「柊、仕込む」第三話「柊、開ける」
三年後の秋。
遼は……なるようになっていた。岸本はメーカーに就職し、古川は大学院を経て研究職についていた。村上は外資系企業へ。田中教授は相変わらず研究室でコーヒーを飲んでいた。
それぞれの場所で、それぞれのことをやっていた。蒸留器の話は、日常の中に沈んでいた。
連絡が来たのは、十月の初めの日曜日。
教授からだった。
「そろそろだと思って確認に行ったら、色がついていた」
写真が送られてきた。
樽を傾けて出した液体の色。琥珀。濃くはないが、確かに色づいている。薄い金色に、少しだけ茶が混じったような、光を透かすとふわっと揺れるような色。
「柊」と刻んだ樽。三年間、山の離れで静かに眠っていた液体。
返信が来た順に並べると——
岸本「マジか」。古川「えっ飲みたい」。村上「……いつ飲む?」。遼「来週の土曜、空いてる?」。
全員から返信が来た。全員が空いていた。
土曜の午後、五人が田舎の農家の前に集まった。
あの日から三年。
岸本の親戚は今も健在で、「また来たの、何しに」と顔を出した。岸本が「荷物整理の続きで」と答えた。「また?」と返ってきた。
古川が「記念写真撮っていいですか」と岸本の親戚に向けた。「何が記念なんだい」と言われた。
離れの扉を開けた。
三年ぶりの匂い。古い木と、土と、かすかに何かアルコールのようなもの——エンジェルズシェア。樽から少しずつ蒸発した、天使の取り分が、空気に溶けていた。
樽は静かにそこにあった。「柊」の文字が刻まれたまま。
「まだある」と岸本。
「あるでしょう」と遼。
「いや、なんか、あるんだなあって」
遼は樽を傾けて、持参したグラスに注いだ。
五つのグラス。それぞれに少しずつ。
琥珀色の液体が、午後の光を受けて揺れた。
「飲んでいい?」と古川。
「どうぞ」と遼。
田中教授が「では」と言って、グラスを上げた。
全員がグラスを上げた。
「……何て言うの」と村上。
「乾杯」と岸本。
「研究の成功に」と古川。
「官能評価の開始に」と教授。
「普通に、乾杯で」と遼。
全員が「乾杯」と唱和した。
飲んだ。
最初に口をつけたのは遼だった。
甘い。麦の甘さと、樽の木の匂い。三年分の時間が——あの発酵の匂いと、ポットスチルが動き始めたときのアルコールの匂いと、樽に詰めたときの研究室の空気が——全部、少しだけ液体の中に残っている。
遼は少し止まった。
紙の上で調べていた工程が、蒸留器として目の前に現れて、動いて、液体になって、三年かけて変わった。
全部、繋がっている。
「……普通に、おいしい」
「普通に、って言い方」と岸本。
「普通においしい」
「最高の褒め言葉だ」と教授が言った。コーヒーではなくウィスキーのグラスを持って、満足そうに一口飲んでいた。
村上が飲んだ。
少し間があった。
「……確かにおいしい」と村上は言った。「飲んでよかった」
「結局、止める気なかったんだよね」と古川。
「あったよ最初は」
「あったっけ」
「あった。でも——」
村上はグラスをもう一度見た。
「動いてるところが見たかったんだよ。器械が動くところ」
遼は村上を見た。
「そうか」
「柊さんが面白そうにしてたから。珍しいじゃん。あの人が面白そうな顔をするのって、器械相手のときしかないから」
「面白かった」と遼は言った。
「知ってる」
村上はグラスを少し傾けた。
「一年間、誰にも言わずに調べてたって話、最初に聞いたとき、変な人だなって思った」
「変なのは認める」と遼。
「でも今は、そういう人なんだなって思う」
「どういう人」
「面白いと思ったら、まず調べる。機会を待ってる。機会が来たら全力でやる」
遼は少し考えた。
「普通だろ」
村上は笑った。
岸本も笑った。古川も笑った。田中教授はウィスキーを飲みながら笑った。
昭和の職人が作った銅の器械が、七十年分の時間を越えて、動いた。その液体が、三年分の時間をかけて変わった。
「柊」。
家族の苗字を刻んだ樽は、山の離れで静かに眠り、昼の光の中で静かに飲まれた。
遼が最後に口を開いたのは、グラスが空になりかけたころ。
「次も作る?」と岸本が聞いた。
「作れるかどうかは免許の更新次第だが」と遼。
「田中先生がいれば通るでしょ」と古川。
「先生がいなくてもいずれ」と遼。
「『いずれ』って何」と村上。
「免許を持てる立場になれば」
「……もしかして自分で蒸留所を」
「研究の延長として」
「柊さん、すごいな」と村上は言った。
遼は「普通だろ」と返した。
全員が笑った。
午後の光の中で、五つのグラスが並んでいる。
その日は、誰も急がなかった。
「残りはもう少し寝かせようか」と教授が言った。
「賛成」と古川。
「来年また来るか」と岸本。
誰も否定しなかった。
帰り際、岸本の親戚が離れを覗いた。
「何してたんだい」
「実験」と岸本。
「実験?」
「えっと、昔の器械を動かす、みたいな」
「ああ、あの変な銅の器械か。動いたの?」
「動いた」
岸本の親戚はしばらく考えてから、「じいちゃんが喜ぶな」と呟いた。
岸本は少し黙った。
夕暮れが来ていた。山の影が長くなっている。
「また来なさい」と親戚は言った。
「来る」と岸本は言った。「また実験させてください」
「実験ばっかりだね、あんたたち」
親戚は笑って、家の中に戻っていった。
岸本は少し立っていた。
遼が横に来た。
「……動いてよかった」と岸本は言った。
「動くと思ってた」と遼は返した。
「そうだけど。なんか、よかったなって」
遼は答えなかった。でも、少し空を見た。
夕焼けが山の向こうに落ちていくところだった。




