「柊、仕込む」第二話「仕込む」
書類の作成に一ヶ月かかった。
行政書士に依頼したが、製造計画書の細部を遼が一人で仕上げた。温度管理システムの設計図、蒸留工程の数値計画、換気設備の仕様、フォアショット廃棄の手順書——全部、遼が書いた。
「柊さん、これ全部書いたんですか」と村上が言った。
「行政書士に渡す前に、細部を詰めた」
「何ページあります?」
「九十七ページ」
「研究計画書として分厚すぎませんか」
「詳細に書いたほうが審査が通りやすい」
「それはそうかもしれないですが、九十七ページ」
「最初は百二十ページあったので減らした」
村上は少し黙った。
「……柊さんって、こういうとき本当に止まらないですよね」
「止まる必要がないので」
「面白いんですか、これ」
遼は少し考えた。
「昭和の職人が設計した器械が、現代の技術で動くかどうか。それは面白い」
「ウィスキーに興味があるわけじゃないんですか」
「ある程度は。でも主に——器械に興味がある」
村上はそれを聞いた。
なんとなく、止める気がさらに失せた。
税務署への事前相談は、田中教授が一人で行った。
持参したのは:岸本の親戚宅の蒸留器の写真資料、研究計画書(昭和戦後期農村型自家蒸留技術の工学的記録と再現を目的とする研究)、所属機関の証明書類。それと、工学部倉庫の見取り図。
倉庫を製造場所として申請することについて、村上は「段ボールが積んであるような場所を製造場として申請するんですか」と眉を上げた。遼は「片づければいい」と返した。村上は「片づけの問題じゃないです」と続けた。教授は「まあ構造的には問題ない」と静かに言った。村上は天井を見た。
酒税官は、想像していたより穏やかで、話を最後まで聞いてくれた。
「これはまた……珍しい案件ですね」
「貴重な記録だと考えています」
「蒸留器は本物ですか」
「本物です。戦後の農村製と見られます」
「これで本当にウィスキーを造るつもりですか」
「研究です」
「……はあ」
酒税官はしばらく書類を見た。九十七ページ。ぱらぱらとめくって、また戻した。
「……これ、全部書いたんですか」
「学生が」
「学生が」
「工学部四年生が」
「……」
酒税官はもう一度書類を見た。温度管理の数値計画のページで、指が止まった。
「試験製造免許の申請自体は受け付けます。製造場の見取り図と設備の配置図、製造計画の詳細、安全管理計画書を添付してください。審査は——四ヶ月ほどかかります」
「分かりました」
「教授、一つ聞いていいですか」
「はい」
「研究の過程で生産されたものは、飲みますか」
田中教授は少し間を置いた。
「官能評価が必要です」
「……は」
「液体の品質を評価するには、味覚的な分析が科学的に有効です」
「……」
「私は制御工学が専門ですが、研究の多角的評価には」
「分かりました」と酒税官は言った。「申請書類を整えてください」
廊下に出てから、教授は少し笑った。
審査は四ヶ月後に通った。
試験製造免許が交付されたのは秋の終わりで、教授室に通知が来たとき、田中教授が「来たぞ」と電話してきた。岸本が「うそ」と返した。古川が「マジか」と声を上げた。村上が「本当に通った……」と呟いた。
遼は「分かりました」と受けた。
電話を切ってから、机の上の蒸留器の設計図を見た。
九十七ページ。
この設計通りに動かせるか。
昭和の職人が作った器械が、今から動く。
遼は立ち上がった。
倉庫に向かった。
試験製造免許の申請を終えた後、田中教授が教授室のホワイトボードに製造工程を書いた。
「ウィスキーの製造工程を整理しておく。いずれ申請書類の製造計画欄に記入が必要だ。理解しておけ」
全員が椅子に座った。
遼はすでにノートを開いていた。
【第一段階:製麦——モルティング】
「第一段階。製麦——モルティングと呼ぶ。二条大麦を水に浸して発芽させ、乾燥させる。この工程で、でんぷんを糖に変える酵素が活性化する」
「自分でやりますか」と村上。
「モルトは業者から仕入れる。クラフト蒸留所の多くはそうしている。自分で製麦するには広い床面積と時間が必要で、研究としての主眼ではない」
「主眼は何ですか」
「蒸留器の動作確認と、昭和期農村の蒸留技術の再現」
「なるほど——というか、それが建前ですよね」
「研究としても本物だと言ったはずだが」
「でも主に飲みたいですよね」
「官能評価が必要だ」と教授は繰り返した。
【第二段階:糖化と発酵】
「第二段階。糖化——マッシングと呼ぶ。粉砕した麦芽に温水を加えて麦汁を作る。でんぷんが酵素の働きで糖に変わる。温度は六十五度前後で一定時間保持する。ここで温度管理が重要で——」
「先生、それ工場のレベルじゃないですか」と古川。
「研究規模でも同じ原理だ。鍋と温度計で管理できる。市販の醸造用サーモスタットを使えばいい」
「醸造用サーモスタットって普通に売ってますか」
「売ってる」と遼が言った。「ビール自作キットのパーツとして流通している。ただし麦汁の発酵をゼロから行うこと自体がアルコール度数次第では——」
「酒税法違反になり得る」と村上が言った。
「なり得る。試験製造免許を取った後は問題ない」
「免許の前に話が進んでいませんか」
「順序を確認しているだけ」と遼。
村上はため息をついた。深い、長い。このメンバーと付き合って四年の蓄積がある。
「発酵——ファーメンテーション。麦汁に酵母を加えてアルコール発酵させる。温度は二十度前後。四十八から七十二時間で、アルコール度数は七から九パーセントのもろみができる。これをウォッシュと呼ぶ」
「七から九パーセント」と岸本。「ビールより少し強いくらい」
「だからここまでなら発泡酒として扱われる可能性があって——」
「免許の前に先が進んでいます」と村上。
「概念の整理だ」と教授。
「進んでいます」と村上。
遼は何も言わなかった。ノートに図を書いていた。ウォッシュスチル(初留用)とスピリットスチル(再留用)の配管図。
村上がそれを横から見た。
「……柊さん、もうそこまで進んでる」
「見てみたかった」
「何を」
「この蒸留器が動くところを」
以上だった。
村上は少し黙った。
遼が「見てみたかった」と言う対象は、いつも器械だ。器械が動くところを、見たかった。この古い銅の器械が、熱を通して、液体を変えていく——その工程を、ただ見たかった。一年間、机の上で調べていたことが、今からようやく動く。
こういう人間を、どうやって止めるんだろう、と村上は思った。止め方が分からない、というより——止める気が、だんだんなくなってきていた。
【第三段階:蒸留】
「第三段階。蒸留だ。これが今回の器械の出番になる」
田中教授が蒸留器のほうを向いた。修理を終えたポットスチルが、倉庫の中央に設置されていた。段ボールと測定器を端に追いやった、ぎりぎりのスペース。
「ウォッシュスチルと呼ばれる初留釜に、発酵を終えたウォッシュを入れて加熱する。沸点の低いアルコールが先に蒸気になってスワンネック型の配管を通り、冷却管——ワーム管を経て液化する。これをローワインと呼ぶ。アルコール度数は二十から二十五パーセント程度」
「一回蒸留しただけで」と古川。
「そう。蒸留を重ねるほどアルコール度数が上がって雑味が減る。スコットランドのローランド系やアイリッシュウィスキーは三回蒸留が多い。軽くてなめらかな風味になる。モルトウィスキーの標準は二回。今回使うこの器械も初留と再留の二基構成だから、二回蒸留になる」
「三回やるとどうなるんですか」と古川。
「より軽くなる。ただ個性も薄れる。二回のほうが原料の風味が残りやすい」
「じいちゃんとこのはどっちだったんだろう」と岸本。
「再留釜が一基しかないから、二回蒸留だ」
「なるほど」と岸本は器械を見た。
「次に、スピリットスチルと呼ばれる再留釜にローワインを入れて、もう一度蒸留する。ここで重要なのがカット——フォアショット、ミドルカット、フェインツと呼ばれる前留、中留、後留の分離だ」
「何が違うんですか」と岸本。
「蒸留が始まった直後に出てくるフォアショットは、メタノールや不純物を多く含む。廃棄する。ミドルカットと呼ばれる中間部分が最もきれいなアルコールで、これがニューポットになる。最後に出てくるフェインツは再留用に戻す」
「なんで戻すんですか」と古川。
「アルコールがまだ残っているから。フェインツは度数が低くて風味も落ちているが、捨てるには惜しい。次の蒸留のウォッシュに混ぜて再利用する。無駄がない」
「エコだ」と岸本。
「効率の問題だ」と遼。
「メタノール入りを廃棄するのはなぜですか」と村上が聞いた。
「メタノールは毒だ。量が多ければ失明する」
静かになった。
「怖い」と岸本。
「だから廃棄する。ちゃんとカットをすれば問題ない。密造酒が危険と言われる理由の一つはカットを適切にやらないためだ。管理されていない蒸留は身体的にリスクがある」
「田舎のじいちゃんとこの蒸留器……」と岸本は呟いた。「あと戦後、バクダンって呼ばれた酒があったって聞いたことある。工業用アルコールを薄めたやつ。飲んで死んだ人もいたって」
「それは蒸留の問題じゃなく、そもそも飲用でないアルコールを使っていた」と遼。「フォアショットとは別の話だ。ただ、どちらも根っこは同じで——管理されていないアルコールがどれだけ危険かということだ」
「じいちゃんとこのは大丈夫だったのかな」
「経験のある人間が造っていたなら、ある程度のカットはやっていたはずだ。当時はそれしかなかった」
岸本はしばらく黙っていた。
「当時の人間は経験でやっていた。現代では比重計やアルコール測定器で数値管理できる。安全性は格段に上がっている」
遼がノートから顔を上げた。
「蒸留温度の制御が一番重要です。この器械は温度センサーがついていないので、後付けで取り付けます。初留は七十度前後から始まって、フォアショットのカットを七十五度付近で行い——」
「もう設計してる」と村上。
「してる」と遼。
「免許、まだです」
「だから設計だけ」
「設計まで終わってたら止められない」
「止める必要がないと言っている」
村上は岸本を見た。岸本は「俺もなんか止める気がなくなってきた」と肩をすくめた。
「古川さんは?」
「最初からないです」と古川は言った。
村上は天井を見た。
天井には何もなかった。でも少し、笑っていた。
**【実施編:仕込みの日】**
十一月の土曜日。
朝七時に倉庫に集合した。
全員、私服で来ていた。エプロンをつけていたのは村上だけで、岸本は「それ必要なの?」と言って村上に「麦汁がはねたとき困るでしょう」と怒られた。
まず糖化から始めた。
モルトは業者から取り寄せた二条大麦の粉砕済みのもの。温水を六十四度に保ちながら、攪拌を続ける。遼が温度センサーを手作りで取り付けたモニタリングシステムが、刻々と数値を表示していた。
「温度管理、ちゃんとできてる」と古川。
「センサーは三点計測にした」と遼。「均一性を確認するため」
「どこで手作りしたの」
「部品箱にあった」
「部品箱から麦汁の温度計が出てくる人間」と岸本。
「麦汁専用に作った」
「四時間で」と村上が横から言った。「昨日の深夜に作ったんです、これ」
「昨日?」と古川。
「昨日です。私が来たとき、深夜の二時に既にここにいました」
「眠れなかった」と遼。
「面白いから?」と村上。
「面白いから」と遼は言った。
六十分後、麦汁が完成した。
甘い匂いが倉庫に漂った。麦茶に似ているが、もう少し濃くて、温かい。
「これ、麦茶みたいな匂いですね」と古川。
「麦が主原料だから」と遼。
「飲んでもいいですか」と岸本。
「まだアルコールがないのでいいが、目的から逸れる」
「試飲は研究の一部では?」
「糖化段階では官能評価の意味が薄い」
「でも飲めますか」
「飲める。甘い」
岸本はコップで少し飲んだ。古川も飲んだ。村上も一口飲んだ。
「確かに甘い」と村上。
「麦の甘さだ」と田中教授が来てそう言った。
全員が振り向いた。
「先生、来るの早くないですか」と岸本。
「今日のために朝早く起きた」と教授は言った。
村上が「先生が一番楽しみにしてる」と呟いた。教授は答えなかった。
**【発酵の七十二時間】**
麦汁を二十度に冷やして、醸造酵母を加えた。
発酵槽はステンレス製の大型容器で、温度を一定に保つジャケットがついている。遼が設計した温度制御システムが自動で調整する。
「この七十二時間は?」と古川。
「待つだけ」と遼。
「何もしない?」
「温度を確認する。逸脱があれば対応する。以上」
「退屈じゃないですか」と村上。
「退屈ではない」
「なんで」
「発酵が進んでるから」
村上は発酵槽を見た。見た目は何も変わっていない。でも中では酵母がアルコールを作っている。糖が分解されている。遼にはそれが見えているのかもしれない、と村上は思った。数値として。温度として。進行の速度として。一年前から机の上で調べていた工程が、今は実際に動いている。
「七十二時間後に来ます」と村上は言った。
「三十六時間後に一度確認に来る」と遼。
「来るんですね」
「来る」
「……私も来ます」と村上は言った。
なぜか流れでそうなっていた。
七十二時間後、ウォッシュが完成した。
アルコール度数は八パーセント。
発酵槽を開けた瞬間、酸っぱいような、フルーティのような、少しだけ刺激のある匂いがした。
「これがウォッシュ」と遼。
「……飲めますか」と岸本。
「度数は低いので飲めるが」
「飲んでいい?」
「研究として意義があるかどうかは問いかけを変えてほしい」
岸本はコップで飲んだ。
「……薄いビールみたいな感じ」
「発酵させた麦汁だから当然だ」と教授。
「これが蒸留されてウィスキーになるんですか」
「なる」と遼。
岸本は発酵槽を見た。薄茶色の液体。これが。
「ロマンじゃないか」と岸本は言った。
「ロマンだな」と教授。
「ロマンですね」と古川。
「早く蒸留しましょう」と村上が言った。
**【蒸留の日】**
ポットスチルを初めて加熱したのは、十一月の第三土曜日。
朝八時。
全員が揃っていた。村上が珍しく五分前に来ていた。
遼が温度センサーを最終確認した。岸本が配管に漏れがないか叩いて確かめた(遼に「叩いて確認するのは正しい方法ではない」と諭された)。古川がカメラを構えた(「記録だ」と宣言した)。田中教授はコーヒーを手に持って来ていた。
「始めます」と遼は言った。
ガスバーナーに火が入った。
銅のポットスチルが、静かに、熱を受け始める。
最初は何も起きない。
温度が上がっていく。数値が上がっていく。五十度。六十度。七十度。
配管の先のワーム管から、最初の一滴が落ちた。
全員が同時に見た。
「出た」と岸本が言った。
フォアショット。最初の蒸留液。廃棄すべき前留。遼はアルコール計で計測した。
「フォアショットです。廃棄します」
「捨てるんですね」と古川。
「メタノールを含む可能性があるので」
「捨てるとき、もったいない感じしますね」
「安全が優先です」
村上が「柊さんが一番まともなことを言っている」と呟いた。
「いつもまともなことを言っている」と遼。
「……まあそうですね」
温度が上がり続けた。七十五度。フォアショットのカット点。
遼がバルブを切り替えた。
受け皿が変わる。
流れてくる液体が、少し変わった。
「ミドルカット開始」と遼は言った。
ニューポットが、滴り始めた。
受け皿に溜まっていく透明な液体。
倉庫に、アルコールの匂いが漂い始めた。甘く、少し刺激的な、それでも清潔な匂い。
「いい匂いがする」と古川。
「麦の成分が気化している」と遼。
「これがウィスキーになるんですか、三年後に」
「なる」
遼は話しながら、ずっとモニターを見ていた。温度の数値。流量の変化。カットのタイミング。昭和の職人が設計した銅の器械が、計算通りの数値を出している。
予想通り。
でも——予想通りだと分かった瞬間、少し止まった。
この器械を設計した人間は、今ここにいない。名前も分からない。それでも器械は残っていて、熱を通して、液体を変えていく。一年間、紙の上で追いかけていた工程が、今は実際に目の前で起きている。
予想通りだったのに、なぜか少し、不思議な感じがした。
「……動いてる」と遼は言った。
「動いてますね」と村上が横から言った。
「ちゃんと動いてる」
「そりゃ柊さんが修理したから」
「設計が正確だったから動いてる。俺が修理しただけで、設計は昭和の誰かがやった」
村上は少し黙った。
「……そういうふうに考えるんですね」
「そうでしょう」
「遼さんて変わってますよね」と村上は言った。
「普通だと思うが」
「普通じゃないですよ」と村上は言った。でも、悪い意味ではなかった。
**【樽詰め】**
蒸留は初留・再留合わせて一日かかった。
最終的に回収されたニューポット——蒸留直後の無色透明の蒸留酒——はアルコール度数六十三パーセント、十二リットル。
「少ない」と岸本。
「試験製造だから十分だ」と教授。
「でも十二リットルを三年間樽で熟成させて、ウィスキーと名乗れるようになるのは……」と古川。
「最終的には蒸発と吸収で量が減る」と遼。「エンジェルズシェアと呼ぶ。天使の分け前。年間二パーセント程度が樽から失われていく」
「三年で六パーセントが消える」と古川。
「そう。最終的には十リットル強が残る」
「十リットル強で全員で飲む」
「十リットルあれば十分だ」と教授が言った。
「先生が一番飲む気満々ですよね」と村上。
「官能評価の主任研究者として」
「それが建前だったんですね」
「研究だ」
樽は中古のシェリー樽を一本用意していた。容量は二十リットルの小樽で、クラフト蒸留所でよく使われるサイズ。
加水して度数を調整し、樽に詰める。
ニューポットが樽の中に消えていった。
「これを三年間置いておく」と遼。
「どこに」と岸本。
「田舎の離れが適温だと思う。湿度もある程度ある」
「元の場所に戻すんですか」と古川。
「戻す」
「元の蒸留器のあった場所に樽が戻る」と岸本。
なんとなく全員が黙った。
蒸留器が見つかった、あの離れ。岸本が荷物整理のついでに入ったら変な器械があった、あの場所。今度は、そこに樽が戻っていく。
「……ちゃんとした熟成になりそう」と古川がゆっくり言った。
「温度帯は問題ない」と遼。「年間を通じた平均気温と湿度は確認した。むしろ理想的な環境だ」
「技術的にちゃんとしてる上にロマンもある」と岸本。
「ロマンは副産物」と遼。
「でもロマンあるのは認める?」
遼は少し考えた。
「……ある」
岸本は笑った。古川も笑った。村上も、小さく笑った。
田中教授は「じゃあ三年後にな」と締めた。
全員が「はい」と揃えた。
帰り支度をしながら、岸本が「名前、どうしますか」と聞いた。
「名前?」と古川。
「樽に刻む名前。なんか書いたほうがいい気がして」
しばらく誰も何も言わなかった。
「柊でいいんじゃないか」と教授が言った。「造った人間の名前だ。悪くない」
「異議なし」と古川。
「異議なし」と岸本。
村上は少し考えてから、「いいと思います」と言った。「私が彫ります」
「村上が?」と岸本。
「なんとなく」
誰も止めなかった。
村上は遼から工具を借りて、樽の側面に刻んだ。
不慣れな手つきで、でも丁寧に、一文字ずつ。
「柊」。




