遼と詩織 文化祭「理解できない隣の部屋」Episode 2「見えてるものと、見えてないもの」
翌朝、遼の机の上に名刺があった。
昨日受け取ったまま、そこに置いてある。白い名刺。車両メーカーの名前、技術開発本部、自動運転システム部門、部長という肩書き。
詩織がそれを見たのは、遼の部屋に課題のノートを返しに来たときのことだ。
「名刺、ここに置いてあるけど」
「うん」
「保管するって言ってたのに」
「机の上で保管してる」
一拍、間が落ちた。
「それを保管とは言わない」
「見える場所にある」
「紛失するよ」
「目に入るから紛失しない」
遼はモニターから目を離さないまま答えた。詩織は名刺を手に取って、引き出しから適当なクリアケースを見つけて入れ、遼の机の端に置く。
「これで保管」
「ありがとう」
「別に」
出ていこうとした。
「詩織」
振り返ると、遼がやっとモニターから目を動かしていた。
「昨日の名刺の人、スカウトだと思うか」
「そう思う。見学は入口で、本当はつなぎたいんだと思う」
「……そうか」
「行くの?」
「話を聞いてから決める」
詩織は「そう」とだけ言った。
廊下に出てから、クリアケースのことを思い出した。引き出しの中にあったのは、詩織が中学のときに買って遼に渡したものだ。
別に何でもない話。そう言い聞かせて、廊下を歩く。
昼休み、屋上に出た。
十月の空は高い。風が少し冷たくて、弁当を食べながら遠くのビル群を見ていると、遼が後から来た。いつもの習慣。二人して同じ方角を向いて座る。
「昨日の人、ずっとメモを取ってたけど、何を話してたの」
「制御の話。ローパスフィルタの時定数の決め方とか、D項にだけフィルタを入れた理由とか」
「あの人、分かってた?」
「全部分かってた。俺が書く前に続きを書いた」
詩織は弁当の蓋を閉じた。
遼の技術の話を全部分かった上で聞ける人間が、あの展示室にいた。遼が言葉を選ばなくていい相手。詩織には、なれない。なれないことはずっと前から知っていた。それでも昨日、あの目を見てしまった。遼の目が変わった瞬間——ああいう顔を、詩織はこれまで数えるほどしか見ていない。
「楽しかった?」
聞いてしまった。
「……久しぶりに話が通じた」
そのまま前を向く。
久しぶり、という言葉。胸の中でそっと置き直して、弁当箱を鞄にしまう。
「よかった」
声は平らに出た。
「詩織はどうだった」
「まあ。そこそこ来てくれた」
「バーナム効果、みんな引っかかってたな」
「廊下から見てたの」
「少し」
詩織は遼の横顔を見た。
「感想は」
「説明の仕方がうまかった」
「褒め方が遼らしい」
「事実だ」
詩織は笑った。笑いながら、「久しぶりに話が通じた」という言葉をもう一度思い出す。
遼の技術が全部分かる人間には、なれない。でも、遼が「うまかった」と言える相手であることは、また別の話だ。
別の話——のはずだ。
午後の授業のあと、詩織は一人で教室に残って本を読んでいた。
しばらくして遼が戻ってきた。忘れ物を引き出しから取り出して、帰るかと思ったらなぜか自分の席に座る。
「坂本にノートを返す約束をした。五時に来ると言っていた」
「あと三十分あるじゃん」
「そうだ」
沈黙が下りた。詩織は本を読んでいて、遼は窓の外を見ている。この種の沈黙は苦にならない。
「昨日のUNDERFANG、聴いたか」
「聴いた。廊下から」
「あの編成、ちゃんとした音楽をやってきた人間の音だ」
「遼、音楽が分かるの」
「分からない。でもちゃんとした音かどうかは分かる」
「基準は」
「音に無駄がない」
詩織はしばらくそれを考えた。
「……機械と同じ基準だ」
「そうかもしれない」
少し笑って、本に目を戻す。
「華がバンド名をメモしてた」と遼。
「見てた。あの子、気に入ったら絶対ライブ行く」
「そうだな」
廊下を歩く音が遠く聞こえて、また消えた。
五時になる少し前、坂本が来てノートを受け取って帰った。遼も立ち上がる。
「詩織、帰るか」
「帰る」
二人で廊下に出た。夕方の廊下、人が少ない。窓から見える空が昨日と同じ色に染まっている。昨日も同じ時間に帰った。華も一緒だったが、今日は二人だ。
詩織は歩調を少し落とした。気づかれないくらい、ほんの少しだけ。
校門を出て商店街の方へ。いつもの帰り道。惣菜屋の前を通ると、田中幸江が店先にいた。
「あら、二人とも。昨日は文化祭だったねえ。どうだった?」
「まあ」と遼。
「少なかったです、来た人」と詩織。「技術の話が分かる人じゃないと難しくて」
「じゃあ詩織ちゃんが一番分かる人じゃない」
「半分も分かりません」
「そんなもんよ。今日のコロッケいいのができてるよ。持ってく?」
「もらいます」と詩織。「三個」と遼。
「三個! 凛ちゃんと華ちゃんの分も? 相変わらずだねえ」
幸江がコロッケを包んでいる間、詩織は軒下に立っていた。夕方の光が斜めに差して、道路の影が長く伸びる。
「詩織ちゃん、彼氏はできた?」
包みを渡しながら、幸江がさらっと言った。
一瞬だけ、詩織の手が止まった。
「いません」
「そうかねえ。遼くんは?」
「いない」
「二人ともねえ。ずっと一緒にいるのにねえ」
「一緒にいると彼氏彼女になるわけじゃない」と遼。
「そうだけどさあ」
幸江が包みを二つに分けて渡した。詩織が一個、遼が三個。
歩き始めた。二人並んで。コロッケの湯気が秋の空気に溶けていく。
詩織はしばらく黙っていた。
「幸江さん、毎回聞くね」
遼が言った。
「そうか」
「気になるんだと思う」と詩織。「私たちのこと」
「何が気になるんだ」
「さあ」
答えながら、詩織はコロッケを一口食べた。
さあ、と言ったが、分かっていた。幸江は遼たちが子供の頃からずっと見てきた人間だ。その隣にいつもいた詩織のことも、たぶん全部見えている。
だから答えなかった。
遼は「そうか」と言って前を向いた。詩織も前を向く。
歩きながら、遼が言った。
「詩織。本当にスカウトだとしたら、どうすればいい」
「話だけ聞けばいい。今すぐ決める必要はないし、大学に入ってからでも繋がっておいて損はない」
「そういうことを考えるのか、詩織は」
「遼が考えないから私が考える」
少し間があった。
「ありがとう」
「別に」
別に、と言いながら、その「ありがとう」の五文字がしばらく胸の中で温かいままだった。
柊家の前まで来た。
「また明日」
「うん」
遼が玄関に入っていく。詩織はそのまま斜め向かいの自分の家へ向かった。
ほんの数十歩。それだけの距離。
昨日と今日で、何かが変わったわけではない。名刺がクリアケースに入った。昼に屋上で弁当を食べた。帰り道にコロッケを買った。どれもいつもと変わらない。
変わらないのに。
自分の家の前まで来て、詩織は少しだけ振り返った。柊家の玄関、もう閉まっている。
紺ジャケットの男性のことを考えた。遼の目が変わった瞬間。「久しぶりに話が通じた」という言葉を、もう一度だけ。
遼には、あの目を引き出せる人間がいる。詩織ではない人間が。いつか、そういう人間が遼の周りに増えていく。大学に行けば、業界に出れば、もっと。当然のことで、いいことで、遼に必要なこと。
分かっている。
それでも、夕方の空の下でひとりだけ思う。
——遼が「また明日」と言った相手は、昨日も今日も、詩織だった。
それだけのことだ。それだけで、今日はいい。




