の枠を持たずに演技の中に入っていく。だから溢れる。


 (私は——この現場でも、まだ中にいる)


 昨日の神崎の現場で、一度だけ外に出た。


 でも「一度」だ。


   


 午後。凛の出番が来た。


 凛が演じるのは三浦(みうら)(ゆず)。葵の兄・朔の姉。感情を外に出さない、静かな女性。凛の演技スタイルにそのまま乗せればいい役——のはずだった。


 本来なら。


 でも今日は、昨日が体に残っていた。


 「計算しないでみた」感触が、まだどこかにある。消えていない。


 準備が整って、「本番」の声がかかる。


 凛は相手役の前に立った。深呼吸は一回。


 台詞を言う直前に、昨日みたいに「手放す」動作をするかどうか、少し迷った。


 迷っている間に——始まった。


 台詞を言った。


 昨日より短い沈黙で「OK」が出た。


 監督が近づいてきた。


「柊さん、今日何か変わりましたか?」


 凛は少し考えた。


「……わかりません」


「いいですね」


 監督はそのまま次のカットの確認に向かった。


 凛は自分の手を見た。


 手は変わっていない。でも——何かが、少しずれた気がする。


   


 撮影の合間、凛は奈々の横を通りかかった。


 奈々は椅子に座って、水を飲んでいた。台本は膝の上にある。でも読んでいるわけではない。ただ現場の空気の中にいる。


 目が合った。


「お疲れ様です」


「お疲れ。凛さん、今日のシーン、良かった」


「……ありがとうございます」


「良かった、の意味が伝わってるといいんだけど」


 凛は奈々を見た。


「伝わってると思います」


「そ。ならいい」


 奈々はそれ以上何も言わなかった。椅子の上でストレッチをしながら、次の確認作業に戻っていく。


 凛は少し歩いてから、振り返った。


 奈々は何も見ていない。現場の空気を、ただ受け取っている。


 (あの人も——安全圏にいない)


 二十年かけてそこに立っている。凛は、まだ一日目だ。


   


 撮影が終わって、スタジオを出たのは夜の八時前。


 タクシーに乗って、柊家マンションへ向かう。車内で台本を閉じた。今日は読まなくていい。


 マンションのエントランスに入ると、ちょうど遼が買い物袋を提げて戻ってきた。コンビニの袋に、卵と牛乳とミネラルウォーター。


「お疲れ」


「うん」


 エレベーターを一緒に待って、一緒に乗った。遼はスマートフォンを見ている。凛は正面の鏡越しに自分の顔を見た。


 目が少し赤い。


 気づいていない。遼はスマートフォンの画面から顔を上げない。


   


 部屋に入ると、華が先に帰っていた。台所で洗い物をしている。


「お疲れ」


「お疲れ。ごはん、作っておくね」


「……ありがとう」


 凛は荷物を置いて、洗顔に向かった。


 鏡の前で顔を洗いながら、一人になった。


 (……どうして泣きそうなんだろう)


 分からない。悔しいわけでも、嬉しいわけでも——たぶん、どっちもある。どっちがどれくらいかも分からない。


 タオルで顔を拭いて、もう一度鏡を見た。


 目の赤みが少し増した。


 まずい、と思って洗面台の下の棚から目薬を出した。さすのが遅いか早いかの問題ではなかったが、とりあえずさした。


   


 夕食は華の作ったパスタだった。


 遼がフォークを動かしながら「美味い」と言った。華が「そうでしょ」と言った。凛はワインを少し注いで、自分でも飲んだ。


「凛、今日なんか目赤くない?」


 華が聞いた。


「花粉」


「今の季節に?」


「秋にもなる人はなる」


「……そんな話、初めて聞いた」


「いるんだよ、一定数」


「お姉ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫」


 遼がパスタをフォークに巻きながら、ちらっと凛を見た。


「花粉か?」


「そうだって言ってる」


「……そか」


 花粉で終わらせて、戻った。


 凛は「そかじゃないんだよ」と言おうとして——やめた。


 「そか」でいい。今は。


   


 夜、一人で部屋に入った。


 ベッドに腰を下ろして、しばらく天井を見た。


 昨日は泣かなかった。今日は、部屋に入った瞬間から目が熱い。


 なんで。


 計算しないで、ただ相手を見て、台詞を言った。そんなことで、どうして——


 「あなたは変われる」という神崎の言葉。


 「今日何か変わりましたか」という監督の問い。


 華の演技を横で見ていた午前中の空気。


 「良かった」と言った奈々の顔。


 全部が一度にきた。


 凛は、静かに泣いた。


 声は出さない。ただ、涙が出た。


 嬉しいのか悔しいのか、自分でもまだ分からないまま——


 ただ、今日のことを誰かに話したい、とは思わなかった。


 話せる言葉がまだない。


   


 翌朝。


 遼が台所でお湯を沸かしていたら、凛が洗面所から出てきた。


 目の下が少し赤い。


「風邪か?」


「違う」


「そか」


「……そかって何!」


「違うって言ったから」


「だからってそかって終わるの!?」


 遼はコーヒーのフィルターをセットしながら、「……何があったの」と言った。若干遅い。でも一応聞いた。


「なんでもない」


「そか」


「だから!」


 華が眠そうな顔でリビングに入ってきた。凛と遼のやり取りを一秒で把握して、「遼、そこはもう少し聞いてあげてよ」と言った。


「聞いた」


「タイミングが悪い」


「聞いた」


「一回目から聞いてあげなよ」


「聞いたのに違うって言ってた」


 華が凛を見た。凛が遼を見た。遼はコーヒーを淹れている。


「……遼って、基本的に不器用だよね」と華が言った。


「普通だと思うけど」


「遼の普通は普通じゃないんだよ」


「そうか?」


 凛はため息をついた。


「もういい」


「そか」


「そかって言わないで」


 「じゃあ何て言えば」と遼が本気で聞いてきたので、凛は「うるさい」とだけ言ってコーヒーを奪った。


   


 アリア(Aria)が柊家のインターフォンを押したのは、昼過ぎのことだった。


 三日連続の訪問だ。


 遼が「どうぞ」と言って鍵を開けると、今日のアリアはリュックを背負っていた。片手にコンビニの袋。中身がいくつか入っている。


*"Hi."*


「どうぞ」


*"I brought snacks today. Felt bad coming three days in a row empty-handed."*

(今日は軽食持ってきた。三日続けて手ぶらも悪いと思って)


*"I'll have it later."*

(あとで食べます)


*"Now is fine too."*

(今でもいい)


*"I'm in the middle of something."*

(今は作業中なので)


*"Then eat while you work."*

(じゃあ作業しながら)


*"……I'll do that."*

(……します)


 リビングに入って、アリアはいつもの位置、作業台の横のスペースを確保した。遼はプログラムの画面に向かっている。今日は比較的集中度が高い。アリアはそれをもう三日で学習した。


 コンビニの袋を開けた。おにぎりが二個と、プリンが一個。


*"Pudding,"* と遼が言った。


*"It was there. Want some?"*

(あったから。食べる?)


*"……Later."*

(……後で)


*"Later, then."*

(後でね)


 アリアは技術書を開いた。今日は自分で調べた内容について、遼に聞きたいことが三つある。それを順番に聞いていくつもりだ。


*"Ryo."*


「なんですか」


*"I was looking into the noise stuff last night, and there's a part I don't get."*

(ノイズの件、昨日の夜に調べてたんだけど、分からないところがあって)


 タブレットに画面を出して見せる。遼がひと目見て言った。


*"The premise of this calculation is wrong."*

(ここの計算の前提が違います)


*"Where?"*

(どこが)


*"The way input impedance is handled has changed. This is using an older method."*

(入力インピーダンスの扱いが変わってる。旧式の方式を使ってる)


*"Ah——the paper I referenced might have been old."*

(あ——参照した論文が古かったのかも)


*"Probably."*

(たぶん)


*"So what's the current method?"*

(じゃあ今の方法は?)


 遼がキーボードを動かして、別の画面を出した。数式が並ぶ。アリアは身を乗り出して、順を追って見ていく。


 しばらく、技術の話だけが続いた。


   


 夕方。


 華が帰宅して、リビングに顔を出した。


「アリアさん、また来てたんだ」


「……きた」


「お姉ちゃん今日何時に帰るか、遼知ってる?」


「知らない」


「そっか——アリアさん、今日ご飯食べてく?」


 華が気軽に聞いた。アリアは少し驚いた顔をしてから、遼を見た。


*"……Is it okay for me to stay?"*

(いていいですか)


*"If Hana's cooking, ask her."*

(華が作るなら、そっちに聞いてください)


 アリアが華を見た。


「……あの、華ちゃん、ごはん……たべて、いいですか」


「いいよ! 余裕!」


「……ありがとう、ございます」


「何食べたい?」


 アリアが少し考えた。


「にほんの……たべもの、が、いいです。なんでも」


「カレーでいい?」


「カレー……すき、です。*very much.*」


 話が決まって、華が台所に向かった。


 アリアがロバートにメッセージを送った。今夜は柊家で夕食をとる、という内容。


 ロバートからは三十秒で返信が来た。


*"Please be back by nine."*

(九時までに戻ってきてください)


 アリアは「OK」と返した。


   


 夕食の途中に、凛が帰ってきた。


 撮影が早く終わったらしい。玄関のドアが開く音。リビングに入ってきた凛は、テーブルにアリアがいるのを見て、一秒止まった。


「あ、アリアさん。今日も来てたんですね」


「柊凛さん、ですよね。……こんにちは」


「こんにちは。……遼、また来ていただいてるの」


「技術の話をしていたので」


 凛がアリアに向き直った。


「うちの弟がお世話になってます」


「いえ、わたしが……おじゃましてます」


 凛は荷物を置いて、手を洗いに行った。戻ってきて、華が「椅子一個ずらして、横に座って」と言ったので、アリアの隣に座った。


「アリアさん、日本語うまくなってる?」


 華がカレーを盛り直しながら聞いた。


「むずかしい。でも、聞くのは……少し、わかるように、なりました」


「喋る方は?」


「……まだ、です」


「教えてあげようか」


「ほんとう、に?」


「遼じゃ教えてくれないだろうし」


「遼は、おしえてくれる。でも……はつおんの話、ばかりで、おもしろくない」


 遼が「正確さは大事です」と言った。


「せいかく、すぎて……おもしろくない」とアリアが繰り返した。


 凛が少し口の端を動かした。笑ったかどうか、ほんのわずかな量だったので、アリアには確認できなかった。


   


「柊凛さんは……えんぎを、するとき、なにを、かんがえますか」


 食後、アリアが聞いた。


 テーブルで四人、お茶を飲んでいた。遼はスマートフォンを見ている。華はアリアの日本語教材になるべく簡単な言葉を探している。


 凛は少し間を置いた。


「今日は——あまり考えなかった」


 アリアが遼の方をちらりと見た。遼が小声で英語に訳した。アリアが凛に向き直る。


*"That was good or bad?"*

(それは良かったの、悪かったの?)


「……たぶん、良かった」


*"Maybe?"*

(たぶん?)


「まだよく分かってないから」


 アリアが少し考える顔をした。遼がまた小声で訳す。


*"I get that. Like when you don't know right away if an experiment worked or not."*

(分かる。実験がうまくいったのか、すぐ分からないやつ)


「そう」


*"The data is there, but the framework to evaluate it hasn't caught up yet."*

(データは出てるんだけど、評価の枠組みが追いついてない感じ)


 凛は少し間を置いてから言った。


「……そういう感じかもしれない」


「うまくいった可能性の方が高いと思う」と遼が言った。スマートフォンから顔を上げないまま。


 凛が遼を見た。


「何を根拠に」


「昨日と顔が違う」


「……具体的に」


「いつもより内側に向いている。昨日は外にいた。そういう顔の日は、何か起きてる」


 華が「遼って、そういうことだけは気づくんだよね」とぼそっと言った。


「普通だろ」


「普通じゃないよ」


 アリアが *"Ryo, how do you say 'the look on someone's face is different' in English?"* とタブレットを出した。「顔の種類が違う」という表現が欲しいらしい。


 遼が説明し始めた。凛はコーヒーカップを持ったまま、「まあ、うるさい」と言った。遼は聞いていない。


   


 九時前にアリアが帰り、華が洗い物をして、遼がプログラムの続きに戻った。


 リビングに凛が一人残った。


 コーヒーを飲みながら、台本を膝に置いた。開かなかった。


 「昨日と顔が違う」と遼は言った。


 気づいていた。


 気づいていたのに、「そか」で終わらせた。でもあのタイミングで「何があったの」とは聞かなかった——正確には、聞けない話だということは、たぶん分かっていた。


 凛は台本を閉じた。


 今夜は読まなくていい。明後日の撮影の準備は、明日でいい。


 「あなたは変われる」という言葉が、まだどこかにある。


 変われる、ということは——まだそこじゃない、ということだ。でも今日は、昨日より少しだけ前に出た。


 たぶん。


 凛は天井を見た。


 窓の外で、東京の夜が続いている。どこかで誰かが何かをしている。神崎恒一は今日の映像を確認しているかもしれない。華の映画の監督は次の撮影の準備をしているかもしれない。遼は部屋でプログラムを書いている。


 自分は——ここにいる。


 まだ安全圏の内側にいるかもしれない。でも今日は、外の輪郭が少しだけ見えた気がする。


 (分からないまま、でいい。今は)


 それが怖かったのか、嬉しかったのか——凛には、まだはっきりと分からなかった。


 ただ、もう一度泣きそうになったので、コーヒーをひと口飲んで、気持ちを切り替えた。


   


 翌朝。


 三人で朝食を食べていた。


 いつも通りの柊家。凛が遼の取り皿に手を伸ばした。


「それ私が先に取った」


「隙を見せたから」


「隙じゃない、置いただけ」


「置いてある間は共有物」


「そんな法律はない!」


「兄妹間は慣習法で」


 華が「慣習法って何」と聞いた。遼が説明し始めた。凛は取り皿を奪い返しながら「どうでもいい」と言った。


 いつも通りの朝だった。


 凛の目の赤みは、今朝は引いていた。遼は気づかなかった。華は気づいたけど、聞かなかった。


 兄妹というのは、たいていそういうものだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ここまで阿吽でツーカーな兄弟は少ないと思う 仲の良い兄弟姉妹はもう少し放置気味W
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ