柊家の夜明け前 Episode 1「湊由紀、舞台に住む」
三月の終わり、秋田の夜は長い。
雪がまだ少し残っている。田んぼの向こうに山があって、その山にも白いものが積もっている。春が来るのはまだ先だと、毎年思い知らされる。
湊由紀は、その風景を窓越しに見ていた。
最後に見ようと思った。
バッグは一つ。段ボール箱は送った。東京の安いアパートに届いているはずだ。宛先は大学の友人が調べてくれた。風呂なし、トイレ共同、家賃三万八千円。それでも、母は「高い」と言った。
「本当に行くの」
玄関で、母が言った。
「うん」
「演劇なんて」
「うん」
「食べていけるの」
「知らない。でも行く」
母は何も言わなかった。由紀も何も言わなかった。秋田の家の玄関は、古い木の匂いがした。
父は仕事に行っている。見送りには来ない。来ないと分かっていたし、来なくて良かった。来たら泣く気がした。
由紀は頭を下げた。
「ありがとう」
母は少し目を細めて、何か言おうとして、やめた。
扉を開けると、冷たい空気が入ってくる。
由紀は外に出た。
振り返らなかった。
東京は、うるさかった。
秋田の朝とは全部違った。音が多い。人が多い。空が狭い。駅の改札で立ち止まったら後ろの人に舌打ちされた。歩き方が違うらしかった。
小劇団「橙」の稽古場は、高円寺の裏路地にあった。地図で見るより狭くて、地図で見るより汚かった。扉を開けると、ペンキの匂いと汗の匂いが混ざったものが漂ってきた。
先輩が三人いた。
一人は「遠藤朱里」といった。由紀より一つ年上の、眉が太くて背が高い女だった。初対面で言ったのは「秋田ってなにがうまいの」だった。
「きりたんぽとか」
「あ、鍋に入ってるね」
「まあ」
「あとは?」
「稲庭うどん」
「あとは?」
「……比内地鶏」
「全部、鍋じゃん!」
朱里は大声で笑った。笑い方が秋田の誰とも違った。東京の笑い方だと思った。
残りの二人は挨拶だけして稽古に戻った。
朱里だけが由紀の隣に座った。
「荷物は?」
「段ボール一個と、このバッグ」
「部屋は?」
「風呂なし、三万八千」
「あたしも最初そんなだった。慣れる」
「そうですか」
「敬語いらない。あたし一つしか上じゃないし」
由紀は少し考えてから言った。
「じゃあ、慣れますね」
「どっちにしろ敬語じゃん」
また笑った。
稽古は週に三回だった。
バイトは週に四回入れた。コンビニと、居酒屋の皿洗いを掛け持ちした。
台本は深夜に読んだ。六畳の部屋で、蛍光灯の下で、ノートに台詞を書き写す。声が出せないので口だけ動かした。
上手くはなかった。
稽古のあと、演出の吉田に呼ばれることがあった。吉田は三十代の、黒縁眼鏡の男で、褒めることが苦手だった。
「由紀さん」
「はい」
「台詞を言ってる」
「……はい」
「台詞を言ってるんじゃなくて、人間を生きてほしい」
何度も同じことを言われた。
分かるようで分からなかった。台詞を言わなかったら演劇ではない。でも吉田は台詞を言うなという。
朱里に聞いたことがある。
「あれ、どういう意味?」
「言葉より先に、存在があるってこと」
「存在?」
「その人が部屋に入った瞬間から、その人の人生が始まってる。台詞は後から来る」
「……難しい」
「そう。難しい。でも由紀はたまに自然にやる」
「え?」
「無意識のとき。考えすぎてないとき。あのとき由紀は怖い」
由紀は返事をしなかった。
怖い、という言葉の意味が分からなかった。
半年後の本番で、由紀は脇役だった。
台詞は十二しかなかった。舞台に立つ時間は計七分。
でも本番の七分は、稽古と全く違った。
客席に人がいる。視線がある。呼吸がある。舞台の温度が変わる。
由紀が出る場面で、客席が少し静かになった気がした。
七分間、由紀は舞台にいた。
袖に引っ込んで、壁に背をついて、しばらく動けなかった。
心臓が早かった。手が震えていた。
何かが、変わった気がした。
何が変わったのか、言葉は思いつかなかった。
終演後、朱里が言った。
「今日の由紀、良かった」
「そう?」
「あの三場面目。振り向いたとき」
「特に何も考えてなかった」
「だから良かった」
由紀は少し黙った。
外は夜になっていた。高円寺の路地に、赤提灯が並んでいる。秋田にはない種類の夜だと思った。
「舞台って」
由紀は言いかけて、少し止まった。
「残酷だ」
朱里は笑わなかった。
「知ってた?」
「知ってなかった」
「そっか」
風が吹いた。
由紀の髪が揺れた。
朱里は煙草を取り出して、火をつけた。
「続ける?」
「うん」
「なんで」
由紀はしばらく考えた。
「さっきの七分が、忘れられない気がするから」
朱里は煙草を吸って、煙を吐いて、言った。
「正解じゃないけど、正直」
由紀には、それで十分だった。
その夜、六畳の部屋で台本を開いた。
次の公演の配役は、まだ出ていない。
今度は台詞が何本もらえるだろうか。
由紀はノートを広げて、ペンを持った。
秋田の山の白さは、もう思い出せなかった。
でも、七分間の舞台の熱は、まだ手の中にあった。




