これまでのあらすじ
まず、この家のことを説明しておく必要がある。
柊家には三人兄妹がいる。長女の凛(二十四歳)、長男の遼(二十二歳)、次女の華(二十歳)。三人が東京のマンションで共同生活を送っているのだが、この家、外から見ると相当おかしい。
なにがおかしいかというと、凛は朝ドラ主演を経て現在連続ドラマ主演中の国民的女優で、華は日本アカデミー賞新人賞を受賞済みの映画界の次世代エースで、ふたり合わせてSNSのフォロワーが何百万人もいる家なのに、その家で一番よく聞こえる会話が「プリン返して」「俺が食べた」「は?」という内容なのだ。
日本中が「凛ちゃんすてき」「華ちゃん天才」と言っているその同じ夜に、当の本人たちは弟のせいで冷蔵庫の前で仁王立ちになっている。これが柊家の日常である。
真ん中の遼は何者かというと、大学四年生で工学部に在籍しており、卒論を書きながら毎日机に向かって機械をいじっている。それだけだ。
就職活動はしていない。「面倒だから」。企業からのスカウトメールは未読で溜まっている。「後で読む(読まない)」。姉妹がテレビに出ていても見ていない。「忙しい(機械いじりが)」。
遼の口癖は「普通だろ」と「別に」と「はいはい」だ。この三語でたいていの局面を乗り切る。
問題は、遼が「普通だろ」と言うたびに周囲が「全然普通じゃない!!」と全力でツッコむ羽目になることで、本人だけがなぜみんなそんなに騒ぐのか理解していない。これが第一部を通じて繰り返されるお約束の構図である。
物語は、遼が祖父の形見のレコードプレーヤーを修理している場面から始まる。テレビでは凛の朝ドラ再放送が流れ、SNSでは「泣いた」「凛ちゃんすごい」がトレンド入りしているのだが、遼はそれを見もせずにハンダごてを握っている。コンデンサを交換し、針を落とすと、スピーカーからジャズが流れた。遼はひとりで「直ったな」と言って満足した。
そこへ華が帰ってくる。「遼ー!お腹空いたー!あとプリンある?」「……食べた」「は?」
凛も帰ってくる。「遼、買ってきて」「はいはい」。
こうして第一話は、国民的女優の弟がコンビニへプリンを買いに走るところで幕を閉じる。この家の何が正常で何がおかしいのか、最初からよく分からなくなるように設計されているのかもしれない。
外の世界では、遼の技術が少しずつ騒ぎを起こし始めていた。
大学の廊下で、スーツ姿の男たちに呼び止められる。世界的テクノロジー企業TechVisionのCTO、ロバート・チェンという人物だった。遼の技術論文に感銘を受け、アメリカからわざわざ飛んできたという。「年収一億円、初年度から提示します」。
遼の反応。「すみません、今卒論が忙しいので」。
そのままドアを閉めた。
ロバートは呆然と廊下に取り残された。世界企業のCTOが日本の学生のドアの前で立ち尽くす絵面を、傍から見ていた大学のスタッフが「あの人だいじょうぶですか」と声をかけたという。ロバートはそのあと気分転換に秋葉原へ行き、限定フィギュアを買って少し元気を取り戻した(この人には別の側面もある)。
現場では、遼の「普通」がじわじわと周囲を驚かせていった。
凛の撮影現場で音響トラブルが起きた。スタッフが困り果てているという話を家で聞いた遼が、ひとことアドバイスした。翌日そのスタッフは凛に言いに来た。「あの助言、プロの視点でした」。凛「弟がちょっと詳しいだけで……」。スタッフ「いや、あれはプロの視点です」。凛「……そう」。
華の映画現場では、今日の撮影データが全部吹っ飛ぶという大事故が起きた。プロの業者も困った顔をしているところへ華が電話で呼び出すと、遼がやってきてパソコンの前に座り三十分で全部復旧した。泣きそうになったスタッフをよそに、遼は「ファイルシステムのエラーだから手順通りやれば直る」と言った。「普通ですよ」と言いながら帰ろうとした遼の袖を、華は思わず掴んだ。この「普通」は絶対普通じゃない、と華ははっきり思った。
ちなみにこの日の夜の夕食で、遼が「あ、プリン買ってくるの忘れた」と言い、また騒ぎが起きた。
卒論は、書き上がった段階で教授陣が全員ざわついた。テーマが異常に高度すぎたのだ。学会発表の推薦が上がる。「出せ」と教授が迫る。遼の返事は「恥ずかしいので」。「恥ずかしい!?あのレベルで!?」と教授たちが頭を抱えたが、遼はもう次の実験に取りかかっていた。
TechVisionのロバートは諦めず、再び日本に来て田中教授を経由して正式オファーを届けた。封筒の中身を見た田中教授が「これは断る話じゃない」と言うほどの破格の条件だった。遼の感想は「……すごいですね」。「そうじゃなくて!」と教授に叱られ、しぶしぶ「話だけ聞きます」となった。
ロバートと向き合った面談では、技術の話で二人は妙に意気投合した。一時間たっぷり話したあと、遼は「返事は保留でいいですか」と言った。ロバートは苦笑しながら「もちろんです」と答え、廊下でスタッフに「前回よりずっとよかった」と報告した。前回は十分でドアを閉められていたので、たしかに大幅な進歩である。
遼の幼なじみに、桜井詩織という女性がいる。同じ大学の文学部四年生で、小学生のころから遼を知っている。
小五のとき壊れたラジカセを直してもらい、高二のとき自転車のチェーンを直してもらい、そのたびに遼は「別に、壊れてただけだろ」と言った。詩織はそのたびに心の中で「そういうとこが好きなんだよ……!!」と叫んだが、表情には出さなかった。
第十一話、カフェで凛と偶然会った詩織は「遼、また企業のオファー断ったらしいね」と聞いて、改めて遼という人間の規格外さを実感した。夜、スマホを握りしめながら「私、遼が好きなんだ」と独り言のように言った。送信しようとしたメッセージは下書きのまま残った。
詩織が「もし海外に行ったらどうする?」と遼に聞いたとき、遼は「行かない」とだけ言った。詩織は「なんで聞いてしまったんだろう」とちょっと後悔した。遼はその三秒後に「プリン食べる?」と言ったので、詩織は「食べます」と答えるしかなかった。
遼は今日もまったく気づいていない。詩織はそれを知っている。知っていて、隣にいる。
第一部の幕は、こんな場面で下りる。
海外のどこかのビルで「CEOが来日する」という話が決まる。遼のパソコンには「Subject: Direct Invitation」という件名のメールが届く。遼はそれを未読のまま閉じた。ただ今回だけは、画面を見つめる時間が少し長かった。
その頃、柊家のリビングでは凛と華がまたプリンをめぐって言い合っている。遼は「はいはい、買ってくる」と財布を手に立ち上がった。
こういう家なのだ。
結局は、世界規模のプリン争奪戦のお話です。(嘘です)




