第7話「静かな技術」
水曜日の午前10時。
遼は大学の実験室に向かっていた。
今日はドローンの最終テストを行う予定だ。
卒論提出まで、あと十日。
「そろそろ仕上げないとな」
遼は小さく呟いた。
実験室の建物に入る。
階段を上がり、廊下を歩く。
そして──
実験室の前で、見慣れない光景を目にした。
スーツを着た数人の男たちが、廊下で待っている。
全員、外国人だ。
「……何だ?」
遼は首を傾げた。
男たちが遼に気づいた。
一人が近づいてくる。
「Excuse me, are you Ryo Hiiragi?」(すみません、柊遼さんですか?)
英語だ。
遼は少し驚いたが、流暢な英語で答えた。
「Yes, I am. How can I help you?」(はい、そうですが。何か?)
「Finally! We've been trying to reach you for weeks!」(やっと! 何週間も連絡を取ろうとしていたんです!)
男は嬉しそうに言った。
他の男たちも近づいてくる。
遼は少し警戒した。
「Who are you?」(どちら様ですか?)
「Ah, sorry for the intrusion. I'm Robert Chen, CTO of TechVision Systems.」(ああ、突然失礼しました。私はロバート・チェン、TechVision SystemsのCTOです)
男は名刺を差し出した。
遼はそれを受け取る。
TechVision Systems。
世界的な電子機器メーカーだ。
「What brings you here?」(何の御用でしょうか?)
「We'd like to discuss your circuit design paper. Your noise reduction technique is revolutionary.」(あなたの回路設計論文について話したいのです。あなたのノイズ低減技術は革命的です)
遼は少し困惑した。
論文が、そんなに評価されているとは思っていなかった。
「It's just a standard design approach.」(ただの普通の設計手法ですよ)
「No, Mr. Hiiragi. It's exceptional. We've had our top engineers analyze it.」(いいえ、柊さん。それは非凡です。我々のトップエンジニアたちが分析しました)
男は真剣な表情で言った。
「We'd like to offer you a position in our R&D department.」(我々の研究開発部門でのポジションをオファーしたいのです)
「I appreciate the offer, but I'm currently busy with my thesis.」(オファーはありがたいですが、今は卒論で忙しいので)
「Of course, after graduation. We can wait.」(もちろん、卒業後です。待てます)
遼は少し考えた。
そして──
「I'm sorry, but I'm not interested at the moment.」(申し訳ありませんが、今のところ興味がありません)
「But──」(しかし──)
「I need to finish my research first. Excuse me.」(まず研究を終わらせないといけないので。失礼します)
遼は実験室のドアを開けた。
男たちが慌てた。
「Wait! At least, can we schedule a meeting later?」(待ってください! せめて後で面談の予定を組めませんか?)
「I'll think about it.」(考えておきます)
「When can we expect your answer?」(いつ返事をいただけますか?)
「I don't know.」(分かりません)
遼はそう言って、ドアを閉めた。
男たちは呆然と立ち尽くした。
実験室の中。
遼はため息をついた。
「……面倒だな」
スーツを着た男たち。
世界的企業。
オファー。
全てが、遼には面倒だった。
「まあ、後で考えるか」
遼はドローンの準備を始めた。
卒論が先だ。
それ以外のことは、後回し。
遼のペースは変わらない。
午前11時。
ドローンの最終テストが始まった。
遼は障害物コースを設置し、ドローンを起動する。
プロペラが回り始める。
制御プログラムを実行。
ドローンがゆっくりと浮上した。
「障害物回避、スタート」
遼はタブレットで指示を出す。
ドローンが動き始めた。
最初の障害物に近づく。
センサーが反応し、自動で回避する。
「よし」
次の障害物。
再び回避。
三つ目、四つ目……
全て完璧に回避していく。
「……完成だな」
遼は満足そうに頷いた。
その時、実験室のドアが開いた。
「柊くん!」
田中教授だ。
そして、その後ろに──
さっきのスーツの男たちがいた。
「教授……」
「柊くん、彼らと話してくれないか?」
「いえ、今忙しいので」
「柊くん!」
田中は珍しく強い口調で言った。
「彼らは、わざわざアメリカから来たんだ」
「だからって……」
「せめて、話だけでも聞いてくれ」
田中は真剣な表情だった。
遼は少し考えた。
そして、ため息をついた。
「……分かりました。でも、十分だけですよ」
「ありがとう」
田中は安堵した。
実験室の隅。
遼とCTOが向かい合わせに座った。
田中と他の男たちは少し離れた場所で待っている。
「Mr. Hiiragi, thank you for your time.」(柊さん、お時間をいただきありがとうございます)
「You're welcome. But I only have ten minutes.」(どういたしまして。でも10分しかありませんが)
「That's fine. Let me get straight to the point.」(構いません。単刀直入に言います)
CTOは真剣な表情で続けた。
「Your paper on noise reduction in mixed-signal circuits is outstanding. How did you come up with that approach?」(混合信号回路におけるノイズ低減についてのあなたの論文は素晴らしい。どうやってあの手法を思いついたのですか?)
「It's nothing special. I just applied basic principles systematically.」(特別なことはありません。基本原理を体系的に適用しただけです)
「Basic principles...」(基本原理……)
CTOは驚いた表情をした。
「Mr. Hiiragi, you don't understand. Your technique solves problems that have plagued the industry for years.」(柊さん、あなたは理解していない。あなたの技術は、業界が何年も抱えてきた問題を解決しているのです)
「I see.」(そうですか)
遼は特に興味なさそうに答える。
CTOは少しイライラしてきた。
「We want you. After graduation, join our company. Starting salary: one million dollars per year.」(あなたが欲しい。卒業後、我々の会社に来てください。初年度年収100万ドルです)
遼は少し驚いた。
「That's... approximately 150 million yen?」(それは……日本円で約1億5千万円?)
「Yes. Plus stock options, relocation support, and full research funding.」(はい。加えてストックオプション、移転サポート、そして研究資金の全額支援です)
「That's generous.」(寛大ですね)
「So you'll consider it?」(では考えてくれますか?)
「No. I'm declining.」(いいえ。お断りします)
「What?」(何ですって?)
CTOは信じられないという表情をした。
「Why would you refuse?」(なぜ断るのですか?)
「Money isn't my priority. I just want to work on things I enjoy, at my own pace.」(お金は優先事項ではありません。自分のペースで、好きなことに取り組みたいだけです)
遼は淡々と答える。
CTOは言葉を失った。
「You're... quite unusual, Mr. Hiiragi.」(あなたは……かなり変わっていますね、柊さん)
「I'm told that often.」(よく言われます)
「But your talent is undeniable.」(しかしあなたの才能は否定できません)
「Thank you.」(ありがとうございます)
遼は立ち上がった。
「I'm sorry, but my time is up.」(申し訳ありませんが、時間です)
「Wait, please!」(待ってください!)
「Yes?」(はい?)
「At least take my card. Contact us if you change your mind.」(せめて名刺を受け取ってください。気が変わったら連絡してください)
CTOは名刺を差し出した。
「...Alright.」(……分かりました)
遼は名刺を受け取った。
そして、実験に戻ろうとする。
CTOはため息をついた。
「Mr. Hiiragi, you're a genius.」(柊さん、あなたは天才です)
「If you say so.」(そうおっしゃるなら)
「But you don't realize it.」(しかしあなたはそれに気づいていない)
「I don't need to.」(気づく必要もありません)
遼はそう言って、ドローンの方に向かった。
CTOは呆然と立ち尽くした。
午後1時。
企業の幹部たちは去っていった。
実験室には、遼と田中教授だけが残った。
「柊くん……」
「何ですか?」
「本当に、断ったのか?」
「はい」
「年収一億円以上だぞ?」
「興味ないです」
田中は頭を抱えた。
「君は……本当に……」
「教授、俺は静かに研究してたいんです」
「それは分かるが……」
「企業に入ったら、会議とか報告書とか、色々あるじゃないですか」
「まあ、そうだが……」
「面倒です」
「……君らしいな」
田中は諦めたように笑った。
「でも、一つだけ」
「何ですか?」
「学会発表、やってくれないか?」
「いえ、遠慮します」
「なぜだ?」
「恥ずかしいんで」
「……」
田中はため息をついた。
「君の技術は、世の中の役に立つんだぞ」
「そうですか」
「そうだ。だから、発表してほしい」
「でも……」
「頼む」
田中は頭を下げた。
遼は少し驚いた。
教授が、頭を下げている。
「……教授」
「柊くん、君の技術を、埋もれさせたくない」
「でも……」
「お願いだ」
遼は少し考えた。
そして、小さくため息をついた。
「……考えます」
「本当か?」
「はい。でも、約束はできません」
「それでいい」
田中は笑顔で答えた。
その日の夕方。
遼は大学の図書館で、詩織と会っていた。
「遼、今日どうだった?」
「まあまあ」
「ドローン、完成した?」
「ああ」
「すごいじゃん!」
詩織は嬉しそうに笑った。
遼は特に嬉しそうでもなく、コーヒーを飲む。
「あ、そういえば」
「何?」
「今日、企業の人が来たんだ」
「企業?」
「ああ。アメリカの会社」
「へえ。何の用?」
「就職のオファー」
「すごいじゃん! で、どうしたの?」
「断った」
「は?」
詩織は目を見開いた。
「断ったって……なんで!?」
「興味ないから」
「興味ないって……年収いくらだったの?」
「一億円くらい」
「一億円!?」
詩織の声が大きくなる。
周りの学生が振り返った。
「静かに」
「静かにじゃない! あんた、一億円断ったの!?」
「ああ」
「信じられない……」
詩織は頭を抱えた。
「あんた、本当に……」
「何?」
「いや、もう……あんたらしいけど」
詩織はため息をついた。
そして、遼の顔を見た。
「でも、後悔しない?」
「しない」
「なんで?」
「俺は、静かに機械いじってたいだけだから」
「そっか……」
詩織は小さく笑った。
「あんたは、変わらないね」
「そうか?」
「うん」
詩織は少し寂しそうに笑った。
遼は気づかない。
その夜、柊家のリビング。
遼が帰宅すると、凛と華がソファでテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり!」
華が駆け寄ってくる。
「遼、今日卒論進んだ?」
「ああ。ドローン完成した」
「すごい! じゃあ、もうすぐ提出だね!」
「まあな」
遼は靴を脱ぎながら答える。
凛が声をかけた。
「遼、お疲れ様」
「おう」
「今日、何かあった?」
「別に」
「嘘。顔に出てるよ」
「……分かるか?」
「うん」
凛は笑った。
遼は少し考えた。
そして、ソファに座った。
「実は、企業の人が来た」
「企業?」
「ああ。アメリカの会社。就職のオファー」
「すごいじゃん!」
華が目を輝かせた。
「で、どうしたの?」
「断った」
「は?」
華と凛が同時に声を上げた。
「なんで!?」
「興味ないから」
「興味ないって……年収いくらだったの?」
「一億円くらい」
「一億円!?」
華の声が裏返る。
凛も驚いた表情をした。
「遼……それ、断ったの?」
「ああ」
「なんで……」
華は呆れた表情をした。
凛は少し考えた。
「遼は、そういう子だもんね」
「そうなの?」
「うん。昔から、自分のペースを大事にする子だから」
凛は優しく笑った。
華も納得したように頷いた。
「まあ、遼らしいか」
「そうだね」
二人は笑った。
遼は少しホッとした。
姉妹は、自分を理解してくれている。
それが、嬉しかった。
その夜、遼の部屋。
遼は机に向かい、卒論を書いていた。
ドローンの実験結果をまとめている。
淡々と文字を打ち込む。
そして──
ふと、今日のことを思い出した。
企業の幹部たち。
年収一億円のオファー。
教授の頼み。
全てが、遼には重かった。
「……俺は、ただ機械をいじってたいだけなのに」
遼は小さく呟いた。
そして、再び論文執筆に戻る。
静かな夜。
遼の部屋には、キーボードを叩く音だけが響いていた。
その頃、アメリカ。
TechVision Systemsの本社では、緊急会議が開かれていた。
モニターには、遼の論文が映っている。
「柊遼、確保失敗か」
「はい。本人が一億円以上のオファーを断りました」
「……信じられない」
会議室に沈黙が流れた。
そして、一人が言った。
「諦めるな。何としてでも、彼を確保しろ」
「はい」
「次は、条件だけでなく、研究環境の自由も約束する」
「了解しました」
世界的企業が、再び動き出す。
だが、遼は知らない。
自分が、どれだけ求められているかを。
そして──
それが、自分の未来を大きく変えることになることを。




