遼と詩織 文化祭「理解できない隣の部屋」 Episode 1「それぞれの展示室」
十月の第二土曜日。
文化祭というのは、どこの学校でも似たような匂いがする。焼きそばと綿飴と、それから張り切りすぎた男子の制汗スプレーが混ざった、あの独特の匂いだ。
柊遼は、その匂いを特に何とも思っていなかった。
今日は文化祭だった。
それだけの感覚である。
三年二組の教室は、廊下から見るとちょっとおかしな具合になっていた。
黒板に図が描いてある。制御システムの構成図だ。左から「センサ入力」「状態推定」「制御則演算」「アクチュエータ出力」と矢印が連なり、フィードバックループが赤い線で示されている。その下に数式が並んでいた。
ẋ = Ax + Bu
y = Cx + Du
状態空間表現。制御工学の基礎中の基礎ではあるが、高校の文化祭に貼り出す代物ではない。
教室の中央には、一メートル四方の台が置いてあった。台の上には手作りの道路が広がっている。白線を引いたグレーのボード、交差点、横断歩道、信号機——信号機は本物と同じく赤黄青に光り、一定のリズムで切り替わっていた。道路標識も手書きで作ってある。「一時停止」「制限速度30」「右折禁止」。縮尺がおかしいが、それはご愛嬌だ。
そしてその道路の上を、小さなミニカーが走っていた。
誰も操作していない。
ミニカーは自分で交差点で止まり、信号が青になると発進し、カーブを曲がり、一時停止標識の前で律儀に三秒停まる。カメラが付いていて、道路上のARマーカーを読み取って位置を把握しているのだろう。
来場者が最初に見せる顔は、大体こうだった。「おお」。
次が「……何これ」。
そして「説明、聞いてみようか」。
遼は黒板の前に立っていた。
説明担当として、来場者に向けて話す役割だ。文化祭の展示というのは本来、分かりやすさが命のはずだった。しかし遼の説明は、開始三十秒で来場者の顔から光が消えるという現象を、今日だけですでに五回繰り返していた。
「このシステムは、PID制御とカルマンフィルタを組み合わせた構成になっています。センサはカメラとIMUを使っていて、路面のARマーカーから自己位置を推定し、経路計画はA*アルゴリズムで——」
前列の男子生徒が、ゆっくりと後退した。
「信号の認識はOpenCVで実装していて、色空間をHSVに変換してから閾値処理で——」
女子生徒二人が、目が合わないように横を向いた。
「PIDのゲイン調整はジーグラー・ニコルス法を使いましたが、微分項がノイズに弱かったので、実際にはローパスフィルタを入れてから——」
来場者が四人いたが、気づけば一人になっていた。
残った一人は中年の男性だった。紺のジャケットを着ている。腕を組んで、前のめりになって、小さなメモ帳に何かを書き続けていた。
遼はその男性を見て、少し頷いた。
説明を続けた。
桜井詩織は、廊下から教室の様子をちらりと確認した。
またやっている。
三人が逃げていくところを、詩織は目の端で捉えた。遼は気づいていない。ミニカーの動きを確認しながら、黒板に追加の数式を書き始めていた。
詩織は小さくため息をついた。
声に出さない。出す必要もない。あれが遼の話し方だということは、詩織が一番よく知っている。機械の話になると、遼は相手のことを考えなくなる。正確には、考えていないのではなく、「この程度は伝わるはず」の閾値が常人と大幅にずれているのだ。
でも。
後ろの方の紺ジャケットの男性だけは違う。
詩織は数秒、その男性を観察した。メモを取る手の速さ、視線の動き、遼が数式を書くたびに体が少し前に傾く角度。あれは「なんとなく聞いている」顔ではない。内容を理解していて、次の言葉を待っている顔だ。
誰だろう。
保護者にしては一人だし、教師にしては制服組の引率をしていない。
詩織は頭の片隅にその疑問を置いておくことにした。
自分の展示室に戻る時間だった。
詩織の展示室は、遼の教室から廊下を挟んだ斜め向かいにあった。
入り口の看板にはこう書いてある。
「あなたの脳をだます 行動心理学体験ブース」
副題として「なぜ人は合理的に行動できないのか」とある。
文化祭らしいと言えばらしい。でも詩織が作ったものだから、中身はわりと本格的だった。
ブースは三つのコーナーに分かれていた。
コーナー① ストループ効果体験
テーブルの上に、ラミネートされたカードが三十枚並んでいた。
カードには色の名前が書いてある。「あか」「あお」「みどり」「きいろ」。しかし文字の色と内容が一致していない。「あか」という文字が青で書いてある。「みどり」という文字が黄色で書いてある。
ルールは単純だ。「文字を読まずに、文字の色を声に出してください」。
これがなぜか、できない。
脳の言語処理は、視覚情報より速い。目に入った「あか」という文字を、脳は反射的に「あか」と処理してしまう。色の情報はその後に来る。二つの情報が衝突して、脳が混乱する。
1935年にジョン・リドリー・ストループが発表した「ストループ効果」。脳の自動処理と意識的な処理が干渉し合う現象で、現在も注意機能の研究に広く使われている。
来場者の反応は毎回同じだった。「なにこれ簡単じゃん」「え、待って、なんで間違えた」「やばい脳が混乱してる」の三段階。詩織は淡々と「前頭前野と色認識野の干渉です。インク色を答える課題では、文字情報の自動処理を抑制する必要があるため、反応時間が伸びます」と説明した。
そこに、中学の制服を着た女子が入ってきた。
詩織は顔を上げた。
柊華だった。
遼の妹。中学三年生。今日は外部来場者として文化祭に来ているらしい。なぜかというと、「遼の発表が見たかったから」という理由だが、詩織には「遼の周りを観察したかったから」に聞こえていた。
「詩織ちゃん!」
華は元気よく入ってきて、展示台を見渡した。
「なんかすごい。ちゃんとした展示だ」
「一応本物の心理学実験なので」
「遼の展示も見てきた。なんか数式がいっぱいあって怖かった」
「どのくらいの人が残ってた?」
「一人」
「何人逃げた?」
「……五人くらい」
詩織は表情を変えなかった。そうだと思っていた。
「これやってもいい?」と華がストループ効果のカードを指差した。
「どうぞ」
華はカードを手に取り、ルールを確認して、声に出し始めた。
「え、あお——待って、あ、黄色——いや、あおって書いてあるけど色は——」
五枚目で盛大に詰まった。
「なんでっ!? 分かってんのに言えない!」
「脳の自動処理が優先されるからです。文字を読む処理の方が速いので、色の情報が後回しになります」
「悔しい! もう一回!」
二回目。また五枚目で詰まった。
「なんで毎回五枚目!」
「慣れてきたところで配列が変わっているからです。パターン認識に頼ろうとすると逆に引っかかります」
「えっそれわざと?」
「もちろん」
華が詩織を見た。
「……詩織ちゃん、けっこうえぐいことするんですね」
「実験なので」
淡々と言った詩織に、華は少し笑った。
コーナー② バーナム効果体験
こちらは少し趣向が違った。
詩織が来場者一人ひとりに話しかけ、生年月日や好きな色などを簡単に聞いてから、封筒を渡す。中には「あなたの性格診断」が入っている。
来場者が開けると、こんな文章が書いてある。
あなたは表面上は穏やかに見られることが多いですが、内側では強い意志と感情を持っています。他人に弱みを見せることを少し苦手としており、認められたいという気持ちと、独立心の強さが共存しています。時に自分に対して厳しすぎることがあり、もっと自分を許してもいいと感じることもあるのではないでしょうか。
来場者の反応は毎回こうだった。「当たってる」「え、どうして分かるの」「これ私のことだ」。
詩織は全員の反応を記録した後、静かに言う。
「全員に同じ紙を渡しています」
沈黙。
「……え?」
「バーナム効果と言います。誰にでも当てはまる曖昧な記述を、自分だけのものだと感じる心理現象です。1948年にバートラム・フォアが実験で示しました。占いや血液型性格診断が当たると感じるのも、同じメカニズムです」
さらに長い沈黙。
「……最初に言ってよ」
「言うと実験になりません」
華が封筒を受け取って、中を読んだ。
「……当たってる気がする」
「そうでしょう」
「全員同じ紙なの?」
「そうです」
華が封筒を閉じて、少し考えた顔をした。
「なんか、悔しいな」
「なぜですか?」
「当たってると思ったのに」
「気持ちはわかります。ただ、それがこの現象の面白いところでもあります。全員に当てはまる文章を、人は自分専用のものだと感じる。それだけ、自分自身を特別な存在だと認知したいという欲求が強いということです」
華が詩織を見た。
「詩織ちゃんって、教えてるときちょっと楽しそうですよね」
「……そうですか」
「なんか目が少し変わる」
詩織は少し間を置いた。
「実験が好きなので」
「機械が好きだと目が変わる遼と同じだ」
詩織は返事をしなかった。
華は少し笑って、次のコーナーに移った。
コーナー③ 確証バイアス体験
テーブルにトランプが伏せて並んでいる。
詩織がこう言う。「このデッキにはルールがあります。表を向けて、ルールを当ててください。確認できたと思ったら終了してください」
来場者がカードをめくっていく。
実はルールは「全部赤いカード」なのだが、来場者のほとんどは「数字が書いてある」「ハートとダイヤだけ」など、別のルールを思い込んで「確認」しようとする。
人は反証を探さず、自分の仮説を支持する証拠だけを集めようとする。それが確証バイアスだ。
心理学者ピーター・ウェイソンが1960年代に実験で示した「ウェイソン選択課題」の原理を、トランプで体験できるようにアレンジしたものだった。
華がやってみた。
カードを十枚めくって、「分かった!」と言った。
「数字の偶数と奇数が交互になってる!」
「違います」
「え」
「赤いカードのみです」
華が残りのカードをめくった。全部赤かった。
「……全部確認すればよかった」
「人は仮説を立てると、その仮説を支持するカードだけを確認しようとする傾向があります。反証になるカード——つまり今回で言えば『黒いカードがあるかどうか』を確認しようとする人は少ないです」
「……なんか、日常でもやってそう」
「やっています。誰でも」
「詩織ちゃんも?」
一瞬の間。
「……人間なので」
華がまた笑った。
廊下の向こう、遼の教室から、来場者が三人出てきた。
全員の顔が、微妙に疲れていた。
「なんか難しかった」「数式が多すぎた」「でもミニカーは面白かった」という声が聞こえてきた。
その三人が、詩織の展示の看板を見て吸い込まれていった。
廊下ですれ違った一人が「こっちの方が面白そう」と言うのを、詩織は聞いた。
聞こえていないふりをした。
でも、そうなるだろうとは思っていた。
昼前になって、遼が顔を出した。
交代で休憩を取る時間だった。遼は教室から出てきて、廊下で詩織の展示室の入り口を覗いた。
「盛況だな」
「ある程度は」
「俺の方は人が来ない」
「知ってる」
「来ても途中で帰る」
「知ってる」
遼は少し考えた。
「説明が難しすぎるのか」
「難しすぎるのと、速すぎる」
「そうか」
特に落ち込んでいる様子はなかった。遼にとって「来場者が少ない」と「展示が面白くない」は、別の問題だった。自分が面白いと思うものを作った。それは変わらない。伝わらなくても、作ったものの価値は変わらない。
それが遼という人間だ。
詩織はそれを長年見てきたから、慰めも励ましも言わなかった。
「でも一人、ずっと残ってる人がいる」
遼が言った。
「紺のジャケットの」
「知ってる」詩織はそう答えた。「さっきから気になってた。あの人」
「技術の話をしてたら、自分でも数式を書き始めた」
詩織は顔を上げた。
「自分で?」
「俺が書き終わる前に、続きを書いた」
それは普通ではない。
詩織は窓越しに遼の教室を確認した。紺ジャケットの男性は、まだいた。今度は遼が作った制御プログラムのコードを印刷したものを、じっくりと読んでいた。
「あの人、誰だと思う?」
「分からない」と遼は言った。
分からないのに気にしていない、というのが、また遼らしかった。
詩織は少し考えた。
保護者ではない。教師でもない。外部から来た人間で、制御工学の数式を見て自分で続きを書ける人間。
何者だろう。
答えは、もう少し後になるまで分からなかった。
午後一時を回ったころ。
廊下のどこかから、ギターの音が聞こえてきた。
詩織は手を止めた。
窓の外から来る音ではなく、もう少し近い。校舎の中、どこかの教室からだ。
来場者の女子生徒が「あ、音楽系の展示じゃないですか」と言って廊下に出ていった。
詩織もブースの手を一瞬止めた。
アコースティックギター。それとハーモニカ。二つの音が重なって、廊下まで漏れてくる。
うまい。
文化祭の素人演奏ではなく、ちゃんと音楽をやっている人間の音だ。
UNDER FANGのホームルーム教室は、同じ棟の三階にあった。
三年七組。
黒板に「UNDER FANG 軌跡と原点」と書いてある。その下に、ギターを持った四人の写真が貼ってあった。全員ちゃんとした高校生の顔をしている。後年の姿と比較するとかなり清楚だが、今この時点ではそれが標準だった。
天野は、ギターの前に座っていた。
フォークギター。木目のボディ。チューニングは完璧だった。天野は音楽室から借りてきたパイプ椅子に腰を下ろし、来場者に向かって軽く一礼した。
「どうも。UNDER FANGです。今日は俺たちがどういうバンドを目指しているか、それを音楽で説明しようと思います」
熊谷がハーモニカを構えていた。口元にあてて、少しだけ音を出す。Cのスケール。調整確認。
田中がアコースティックギターのネックを握り直した。リズム担当だ。
松本が壁際に立って、小ぶりなカホンの前に座った。打楽器担当。
四人でアイコンタクトをとった。
天野が弦を弾いた。
音が始まった。
Gメジャーのイントロ。シンプルなコード進行だが、天野の左手がフレットを押さえる位置が的確で、音に濁りがない。カポタストを二フレットに挟んでいるから、全体のキーが少し上がっている。松本のカホンが裏拍で入る。ドン、タン、ドン、タン——フォークらしい、落ち着いたリズムだ。
天野が歌い始めた。
錆びた自転車を漕いでいた
あの頃の坂道、憶えてるか
帰り道はいつも同じで
それでも毎日違う景色だった
ラジオから流れる古い歌
誰かが口ずさんでいた
名前も知らないその人の声が
なぜかずっと耳に残っている
熊谷のハーモニカがサビの手前で入った。
フォークハーモニカ特有の、少し掠れた音色。ブルースハープのCキー。天野のギターがカポで上がっているから、実音はDキーになる。二本が重なると、音に奥行きが出た。
田中がコードをGからEmに変えた。長調から短調へのスライド。曲の空気が、少しだけ翳る。
変わっていくものと、変わらないものが
ぐちゃぐちゃに混ざって今日も過ぎていく
それでいいと思う、たぶん
それでいいと思う、きっと
来場者が少しずつ増えていた。
廊下から顔を出した生徒が、音を聞いて足を止める。「なんかいい」「ちゃんとしてる」という声が聞こえてきた。
一曲が終わった。
拍手が起きた。天野が「ありがとうございます」と言った。いつもより少し照れた顔だった。
廊下に立って聞いていた華は、拍手が終わってからもその場を離れなかった。
さっき遼の展示室で数式を見て脳が少し痛くなっていたが、この音楽を聞いて何かが回復した気がした。
「いいですね」
隣に立っていた詩織が、静かに言った。
いつの間にか詩織も廊下に出てきていた。
「本格的だ」
「フォークですよね」華が言った。「こういうの好きかも」
「ハーモニカが入るとフォークらしくなる。吉田拓郎とか、かぐや姫の感じ」
「詩織ちゃん、フォーク詳しいんですか」
「少しだけ。昔、父がよく聴いていたから」
そこで少し止まった。一拍、間があった。
「……今はどうか知らないけど」
それだけ言って、詩織は廊下に出た枠から少し引いた。
華はもう一度教室の中を見た。天野がギターのチューニングを確認している。次の曲の準備だ。
「あのバンド名、なんてんだろ」
「UNDER FANGって書いてあった」
「どういう意味ですか?」
「ドイツ語に近い造語みたい。挑戦とか企てとか、そういう意味らしい」
華は看板を見た。確かに「UNDER FANG」と書いてある。
「かっこいい名前ですね」
「バンド名を考えるの得意な人がいるんでしょう」
詩織は廊下を一瞥してから、自分のブースに戻っていった。
華は少しの間、廊下に立ったままでいた。
二曲目が始まった。今度はテンポが少し速い。カホンのリズムがはっきりしていて、体が自然に動く感じがした。
こういうのを聞いたことがなかった。学校の合唱とも違う。アイドルの曲とも違う。もっと生活に近い、地に足のついた音だ。
華は携帯をポケットから出して、バンド名をメモした。
UNDER FANG
いつか、ちゃんと聴こう。そう思った。
そのメモは三日後、洗濯機の中で消えた。
その頃、遼の展示室に戻ると。
紺ジャケットの男性が、ミニカーの台に顔を近づけていた。
ミニカーが一時停止標識の手前で止まる瞬間を、まじまじと見ている。三秒待って、発進する。また見ている。
「センサの遅延補正は入れてますか」
男性が遼に聞いた。
「入れてます。IMUの積分誤差が蓄積するので、ARマーカーで定期的に補正しています」
「カルマンフィルタのQとRの値はどうやって決めましたか」
「試行錯誤です。理論的には観測ノイズの共分散から決めるべきですが、実際の路面状況に合わせて実験的に調整しました」
男性がメモを取る手を止めた。
「この年齢でここまで実装できるのは、珍しい」
遼は「そうですか」と言った。
褒められていることは分かった。ただ、褒められた感覚は特になかった。正しいことを正しくやっただけで、珍しいかどうかは他者の評価の話であって、システムの性能とは別の話だ。
「学校の外で、誰かに習いましたか」
「いいえ」
「独学で?」
「本と、あとは作りながら」
男性が少し黙った。
ミニカーがまた交差点に差し掛かって、左右を「確認」してから曲がった。センサが左右の障害物を検知して、安全を確認してから進む仕組みだ。
「この経路計画、A*だけじゃなくてダイクストラも混ぜてますね」
「はい。静的な経路はダイクストラで、動的な障害物回避はA*に切り替えています」
「なぜ切り替えた?」
「ダイクストラは全ノードを探索するので障害物が動く場合に遅い。A*はヒューリスティックで枝刈りできるので、リアルタイム性が上がります」
男性がメモに何かを書いた。一行書いて、顔を上げた。
「さっきPIDのD項にローパスフィルタを入れたと言っていましたね。時定数τはどうやって決めましたか」
遼は少し考えた。
「サンプリング周期が10ミリ秒なので、ナイキスト周波数は50Hzです。ノイズが主に20Hz以上に乗っていたので、カットオフ周波数を10Hzに設定して、τ=1/(2π×10)で約16ミリ秒にしました」
「サンプリング周期の1.6倍、か」男性が呟いた。「フィルタはD項だけに入れましたか。誤差全体には入れていない?」
「D項だけです。誤差にもフィルタをかけると制御全体の応答が遅れる。D項は微分なのでノイズを増幅しやすい。そこだけ絞るのが妥当だと思いました」
「追従遅れは出ませんでしたか」
「出ました」
遼はあっさり言った。
「τを大きくするほどノイズは消えますが、D項の位相が遅れて制振効果が落ちる。τを小さくすると今度はノイズを拾いすぎてハンチングが出る。結局10Hzのカットオフが一番マシでした。マシ、というだけで最適ではないと思っています」
男性が手を止めた。
「最適ではないと、自分で分かっているんですか」
「路面の振動特性を正確に測定できていないので、ノイズの周波数分布が推定値です。ちゃんとしたスペクトル解析ができれば、もう少し詰められるはずです」
三秒、沈黙があった。
男性がメモを閉じた。
遼に差し出した。
遼は受け取って、読んだ。
車両メーカーの名前があった。技術開発本部。自動運転システム部門。部長という肩書き。
「もし興味があれば、うちの研究施設を見学しませんか。大学生になってからでも構いません」
遼は名刺を持ったまま、少し考えた。
自動運転システム。研究施設。本物のセンサや、本物の制御システムを見られる場所。
「……見学できるんですか」
「もちろん」
遼の目が、わずかに変わった。
興味が出たときの、あの目だ。詩織がよく知っている目だ。
廊下から覗いていた詩織は、それを見た。
遼の目が変わった瞬間を。
詩織はその場から少し離れて、自分のブースに戻った。
来場者が二人待っていた。「バーナム効果やりたい」と言っている。
「どうぞ」
詩織は封筒を二枚準備した。
頭の片隅で、先ほどの光景を整理していた。
紺ジャケットの男性は、本物だった。遼の展示を見て自分で数式を書いた人間は、本物の業界人だった。
そして遼は、そこに気づいていない。
名刺を受け取っても「面白そうな施設が見られる」しか考えていない、あの顔。スカウトされているという感覚が、たぶんゼロだ。
詩織はそれを見て、何かを言おうとした。
やめた。
来場者に向かって「どうぞ」と椅子を示した。
いつかちゃんと言う。でも今日じゃない。今日は遼が好きなものを作って、好きな人と話して、名刺をもらった日だ。
今夜はそれでいい。
夕方。
文化祭の展示終了時刻は四時だった。
来場者が引いていく中、華が遼の教室に入ってきた。
「遼、どうだった?」
「まあ」
「まあって何。来た人は?」
「少なかった」
「何人くらい?」
「数えてない」
「……」
華は展示台を見た。ミニカーがまだ走っている。信号が青になった。発進した。一時停止で止まった。
「これ、すごいね」
「そうか」
「遼が作ったの?」
「そうだ」
「一人で?」
「そうだ」
華はミニカーをしばらく眺めた。
一時停止で三秒止まってから、また動き出した。
「ちゃんと標識守ってる」
「センサで認識してる」
「標識の意味、教えたの?」
「データとして与えた。意味は機械には関係ない」
華が遼を見た。
「でも止まってるじゃん。標識があるから止まってる」
「命令だから止まってる」
「命令でも、結果は同じでしょ」
遼は少し考えた。
「……同じではある」
「じゃあよくない?」
華はそう言って、展示台の前から離れた。
「詩織ちゃんの方はめちゃくちゃ来てたよ」
「知ってる」
「遼のとこから逃げてきた人が全員詩織ちゃんのとこに行ってた」
「そうだろうな」
「悔しくないの?」
「俺は詩織と競争してない」
華が止まった。
「……それもそうか」
遼は名刺をポケットにしまいながら言った。
「俺のは見る人が見れば分かる。来なかった人のことは考えてない」
華はその言葉を聞いて、少し黙った。
悔しいとか、寂しいとか、そういう感情が一切ない言い方だった。本当に心の底からそう思っている顔だった。
すごいな、と思った。
でも、口には出さなかった。
片付けが終わって、廊下に出ると、詩織がちょうど自分の展示室の看板を外しているところだった。
遼が「手伝うか」と言った。
「大丈夫」
詩織は看板を丸めながら答えた。
華が二人の横をすり抜けて廊下を歩き、ふと立ち止まった。
「ねえ、詩織ちゃん」
「なに」
「さっきのバーナム効果のやつ、もう一回やりたい」
「なぜ」
「今度は当たらないように読もうと思って」
詩織が少し考えた。
「それが確証バイアスです」
「え?」
「"当たらないはず"という仮説を立てた時点で、当たらない証拠だけを探すようになります。どちらにしても客観的には読めない」
華が固まった。
「……どうすれば客観的に読めますか」
「それが分かれば心理学の大部分が解決します」
「詩織ちゃん答えてくれない……!」
遼が「答えようがないだろ」と言った。
「なんで分かるの!」と華。
「内容を聞いていたから」
「廊下にいたのに!?」
「廊下でも聞こえた」
華が遼を見て、詩織を見た。
「この二人、なんか似てる……」
「似てない」と遼。
「似てないです」と詩織。
同時だった。
華が「似てるよ」とつぶやいた。
二人とも聞こえていたが、どちらも何も言わなかった。
三人で校舎を出たのは四時半を過ぎた頃だった。
グラウンドではまだ後夜祭の準備をしているグループがいた。
華が「後夜祭も見てく?」と言った。
「帰る」と遼。
「詩織ちゃんは?」
「私も」
「二人とも帰るの早い」
「明日も授業がある」と遼。
「私はただ疲れた」と詩織。
華が少し不満そうな顔をしたが、「じゃあ駅まで一緒に」と言って二人の間に割り込んだ。
三人並んで校門に向かった。
夕方の光が校舎に当たって、影が長くなっていた。
華が「今日一番よかったものなんだった?」と言った。
遼が「カルマンフィルタが安定して動いたこと」と言った。
華が「遼は自分の話ね」と言った。
「文化祭の展示なんだから自分の話だろ」
「でも見に来てくれた人の話とか……あ、名刺もらってたじゃん。あの人誰だったの」
「車のメーカーの人らしい」
「らしい?」
「名刺に書いてあった」
華が驚いた顔をした。
「スカウトされたの?」
「研究施設の見学に呼ばれた」
「それスカウトだよ!!」
「見学だ」
「最初は見学って言うんだよそういうのは!」
遼は特に動じなかった。
「見学なら見学でいい。本物のシステムが見られるなら」
華が詩織を見た。「詩織ちゃん、止めてください」
詩織は少し考えた。
「……名刺、ちゃんと保管しておいて」
「なぜ」
「なんとなく」
遼は「分かった」と言った。
華が「詩織ちゃんも止めてくれないの!?」と言った。
「止める理由がない」
「でも」
「遼が行きたければ行けばいい。見学くらいなら害もない」
詩織は前を向いたまま答えた。
害がない、という理由だけではなかった。あの男性の目を見ていれば分かる。遼の技術に本物の興味を持っていた。それは遼にとって悪いことではない。
でも、それを全部言う必要もなかった。
駅が見えてきたところで、華が「あ」と言った。
「さっきのバンド、UNDER FANGっていうんですね。調べたら来月ライブするみたい」
「そうか」と遼。
「行ってみたい。詩織ちゃんは?」
「考えておく」
「遼は?」
「興味ない」
「なんで! 隣の部室のバンドでしょ」
「ギターの音がうるさかった」
「それ悪口じゃん」
「事実だ」
「でも嫌いじゃないでしょ、あの音」
遼は少し間を置いた。
「……嫌いではない」
「じゃあ行こうよ!」
「ライブはうるさい」
「フォークだからそんなでもないよ!」
華の主張は続いたが、遼は「考えておく」の一言で終わらせた。
考えておく、は遼の語彙では「可能性がゼロではない」という意味だ。詩織はそれを知っている。
華はまだ「行こうよ」と言い続けていた。
詩織は少し前を向いたまま歩いた。
夕方の商店街が見えてきた。どこかの店の匂いがした。揚げ物だ。
今日は、悪くない一日だった。
遼の展示を見て、詩織の実験に付き合ってもらって、音楽を聞いて、名刺をもらった遼に一言だけ言えた。
夕方の商店街に揚げ物の匂いが漂っている。どこかの惣菜屋だ。
悪くない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回の遼の自律走行システム・詩織の心理学実験・UNDER FANGのフォーク描写はすべて受け売りです。いちおう「雰囲気で書いた」にならないよう気をつけましたが、専門家の方から見ると簡略化している部分もあると思います。その点はご容赦ください。




