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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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柊家の夜明け前 Episode 3「照明が落ちた夜」

 その日の海斗(かいと)は、午後から暇だった。

 暇というのは正確ではない。やることはある。修士論文の参考文献を整理する必要がある。読みかけの技術書が三冊ある。先週から気になっている実験室の配電盤のノイズも、そのうち調べようと思っていた。

 ただ、どれも今日でなくていいものだった。

 夕方、アパートで技術書を読んでいると、同じ棟に住む田島という男から電話がかかってきた。田島は演劇関係の仕事をしている三十代で、海斗とは廊下で会釈する程度の関係だった。

(ひいらぎ)さん、機械詳しいですよね」

「まあ」

「お願いがあるんですけど。知り合いの劇団、今夜本番前に照明が壊れたらしくて」

「照明」

「照明盤がショートしたって。業者呼ぼうにも時間がないし、誰か分かる人がいないか探してて」

 海斗は少し考えた。

 照明盤のショート。原因はいくつか考えられる。配線の焼け。ブレーカーの誤作動。接続部の腐食。現物を見ないと分からないが、見てみれば分かる可能性はある。

「場所は」

「高円寺です。歩いて十分くらい」

「行きます」

「ほんとですか、助かります」

 海斗は工具箱を持って、アパートを出た。


 劇団の公演会場は、裏路地の古いビルの二階にある小劇場だった。

 入り口の扉を開けると、人が何人かいて、全員焦った顔をしていた。

「来てくれた人、こっちです」

 田島の知り合いという男が案内した。

 照明盤は舞台の袖近くにあった。盤の前にしゃがんで蓋を開けると、焦げた匂いがした。懐中電灯を口にくわえて内部を見た。

 主幹ブレーカーの接続端子が一箇所、熱で変形していた。端子の締め付けが甘かったのか、経年劣化で緩んでいたのか、そこで発熱して焦げた痕がある。

 問題はそこだけだった。

 工具箱からドライバーと圧着ペンチを出した。端子を外して、焦げた部分を処理した。スペアの端子が工具箱にあったので交換した。接続し直した。

 ブレーカーを入れる。

 照明が戻った。

「なおった!」

 誰かが声を上げた。歓声が上がった。

 海斗は工具をしまいながら立ち上がった。

「同じ場所がまた緩む可能性があります。本番が終わったら締め付けを確認した方がいい」

「はい、ありがとうございます、本当に助かりました」

 案内した男が頭を下げた。

 海斗は工具箱を持つ。

「お役に立てて良かったです」

 振り返って、帰ろうとした。


 その時、声がかかった。

「ありがとうございました」

 海斗は振り返った。

 舞台の端に、女が一人立っていた。

 他の劇団員たちが照明が戻ったことに安堵して動き回っている中で、その女だけが動いていなかった。    少し前まで、暗くなった客席をじっと見ていた。海斗はさっきからそれが少し気になっていた。

「いえ」

 短く返した。

 それだけで終わるつもりだった。

 でも、気になっていたことが口から出た。

「一つ、聞いていいですか」

 女が少し驚いた顔をした。

「はい」

「さっき、舞台の端で暗い客席を見ていましたよね」

「見ていました」

「あの立ち方、本番前の役者さんの立ち方じゃなかった」

「……どういう意味ですか」

 海斗は少し考えてから言った。

「演出を考えていた。客席のどこから見てもらうか、どこに間を作るか。役を生きるより先に、空間を計算していた」

 女は何も言わなかった。

 否定しなかった。

「でも」と海斗は続けた。「台本を渡されたとき、最初に読んだのは台詞(せりふ)より、ト書き(とがき)の間のはずだ」

「……なんで分かるんですか」

「さっきの立ち方がそうだった」

 女はしばらく黙っていた。

 海斗は特に褒めているつもりはなかった。見たことを言っただけだった。

「君の間の取り方は、計算じゃない」

 女の目が、少し変わった。

「……修理の人が、なんでそんなこと分かるんですか」

「機械も、間が大事なんです」

 海斗は工具箱を持ち直した。

「本番、頑張ってください」

 踵を返して、扉を出た。


 外に出ると、高円寺の夜の空気だった。

 十月の初旬で、少し肌寒かった。

 海斗はゆっくり歩きながら、工具箱を持ち直した。

 さっきの女のことを、少し考えた。

 劇団員は何人かいたが、照明が落ちているときに客席を見ていたのはあの女だけだった。他の全員が騒いでいる中で、暗い客席を見ていた。

 何を見ていたのかは分からない。

 でも、空間を読んでいるのだと思った。役者として舞台に立つ前に、空間の設計者として場所を見ていた。

 機械を直すとき、海斗はまず全体を見る。どこが壊れているかではなく、どんな構造になっているかを先に把握する。部分から入ると見落とす。全体から入ると、問題が見える。

 あの女のやり方は、それに似ていた。

 「そういう人間もいるんだな」と思った。

 然程(さほど)深くは考えなかった。

 アパートに戻って、工具箱を机の下に置いた。技術書を開いた。ページをめくった。

 あの女の名前を聞かなかった。

 そのことに気づいたのは、しばらくしてからだった。

 気にならなかった、と言えば嘘になった。

 ただ、聞き忘れたと感じた理由も分からなかった。


 一方、舞台の袖で。

 由紀は男が出ていった扉を、しばらく見ていた。

「由紀、本番五分前!」

 朱里(あかり)の声が飛んできた。

 由紀は我に返って、舞台の方に向き直った。

 頭の中で、さっきの言葉が繰り返された。

 君の間の取り方は、計算じゃない。

 演劇を始めて三年になる。上手いと言われたことはあった。光ると言われたこともあった。でも誰も、こういう言い方をしなかった。

 うまいとか下手とかではなく、どうやっているかを言い当てられた。

 しかも、照明を直しに来た男に。

 「なんで分かったんだ、あの人」と由紀は思った。

 機械も、間が大事なんです。

 その一言が引っかかった。

 機械と演劇は関係がない。でも、あの言い方は「私もそういうことを考えている」という意味に聞こえた。

 名前も聞かなかった。

 後悔したが、本番五分前だった。


 その夜の舞台は、いつより少しだけ、間が長かった。

 由紀が意図したわけではなかった。

 ただ、客席に立ったとき、さっきの暗い客席を思い出した。あの空間を計算していた、と言われた。言われて初めて、自分がそうしていたことを自覚した。

 自覚すると、間がもう少し長くなった。

 客席が静かになった気がした。

 七分後、場面が変わって、由紀は袖に引っ込んだ。

 壁に背をついた。

 何かが変わった気がした。

 何が変わったのか、言葉は思いつかなかった。


 終演後、劇団員たちが片付けをしている中で、朱里が由紀の隣に立った。

「今日の由紀、あの三場面目」

「なんか変だった?」

「変じゃない。良かった」

 由紀はそれには答えなかった。

「照明直した人、誰だったの」と朱里が言った。

「知らない。田島さんの知り合いって聞いたけど」

「何者だか分からない感じだったね」

「うん」

「由紀、あの人に何か言われた?」

 由紀は少し間を置いた。

「なんで」

「さっきの間のこと。いつもと違ったから」

 由紀はどう答えようか考えた。

「……間の取り方が計算じゃないって、言われた」

 朱里が少し黙った。

「それ、褒めてる」

「分かってる」

「机で覚えたことじゃないってことでしょ。センスってこと」

「機械も間が大事なんだって言ってた」

 朱里が少し笑った。

「変な人だね」

「そう」

「でも、正しいよ」

 朱里は煙草を取り出した。

「あなたの間の取り方、私もずっと言葉にできなかった。その男の人、一言で言い当てたわけだ」

 由紀は答えなかった。

「名前、聞かなかったの?」

「聞きそびれた」

「田島さんに聞けばよかったじゃん」

「終演後は田島さんもいなかった」

 朱里はため息をついた。

「また来るかもしれないし、来ないかもしれないね」

 由紀はそれには何も言わなかった。

 高円寺の夜、赤提灯の並ぶ路地に、煙草の煙が上がった。


 アパートに戻った由紀は、台本を開いた。

 次の公演の配役は、まだ出ていない。

 でも今夜は台本を読む気になれなかった。

 机の前に座ったまま、ノートを広げた。

 何かを書こうとして、手が止まった。

 機械も、間が大事なんです。

 機械のことは分からない。

 でも、あの言い方は分かった。

 大事なのは音ではなく、音と音の間だ。台詞ではなく、台詞と台詞の間だ。動きではなく、動きが止まった瞬間だ。

 それを、あの男は機械で理解していた。

 「同じことを、違う言葉で考えている人間がいる」と由紀は思った。

 初めて会う感覚ではなかった。

 でも確実に、初めて会った人間だった。

 由紀はノートを閉じた。

 窓の外、高円寺の夜はまだ続いていた。

 秋田の夜とは全然違う、にぎやかな夜だった。

 でも由紀の部屋だけは、静かだった。

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