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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
柊遼と桜井詩織

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柊遼 Episode 9「新しい部屋の初日」

 大学の実験室は、予想以上によかった。

 設備が揃っている。工作機械がある。オシロスコープが並んでいる。ハンダの匂いがする。初日に実験室の扉を開けた瞬間、ここは理想郷だと感じた。

 課題が難しかった。でも難しい方がいい。壊れているものの方が触りたくなるように、解けない問題の方が考えたくなる。最初の課題を提出した日、田中教授が「こういう解き方は初めて見た」と言った。褒めているのか注意しているのか分からなかった。「問題ありますか」と聞いたら「ない。続けなさい」と言われた。それで十分だ。

 家ではマンションの自分の部屋に工具を並べた。机の上の配置を決めるのに三日かかった。(りん)に「こだわりすぎ」と言われたが、作業しやすい配置にするのは当然のことだ。配置が悪ければ作業が遅くなる。作業が遅くなる理由を自分で作る必要はない。

 詩織も同じ大学だった。

 「同じ大学」という事実を、遼は特に感慨なく受け取った。そういうこともある。ただ、たまにキャンパスで会う時、「あ、いる」と思った。その「あ、いる」は自然に出る。作業中に必要な部品が見つかった時の「あ、あった」に似た、少し落ち着く感覚だ。

 落ち着く理由を考えなかった。考える必要がなかった。


 入学して一ヶ月が経った頃、詩織が「一人暮らし始めた」と言った。

 「どこ」と聞いた。「大学の近く」と詩織は言う。「遠いの」「そんなに」「そっか」。

 遼は特に何も思わなかった。詩織が一人暮らしをするなら、そういうことだ。止める理由はない。心配する理由も特にない。

 でもその夜、なんとなく「詩織の部屋はどんな感じだろう」と思った。本棚が大きいだろう、と思った。詩織は本が多い。旧居の隣にいた頃から、詩織の部屋には本棚があった。引っ越しても本棚だけは大きいだろう。

 なぜそんなことを考えたのか、分からなかった。分からないまま、作業に戻る。

 でも翌朝、キャンパスで詩織を見かけた時、「慣れたか」と聞いた。「何が」と詩織が言う。「一人暮らし」「まあ」「飯は食えてるか」「食えてる」「そっか」

 聞いていた。なぜ聞いたのか、後から考えても分からなかった。


 詩織(しおり)のアパートに荷物を届けに行ったのは、初夏だ。

 詩織がキャンパスで重い荷物を持っていた。「持つ」と言った。「いい」と詩織は言う。「重いだろ」「大丈夫」「貸せ」。結局持った。アパートまで一緒に歩く。

 部屋は狭かったが、本棚が大きかった。本がたくさんある。「本、増えたな」と言った。「増えた」と詩織は言う。

 窓の外を見た。なんとなく。

 マンションが見えた。

 「あれ、俺たちのマンション?」

 詩織が少し間を置いてから「そうだよ」と言った。

 「近いじゃん」

 「まあ、ね」

 遼は特に深く考えなかった。窓から離れて、部屋を見渡した。本棚の隣に小さな机がある。窓際に椅子がある。詩織の部屋だ、と思った。本の多い、詩織の部屋だ。

 「狭くないか」と聞いた。「慣れた」と詩織は答える。「本棚、もう一個入る?」「入らない」「入れたければ言え」「なんで」「本が増えたとき困るだろ」。詩織が少し笑った。「必要になったら言う」と言った。

 帰り道、なんとなく後ろを振り返った。詩織のアパートのある方角を見る。なぜ振り返ったのか、分からない。

 マンションに戻ると、凛が台所にいた。「どこ行ってたの」「詩織のとこ。荷物届けた」「え、詩織ちゃんの部屋入ったの?」「重そうだったから持った」「いや、そういう問題じゃなくて」「何が問題なんだ」。凛がしばらく遼を見た。「遼は本当に」と言いかけて、笑った。「まあ、詩織ちゃんだしね」「詩織だから何なんだ」「なんでもない」。

 なんでもない、か。

 そのまま部屋に入った。鍵を閉めた。机の前に座る。今夜の作業を始めた。でも凛の「なんでもない」という言葉が、しばらく頭の隅に残った。何がなんでもないのか、やはり分からなかった。


 大学の四年間、詩織と会う頻度は変わらなかった。

 帰り道が同じになることもある。学食でたまに顔を合わせる。LINEのやり取りが時々ある。特別なことは何もない。でも、それが当たり前だった。

 詩織は遼の話を聞く時、黙って聞いていることが多い。技術の話をしても、全部は分からないだろうに、「うん」「そうか」と返してくる。その「うん」の速さが、聞いていない「うん」ではない。聞いた上で、追いついた上で、「うん」と言っている。

 他の人間に技術の話をすると、大抵「難しそう」か「すごいね」で終わる。詩織は「それ、こういうこと?」と確認してきた。だいたい合っていた。

 「詩織は理解が早い」と思った。

 文学部のくせに、と思いかけて、なぜ「くせに」なのかよく分からなかった。文学部でも理解が早い人は早い。そういうことだろう。でも「そういうことだろう」では説明しきれない何かが、詩織にはある気がした。何なのか、名前がつかない。つけないまま、先に進んだ。


 大学三年の終わり、大きなプログラムを書いていた時期があった。

 センサーのデータを処理するシステムだ。設計は頭の中にある。でも実装が予想より複雑で、二週間ほど毎晩作業を続けた。食事と睡眠だけ確保して、それ以外は画面と向き合った。

 そういう時期に、詩織が「最近どう?」と聞いてきた。

 「プログラム書いてる」「どんな?」と詩織は聞く。説明した。詩織は「全部は分からないけど、難しそうなの書いてるんだね」と言った。「まあ」「いつ終わりそう?」「分からない」「分からないのに書き続けてるの?」「終わるまで書けば終わる」。

 詩織が笑った気がした。

 笑いの意味を考えなかった。でも悪い気はしなかった。

 その夜、プログラムを書き続けながら、「終わるまで書けば終わる」という言葉を詩織に言ったことを思い出した。詩織はあの時笑った。なんで笑ったのかは分からない。馬鹿にしている笑いではなかった。もっと違う笑いだった。

 どういう笑いか。

 考えながら、画面に向かった。プログラムのエラーが一つ消えた。また一つ消えた。夜が深くなる。でも手が止まらない。詩織の笑いの意味が、まだ頭の隅にある。エラーを直しながら、その隅に何かがある状態が続く。邪魔ではない。むしろ、何かがあると作業がはかどる気さえした。

 なぜはかどるのか、分からない。

 二時間後、システムの主要な部分が動いた。テストデータを流す。正常に処理される。遼はしばらくそのデータを見た。動いている。設計通りに動いている。

 うれしかった。

 こういう時の感情には名前がある。達成感、というやつだろう。でも達成感だけではない何かも混じっている。「詩織に言いたい」という感覚が、うれしさと一緒に来た。なぜそう思ったのか分からないが、確かに来た。

 スマホを見た。深夜二時だ。送れる時間ではない。スマホを置いた。でも「言いたい」という感覚はしばらく残った。残ったまま、翌朝になった。翌朝、キャンパスで詩織に会った時、「プログラム動いた」と言った。詩織が「やっぱり終わったんだ」と言う。「終わるまで書いたから」「遼らしい」と詩織は笑った。

 その笑い方が、あの夜の笑い方と同じだった。同じ笑いだ、と気づいた。でもその笑いが何なのかは、やっぱり分からなかった。


 四年間で、「詩織がいる」ということが遼の日常に根を張った。

 根を張った自覚は遼にはない。空気を吸っていることを意識しないように、詩織がいることを意識しない。キャンパスで見かけると「あ、いる」と思う。LINEが来ると「来た」と思う。それだけだ。

 でも、ある夜——実験が長引いて深夜に帰った夜——廊下で凛と会った。凛が「最近どう?」と聞いてきた。「普通」と答えた。「詩織ちゃんとは会ってる?」と凛は聞く。「たまに」「仲いいね」「普通だろ」「普通って言う割によく会ってるじゃない」。

 凛が笑いながら自分の部屋に入った。

 遼は廊下に少し立ったままでいた。

 「普通」ではないのか。

 でも普通ではないとしたら、何なのか。分からなかった。分からないまま、自分の部屋に入った。机の前に座った。今日やり残した計算がある。

 でもしばらく、手が動かなかった。

 普通ではないとしたら——という問いが、まだそこにある。手が動き始めたのは、十分ほど後のことだ。問いは消えていなかった。計算をしながら、その問いが頭の隅に残った。

 残ったまま、夜が明けた。

 翌日、キャンパスで詩織に会った。「昨日眠れた?」と詩織が聞いた。「眠れた。計算が終わったから」「そっか」「詩織は」「普通に眠れた」「そっか」。

 それだけの会話だ。でも詩織が「昨日眠れた?」と聞いてきた。聞かれる理由が分からなかった。「計算してそうだと思ったから」と詩織は言う。「なんで分かるんだ」「なんとなく」。

 なんとなく、か。

 詩織が「なんとなく」で遼のことを分かっている。その事実が、少し不思議だった。不思議、というより、落ち着く感じだった。なぜ落ち着くのかは、また分からない。でも落ち着いた。


 詩織のアパートの窓からマンションが見える、ということを遼はその後も特に気にしなかった。

 詩織が「いい」と言ったから。詩織がいいなら、遼には関係ない話だ。でも時々、マンションの自分の部屋の窓から外を見る時、「詩織の部屋はどの方向だろう」と思った。方角は分かる。でも具体的にどの建物のどの窓かは分からない。分からないまま、外を見る。それだけだ。

 作業中に思い出したわけでもない。理由があって考えたわけでもない。ただ、窓から外を見ると、なんとなくそういうことを思う。

 なぜ思うのか——という問いに、遼はまだ辿り着いていない。

 でも確かに、思う。毎晩ではないが、時々、思う。

 その「時々」が少しずつ増えていたことには、気づいていなかった。

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