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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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第21話「答えの前に」

 四月十六日、午前七時五分。

 (ひいらぎ)家のリビングに、春の光がまだ斜めに差し込んでいる。

 テーブルの上には味噌汁と白米と卵焼き。それを淡々と食べている(りょう)の横で、(りん)が急須を持ったまま固まっていた。

「……遼」

「うん」

「今日、何時から?」

「二時」

「服は?」

「着るもの持ってる」

 間があく。

 凛が遼の部屋の方向を見てから、またテーブルに視線を戻す。

「見せて」

「別にいいだろ」

「よくない」

 凛の声音が、わずかに低くなった。国民的女優が交渉に入るときの声ではなく、姉が弟に対して使う、有無を言わせない種類の低さだ。

 遼は卵焼きをひと口食べた。

「……クローゼットの右側」

 凛が立ち上がった瞬間、華が寝ぼけ眼でリビングに現れた。パジャマのまま、髪の毛が右側だけ大きく跳ねている。

「おはよう……あ、お姉ちゃんどこ行くの」

「遼のクローゼット」

「何で?」

「今日CEO面談」

「あ! そっか今日だ」

 華がぱっと目を覚まして、遼の顔を見る。

「緊張してる?」

「してない」

「普通するでしょ、CEOだよ? 世界的企業の」

「まあ、人間だろ」

 華が「……遼、それ絶対面談で言わないで」と呟いた瞬間、廊下から凛の声が飛んできた。

「遼ーーー!!」

 遼は味噌汁を飲む。

「これだけ!? 着ていくものがこれだけ!?」

「一着あれば充分だろ」

 凛が戻ってくる。手に持っているのは、紺のジャケットとスラックスのセットだ。一見すると悪くない。ただ——

「……いつ買ったの、これ」

「二年くらい前」

「通販?」

「うん」

 凛が目を細める。ジャケットの肩幅を確認して、袖の長さを確かめて、背中のシルエットを想像してから、また肩幅に戻ってきた。プロとしての計算が顔に出ている。

 華がそっと近づいて、ジャケットの内側のタグを見た。

「……お姉ちゃん」

「なに」

「これ、卒業式のやつじゃない?」

 沈黙。

 凛がもう一度ジャケットを見る。袖口の糸の具合。ポケットの角の微妙なよれ。三月に一度着た、その痕跡。

「……遼」

「うん」

「卒業式もこれで行ったの」

「そう」

「……世界的企業のCEOに会いに行くのと、卒業式が、同じスーツ」

「一着しかないから」

 凛が天井を見た。華が凛の背中をそっと叩いた。

 五秒くらい経った。

 凛が視線を戻して、ジャケットをもう一度手に取った。今度は女優ではなく、姉として——いや、スタイリストの目で見ている。

「……肩幅、広くなってない? 二年前より」

「多分」

「多分って」

「測ってないから」

「袖も短い」と華が言う。

「そう」

「そうって言われても」

「それしかないから」

 沈黙。

 三秒の静寂の後、凛が深呼吸した。

「……わかった。行ける。行けるけど、袖はまくって。ワイシャツも出してくれる?」

「どれでもいい?」

「白いやつ。白いのある?」

「ある」

「じゃあそれで」

 凛が額に手を当てている。

 華が「お姉ちゃん大丈夫?」と小声で聞く。

「大丈夫。慣れてる」

 慣れてはいないが、そう言うしかない顔だった。 


 午前十時すぎ。

 詩織(しおり)からLINEが入ってきた。

 『今日だよね、面談』

 遼は部屋でプログラムのコードを眺めながら、返信する。

 『そう』

 三十秒ほどで既読がつく。

 『緊張してる?』

 『してない』

 少し間があって、

 『……そっか。じゃあ頑張ってね』

 遼は画面を見た。

 返事をしようとして、何を書くか一瞬考えて、

 『おう』

 送った。

 特に問題のない返信だと思ったが、詩織はその「おう」を受け取って、スマホを置いてから「この人、CEO面談前に全く変わらないな」と思い、それがなぜかおかしくて、ひとり笑った。


 午後一時。

 凛がリビングで待ち構えていた。

 遼が白いシャツにジャケットを羽織って出てきた瞬間、凛と華の視線がそろう。

 凛が近づいて、ジャケットの襟を直す。

「袖まくって」

「まくる意味ある?」

「ある。短いの誤魔化せる」

 遼が言われた通りに袖を折り返す。

 華がじっと見ている。

「……普通にいい感じじゃない?」

「ちゃんとしてる」と凛。「ちゃんとしてるけど」

「けど、何?」

「……鏡見て」

 遼が鏡を見る。

「何か問題あるか」

「ない。ないけど」凛は腕を組んだ。「スーツ、買って」

「次でいい」

「次って言って一生買わないタイプでしょ」

「そんなことない」

「絶対そう」

 華が遼のジャケットの背中を軽く叩いた。

「行ってらっしゃい。緊張しないで」

「してないって言ってる」

「それが一番心配」


 TechVisionの東京オフィスは、渋谷のガラス張りのビルの十七階にあった。

 受付で名前を告げると、スーツ姿の女性が「少々お待ちください」と言って奥に消えた。待合スペースのソファは革張りで、テーブルの上に雑誌が扇形に並んでいる。遼はそれを一度見てから、窓の外を眺めた。

 渋谷の街が下に広がっている。ガラス越しの春の光。

 特に何も考えていなかった。

 正確には——プログラムの残りの処理について、軽く考えていた。

 受付の女性が戻ってきて「こちらへどうぞ」と言った。


 会議室に入ると、二人がいた。

 ロバート・チェン。以前に何度か会ったことがある。黒髪の男性で、今日はグレーのスーツを着ている。いつも微妙に緊張した空気をまとっているが、今日は特にそれが強い。

 そしてもう一人。

 デイビッド・マクナマラ。

 白髪交じりの短髪。鋭い目。背が高い。スーツに飾りがない。圧があるが、威圧ではない。

 遼は「失礼します」と言って着席した。

 デイビッドが遼を見た。

 遼もデイビッドを見た。

 沈黙が三秒ほどある。

"Ryo Hiiragi?" デイビッドが口を開いた。

(柊遼くんですね?)

"Yes."

(はい)

"I've heard a lot about you." ロバートの方を一瞥。"Robert talks too much."

(話はよく聞いています。ロバートが喋りすぎるので)

 ロバートが小さく「……」となった。

"Your English is fine?"

(英語で大丈夫ですか)

"Yes."

(大丈夫です)

 デイビッドは表情を変えない。ただ、目の奥が少し動いた。

"I've read your work."

(あなたの設計を読みました)

"Your design philosophy is unusual."

(珍しい発想をする)

"Thank you."

(ありがとうございます)

"It's not a compliment. It's an observation."

(褒めているわけではない。事実として言っている)

"I understand."

(わかりました)

 デイビッドが静かに笑った。一瞬だけの、小さな笑みだった。

 ロバートがその横で「(笑った……!)」と思った。確認できる限り、デイビッドが初対面の人物に対してこんなに早く笑ったのは初めてかもしれない。


 面談は四十分ほど続いた。

 技術の話がほとんどだった。デイビッドの質問は短く、核心だけを突いてくる。遼は余計な言葉を使わずに答えた。

"The communication latency issue in competitive robotics——you solved it differently from the standard approach."

(競技ロボットの通信遅延の問題——標準的なアプローチとは違う解き方をしている)

"The standard approach has a ceiling."

(標準のアプローチだと上限があります)

"Where did you start?"

(どこから手をつけた)

"The wiring layout. Before the software."

(配線の引き回しから。ソフトウェアより先に)

"Interesting."

(面白い)

 デイビッドが腕を組んだ。

"Most engineers would go to the code first."

(普通のエンジニアはまずコードに向かう)

"Fixing the code doesn't change the root problem."

(コードを直しても根本が変わらないので)

 短い沈黙。

 ロバートが「(普通に正論を言ってる……)」と思っている間に、デイビッドが次の質問に移った。


 一通りの話が終わったところで、デイビッドが言った。

"When can you start?"

(いつから来られますか)

 ロバートが身を乗り出す。

 遼は少し考えてから、答えた。

"I'd like to ask you to wait."

(少し待っていただけますか)

"How long."

(どのくらい)

"I have a program I'm working on. I want to finish it before giving you an answer."

(今作っているプログラムがあります。それが完成してから返事をしたい)

"How long?" もう一度。今度は柔らかく。

(どのくらい)

"About two months, I think."

(……あと二ヶ月くらいだと思います)

 デイビッドが、止まった。

 ロバートも止まった。

 二秒ほどの静止の後、デイビッドが——笑った。

 さっきよりも少しだけ大きく。白い歯が見えるくらい。

"Deal."

(了解しました)

 それだけ言って、テーブルの上のコーヒーカップを手に取った。

 ロバートが「(Deal って言った……! あのデイビッドが即座に……!)」と思いながら、顔は平静を保っていた。

 遼は特に何も思っていなかった。二ヶ月という見積もりが正直なところで、それ以外の答えようがなかった。


 会議室を出てから、ロバートが遼の隣を歩きながら言った。

"Ryo."

(柊くん)

"Yes."

(はい)

"Were you nervous at all?"

(緊張しませんでしたか、今日)

"Not really."

(……別に)

"David is usually——"

(デイビッドは普通、もっと——)

"He seemed like a good person."

(いい人そうでしたよ)

 ロバートが止まった。

"……Good person."

(……いい人)

"His eyes are honest."

(目が正直なので)

 ロバートはしばらく遼の顔を見た。

 世界的企業のCEOを「いい人そう」と評する、大学卒業したばかりの青年。

 何も言えなくなって、"……I suppose so." とだけ言った。

(……そうですね)


 エレベーターで遼を見送った後、ロバートが会議室に戻ると、デイビッドが窓の外を見ていた。

"Robert."

"Yes."

"Interesting person."

(面白い人間だ)

"I told you so."

(言ったでしょう)

"No. More than that."

(いや。それ以上だ)

 デイビッドが振り返った。

"He didn't try to impress me."

(私に気に入られようとしなかった)

"……Yes."

(……はい)

"Everyone tries to impress me. He just answered questions."

(誰でも私に好印象を与えようとする。あの人間はただ、質問に答えた)

 短い間。

"That's rarer than you'd think."

(思っている以上に珍しいことだ)

 ロバートは頷いた。そうだと思う。そうなのだが、遼本人に「あなたは希少です」と言っても、「そうですか」と返されて終わるだろう。

"He probably doesn't fully understand what kind of person he is."

(彼はおそらく、自分がどういう存在か、あまりよく分かっていないと思います)

"I know." デイビッドは静かに言った。"That's why it works."

(分かっている。だからこそ機能する)


 午後五時すぎ。

 柊家のドアが開いた。

 リビングから凛の声が飛んでくる。

「おかえり! どうだった!!」

「まあ」

 一瞬の沈黙。

「まあって何!!」

 華がソファから立ち上がった。

「うまくいったの? ちゃんと話せた?」

「普通に話した」

「普通に話した……!? CEOと普通に!?」

「変な話し方する理由もないし」

 凛が遼の前に立ち塞がった。両手を腰に当てている。

「返事は?」

「保留」

「保留って、断られた?」

「違う。二ヶ月待ってほしいって言ったら、Dealって言われた」

 また沈黙。今度は長い。

「……Deal って言われたの」

「うん」

「それ、OKってこと?」

「そういうことだと思う」

「どういう態度で言われたの」

「笑ってた」

 凛が、ゆっくりと天井を見た。

 華が「お姉ちゃん大丈夫?」とそっと聞く。

「大丈夫。大丈夫だけど」凛が天井から視線を戻した。「もう少し詳しく言える?」

「……まあ、良かったと思う」

「そ れ だ け!?」

 遼が靴を脱いで廊下に上がった。

「腹減った」

「夜ご飯ならあるよ!」と華。「あとで詳しく聞かせてよ!」

「何を?」

「え、だから今日の話!」

「話すことあんまないけど」

「あるでしょ!!」

 遼がリビングを通り抜けて自分の部屋へ向かう。

 凛は壁にもたれかかった。

「……世界的企業のCEOを『まあ、良かった』で片付ける弟」

「お姉ちゃん、諦め早くない?」

「慣れてるから」

 華がくすくす笑った。


 部屋に戻ってから、遼はスマホを手に取った。

 詩織のトーク画面を開く。

 『終わった』

 それだけ送った。

 二分もしないうちに既読がつく。

 『どうだった?』

 どうだった、か。

 遼はしばらく画面を見てから、

 『まあ』

 送った。

 詩織が受け取る。

 一分ほど、返信が来ない。

 詩織はスマホを持ったまま、その「まあ」について考えていた。

 良かった「まあ」なのか。普通だった「まあ」なのか。何かあったけど言いたくない「まあ」なのか。

 遼の「まあ」には無数の意味が含まれている可能性があって、でも全部同じ顔をしているから判別が難しい。

 三分ほど「まあ」と向き合ってから、詩織は返信した。

 『……この人は一生まあって言うんだろうな』

 遼から「?」が来た。

 詩織は「なんでもない、お疲れさま」と返した。

 「おう」が来た。

 詩織は画面を閉じて、ひとりで笑った。

 おかしいとは思う。ただの三回のやり取りで、笑う理由など別にないのに。

 でも笑った。


 夜。

 柊家の食卓に夕飯が並んだ。凛が「ちゃんとした話を聞く」という名目で、いつもより少し豪華なメニューになっている。

 遼の向かいに凛、隣に華。

「改めて聞くよ」凛がお箸を持ちながら言った。「どんな人だった?」

「デイビッドさん?」

「そう」

「……いい人そう」

 凛と華の視線が合う。

「いい人そう」

「目が正直な人って、大体いい人だから」

「そういう観察眼はどこから来るの……?」と華。

「別に普通だろ」

「普通じゃないよ」

「そうか?」

 凛が味噌汁を口に運んでから、もう一度聞いた。

「二ヶ月待ってほしいって言ったのは、プログラムのこと?」

「そう。完成してから行きたい」

「行きたい、って言える気持ちがあるんだ」

「……まあ」

 凛が少し表情を緩めた。

「良かった」

「何が」

「前より少し前向きな気がして」

 遼は特に答えなかった。

 前向きというより、順序の問題だ。プログラムを仕上げてから次に進む。それだけのことで、特別な心境の変化でもない。

 でも凛がそれで安心するなら、否定する必要もない。

「ご飯おいしいな」

 遼が言うと、凛が「そっちかい」と呟いた。

 華が笑う。

 三人の夕飯は、いつもと同じ温度で続いた。


 夜中の十一時。

 遼はデスクに戻って、プログラムを開いた。

 画面の中で、通信の処理フローが走っている。

 あと二ヶ月。

 正確には七週間と少し。見積もりには少し余裕を持たせてあるが、想定外の問題が出ることも想定内だ。

 遼はキーボードに手を置いた。

 デイビッドが「Deal」と言った瞬間のことを、一度だけ思い出した。

 笑う人だとは思っていなかった。笑うと印象が変わる。それは見ていてわかった。

 二ヶ月後に、あの人に「完成しました」と言えたら、それでいい。

 それ以上のことは、そのときに考える。

 遼はコードを書き始めた。

 夜が深くなっても、カーソルの点滅は止まらない。


 翌朝、ロバートからメールが届いていた。

 "He said you're interesting. He never says that."

(デイビッドがあなたのことを面白いと言っていました。あの人がそう言うのは初めてです)

 遼はそれを読んで、少し首を傾げた。

 "Thank you for the update."

(報告ありがとうございます)

 そう返信してから、朝食を食べに行った。

 テーブルには凛がいて、「昨日の話の続き聞かせて」と言ってきた。

「話すことない」

「ある」

「ない」

「あなたの口から聞く意味があるの、遼から聞くからちゃんとした情報になるんだよ!」

「……デイビッドさんは笑う回数が少ない人らしい」

 凛が少し目を丸くした。

「それ、昨日のやり取りで?」

「ロバートさんからメールに書いてあった」

「つまり……」

「まあ、悪くなかったんじゃない」

 凛が腕を組んで、でも口の端が上がった。

「……わかった。充分」

 華が寝ぼけながらリビングに来た。

「おはよう。今日も天気いいね」

「そうだな」

「ねえ、今日って何かある?」

「特に何もない」

 華がふわっとした顔のまま冷蔵庫を開けた。

「……プリン二個ある」

「俺のだ」

「一個だけ!」

「ダメ」

「けちー!」

 柊家の朝が、また始まる。

 二ヶ月後に向けて、この家の空気は何も変わらない。

 それが遼には、ちょうどいい。

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