第24.5話「好きかもしれない」
スマホを見る。
また見る。
ロックを解除して、ホーム画面を開いて、何もせずにロックする。
また見る。
佐倉ひなは今、渋谷のカフェのカウンター席で、完全に意味のない動作を繰り返していた。
窓の外、四月の渋谷。人が流れていく。誰も彼女に注目していない。当然だ。今のひなは、グラビアアイドルでもバラエティタレントでもなく、ただのよく分からない顔をした女だ。
コーヒーが冷める。
気づいていない。
ことの発端は、一ヶ月前にさかのぼる。
柊家。
華に誘われて遊びに行った、いつもの土曜日。華と二人でアニメを見て、お菓子を食べて、凛さんの話に爆笑して、それで普通に帰るはずだった。
はずだった。
帰り際に気づいた。スマホが、ない。
正確には、あった。ソファのクッションの下に挟まっていた。ただ、落としたときの衝撃でスクリーンに細い亀裂が入っていて、タッチが一切反応しない状態になっていた。
「あーーーっ!!」
というひなの声に、華がすっ飛んできて、凛さんが眉をひそめて、それから廊下から「なんか騒いでるな」という空気を漂わせながら現れたのが、柊遼だった。
「どうした」
「スマホが、亀裂が、タッチが、写真とか連絡先とか全部——」
「ちょっと見せて」
遼はひなのスマホを受け取った。特に表情を変えず、ひっくり返したり、端の部分を指で軽く押したりしている。
「何してるんですか」
「確認」
ひなには意味が分からない。華も「なんか直るやつだよたぶん」と無責任なことを言っている。
遼がスマホを持ったまま自分の部屋に戻ろうとした。
「え、どこ行くんですか!?」
「工具取ってくる」
五分後。
遼がスマホを持って戻ってきた。タッチが動いている。
「……え?」
「コネクタが少しずれてた。外からの衝撃でたまになる」
「直ったんですか」
「うん」
それだけ言って、遼はそのまま自分の部屋に戻った。
ひなは、三秒くらい固まった。
華が「でしょー!」と言った。何が「でしょー」なのか分からないが、華は満足そうだった。
帰りの電車の中で、ひなはずっとスマホの画面を見ていた。
亀裂の跡は残っている。でも動いている。
(なんであの人、何でもなかった顔してたんだろ)
それが引っかかった。
嬉しそうでも、どや顔でもなく、ただ「コネクタがずれてた」と言って戻っていった。
あの顔。
あの顔がだめだった。
それから一ヶ月。
ひなは柊家に行く回数が増えた。
特に理由はない。ない、ということにしている。
「ひなちゃんまた来たの?」と華が毎回嬉しそうに言うので、「華ちゃんに会いたかった」と答えている。嘘ではない。華に会いたいのは本当だ。本当なのだが。
来るたびに、遼がいたりいなかったりする。
いないときは普通に華と遊んで帰れる。問題ない。
いるとき。
リビングで部品を触っていたり、台所でコーヒーを淹れていたり、廊下をすれ違ったりする。そのたびにひなは「あ」となって、「あ」を「あ、どうも」に変換して、なんとか乗り切っている。
乗り切れているかどうか、自分ではよく分からない。
スマホを、また見る。
美咲からのLINEが来ている。
「今日暇? お茶しない」
ひなは三秒迷って、返信した。
「暇。行く」
美咲は先に来ていた。
小柄で明るいブラウンの髪、ころころ変わる表情、あと常にテンションが三割増し——遠藤美咲はひなが芸能界で一番「一緒にいると楽」と思う人間だ。
「ひなちゃんおつかれ!」
「おつかれ」
席に座ると、美咲はすでにケーキを注文し終わっていた。
「あ、ひなちゃんの分も頼んでいい? いちごのやつあったけど」
「頼んで」
「りょーかい。あ、そういえばさ」
美咲のトークが始まる。
先週のバラエティの話、共演した先輩の話、MCの研究がどこまで進んでいるかという話。
ひなは相槌を打ちながら聞いている。
これが普通だ。これがいつもの感じだ。
美咲がひとしきり話し終わって、コーヒーに口をつけたとき。
「ひなちゃん、なんか顔色変じゃない?」
「え?」
「なんか、考えごとしてる顔」
「してない」
「してるよ。眉のあたり。ほら、こういう感じ」
美咲が自分の顔で再現する。わりと的確だった。
「……してたかもしれない」
「なんか悩みごと?」
ひなは少し黙った。
言う、か。
言ってもいいか。
美咲なら、変に騒がない気がする。実は騒ぐかもしれない。どっちだろう。
「……ちょっと聞いてほしいことあるんだけど」
「聞く聞く」
美咲がケーキのフォークを持ったまま前のめりになった。
「好きな人ができたかもしれない」
一瞬の沈黙。
それから美咲が、フォークを置いた。
「……ほんとに?」
「かもしれない、って言った」
「かもしれないレベルじゃないでしょその顔は」
「……かもしれないって言った」
「うん分かった。で、どんな人?」
ひなは少し考えた。
「普通の人」
「普通って何が普通なの」
「喋んないし、すごいことしても自分では普通だと思ってるし、なんか……ちゃんとしてる」
「ちゃんとしてる?」
「うまく言えないけど、変なんだけど、ちゃんとしてる。なんか、居場所がちゃんとある感じ」
美咲はしばらくひなの顔を見ていた。
フォークを持ち直して、ケーキを一口食べる。
「どこで会ったの?」
「……」
「ひな」
「……華ちゃんの」
一拍。
「華ちゃんの、知り合い?」
「違う」
「違うとは言ったけど、華ちゃんっていう名前が先に出てきたの気になるんだけど」
ひなは窓の外を見た。
渋谷の人の流れ。誰も彼女に注目していない。
「華ちゃんの、お兄さん」
沈黙。
美咲がケーキを飲み込む音がした。
「……柊遼さん?」
「……うん」
「机でずっと何か作ってる人?」
「うん」
「スマホ直してくれた人?」
「…………うん」
美咲がフォークをそっとテーブルに置いた。
何か言う前に、ひなが先に言った。
「言わないで」
「何を」
「難しい、とか、華ちゃんが、とか」
「言おうとしてないよ」
「じゃあ何」
美咲が少し考えて、口を開いた。
「なんで一ヶ月経ってから言ったの」
ひなは黙った。
「ずっと一人で考えてたんだ」と美咲が続ける。「それはちょっと大変だったんじゃないかな」
「……まあ」
「大変だったんじゃないかなって言ってる」
「……うん」
ひなの肩が少し落ちた。
「大変だったかも」
「だよね」
「なんか、自分でもよく分かんなくて。スマホ直してもらっただけなのに、あの人別に何も言わなかったし、普通に部屋戻ったし、たぶんひなのことなんか何も考えてないし、それは分かってんだけど——」
「うん」
「なんかずっと考えちゃって、柊家行く回数が増えてて、それが華ちゃんへの気持ちなのか遼さんへの気持ちなのか自分でも分からなくて——」
「ひな」
「何」
「顔赤いよ」
「知ってる!!」
声が大きくなった。
隣のテーブルの人が少しこっちを見た。ひなは会釈した。タレントの職業反射だ。
美咲がくすくす笑っている。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん。でも、なんか……かわいいなって思って」
「かわいくない」
「かわいいよ。ひな、恋するとこんな顔になるんだ、って思って」
「こんな顔って何」
「必死な顔」
ひなはテーブルに突っ伏した。
「帰りたい」
「帰らないで。ケーキ来るよ」
ケーキが来た。
いちごのショートケーキ。ひなの好きなやつだった。
少し落ち着いて、ひなはフォークを持つ。
「美咲はさ」
「うん」
「なんで分かったの。華ちゃんのお兄さんって」
「え、すぐ分かったよ」
「すぐ?」
「顔に書いてあったから」
「そんなに?」
「ばっちり」
「うわーーーっ」
ひなが再びテーブルに突っ伏す。今度は美咲が笑いを堪えきれなくなった。
「ひなちゃんって本当に嘘つけないよね」
「分かってる! だから困ってる!」
「でもそれがひなのいいとこだよ」
「よくない! 今はよくない!!」
美咲が「まあまあ」と言いながらコーヒーを飲む。
「で、どうするの」
「どうするって」
「どうするか、考えてる?」
ひなは突っ伏したまま少し黙った。
顔をあげて、ケーキを一口食べる。
「……分かんない」
「うん」
「華ちゃんのお兄さんだし。華ちゃんに何か言いづらいし。でも行くたびに意識するし。自分でも何がしたいのか分かんない」
「今はそれでいいんじゃないかな」
「え?」
「分かんないなら、分かんないままで。好きかもしれないって思ってること、ちゃんと自覚したんだから、それで十分じゃない? 今は」
ひなはしばらく美咲の顔を見た。
なんでこの人はこんなに落ち着いてるんだろう、と思う。
「美咲って、なんか悟ってる感じがするときある」
「よく言われる。コメディアン目指してるのに」
「それとこれは別じゃないの」
「そうかもしれない」
美咲がケーキを食べる。
ひなもケーキを食べる。
窓の外の渋谷は、さっきと変わらず人が流れている。
でもひなの気持ちは、さっきより少し軽くなっていた。
なんで一人で抱えてたんだろう、と今さら思う。
「ところでさ」
美咲が何でもない顔で言った。
「そのスマホ、今も使えてる?」
「え、うん。ふつうに使えてる」
「修理代とか払ったの?」
ひなは一瞬固まった。
「……聞いてない」
「え」
「え」
「聞いてないの?」
「……そのまま帰った」
美咲がゆっくりフォークを置いた。
「ひな、それ払いに行く理由できたじゃん」
「……え?」
「修理代、払いに行かなきゃじゃん。華ちゃんに連絡して、今度行くときにって言えば——」
「ちょっと待って待って待って」
ひなの声が上がった。また隣のテーブルの人が見た。また会釈した。
「そ、それは——あの人絶対いらないって言う——」
「言うだろうね」
「言うよね」
「でも言いに行く口実にはなるよ」
ひなは黙った。
美咲は何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。
「……美咲って、意外と」
「何?」
「悪い人だと思う」
「コメディアン目指してるので」
「それとこれは別じゃないの」
「同じかもしれない」
美咲がにっこり笑った。
ひなは額に手を当てた。
向こうから見て、どんな顔をしているか。
必死な顔、と美咲は言った。
まあ、そうかもしれない。
カフェを出て、渋谷の交差点で二人は別れた。
美咲が「また連絡して」と言って、反対方向に歩いていく。
ひなはしばらくその背中を見てから、スマホを出した。
華ちゃんのトーク画面を開く。
最後のメッセージは三日前、「今度遊ぼ」「いつでもおいで!」のやりとり。
ひなはしばらく画面を見た。
送る。
送らない。
送る。
送らない。
渋谷の交差点の端で、五回くらい迷った。
それから、打った。
「華ちゃん、今度柊家行ってもいい? 遼さんに渡したいものがあって」
送信。
三秒で既読がついた。
「来て来て!!!!!」
スタンプが三個届いた。どれも大きくて元気なやつだった。
ひなはしばらく画面を見てから、スマホをポケットにしまった。
何を渡すかは、まだ決めていない。
とりあえず、お菓子でいいか。修理の礼として、お菓子。
遼は「いらない」と言うかもしれない。
でも、もらって困るものでもないだろう。たぶん。
華が「来て!!」と言ってくれた。それで十分だ。
理由ができた。
ひなは歩き出した。
渋谷の人混みに、ピンクブラウンの髪が溶けていく。
顔が、また少し赤い。
美咲の言った通り、顔に出すぎだと思う。
でも、それが佐倉ひなだ。
今のところ、それでいいことにする。
その夜、柊家。
華がスマホを見ながらリビングのソファで転がっていた。
「ひなちゃんが来るって!」
「そう」
遼はモニターを見たまま答えた。
「なんか遼に渡したいものがあるって」
「……何?」
「知らない!」
華がまたスマホに顔を戻す。
遼は三秒ほど考えた。
渡したいもの。
何かあっただろうか。
何も思い当たらない。
「まあいいか」
プログラムに戻った。
画面に文字列が並んでいく。
部屋の向こうで華が「ねえ凛、聞いてる?」と声を上げた。凛の「なに」が遠くから届いた。
普通の夜。
穏やかないつもの夜。




