桜井詩織 Episode 8「応援する、と言った」
三月の朝は、光が薄い。
桜が咲き始めていた。でも空気はまだ冷たくて、コートのボタンを一番上まで留めて家を出た。
卒業式の朝。
一人で出た。
別に珍しいことじゃない。高校の卒業式も一人で行った。大学の入学式も一人だった。節目のたびに私は一人で、それが当たり前になっていた。
父を呼ぶ理由はない——と言い切れるかというと、本当はそうじゃない。
大学四年間の学費は、父が出してくれた。毎月、口座に振り込まれてくる。一度も滞ったことはない。それだけは確かだ。家を出ていった父が、お金だけはちゃんと送ってくる。その事実が、私にはずっと処理できなかった。
呼ぶべきだったかもしれない。四年間、学費を出してもらった。その区切りの日に、呼ばないのはおかしい。そう思った時期もあった。入学式の前夜、少し考えた。でも電話できなかった。
卒業式の案内状を手にしたとき、また考えた。
送るべきか。連絡するべきか。
三日考えた。三日考えて、やめた。
なぜか。
学費を出してもらっていることと、あの人を「父親として呼ぶ」ことは、別の話だと思っていた。お金のやり取りは続いている。でもそれはもう、親子というより、義務の履行に近い。あの人も、そう思っているかもしれない。思っていないかもしれない。どちらか分からないから、確認するのが怖かった。
確認して、「行く」と言われたとき、どうするか想像できなかった。
だから連絡しなかった。
後ろめたさはある。今もある。四年分の学費の重さが、今日の朝の空気の中にある。
母を呼べなかった。
呼ぼうと思えば、呼べた。でも呼ばなかった。
なぜか。
考えながら歩いた。春の朝の空気が鼻の奥を通り抜けていく。
母を呼んでも、あの薄い幕は越えてこない。母は私の隣に立つかもしれない。でも幕の向こう側にいる人間と並んで、写真を撮る気には——
その先を、やめた。
来てもらっても、何も解決しない。解決したいとも思っていないし、解決できるとも思っていない。実家は閉じた場所だ。扉はあるけれど、鍵がかかっている。鍵をかけたのが誰なのか、私にはもう分からない。
駅に向かいながら、一度だけ考えた。
誰かに来てほしかったか。
答えが来る前に、電車が来た。
式典の会場は人でいっぱいだった。
知らない家族が、知らない卒業生の隣に座っている。どこを見ても、二人以上でいる。それが普通だ。それが普通で、私が普通じゃない。
自分の席を探して、座った。
工学部の列を、何となく探した。
いた。
遼が、いた。
少し離れた席に、いつもと同じ姿勢で座っている。背筋が自然に伸びていて、前を向いている。周りがざわざわしていても、どこか静かな空気を持っている人だ。いつもそうだ。中学のころからそうだった。
目が合った。
手を振った。
振り返してもらった。
それだけだった。
それだけのことで、今日という日が少し変わった。
誰かに来てほしかったか——さっきの問いに、今頃答えが来た。
来てほしかった人間は、もうここにいた。
その答えを、すぐに押し込んだ。深く、静かに、跡形もなく。
式が終わって、中庭に向かった。
遼も同じ方向に歩いていた。自然に並んだ。十六年間、何度も並んで歩いてきた。商店街の帰り道、自転車置き場からの道、雨の日の軒下。その全部の延長線上に、今日がある。
「遼、おめでとう」
「詩織も」
二人で笑った。いつも通りの感じで笑えた。笑いながら、胸の奥で全然違うことが起きていた。
「これから家族と写真?」
聞きながら、遼の後ろを見た。中庭の端に、凛ちゃんと華ちゃんがいた。二人とも私服で、遼を待っている。三人が並ぶところが目に浮かんだ。遼を挟んで、左右に姉と妹。
「うん。詩織は?」
「私も。友達と撮る」
「そっか」
友達と、と言った。本当のことだ。嘘はついていない。でも全部でもない。
また連絡する、と言って別れた。
中庭を歩きながら、「また」という言葉が頭の中に残った。
また。
また連絡する、というのは次があるということだ。次も会う、ということだ。次も遼は東京にいて、詩織も東京にいて、また連絡する。
その「また」が、今日の空気と同じくらい冷たく透き通って、胸の中に刺さっていた。
友人たちと写真を撮った。笑った。楽しかった。
しばらくすると、みんな家族のところへ散っていった。
お父さん、お母さん、妹、彼氏。それぞれのところへ。それが普通だ。それが普通だから、普通じゃない私が残った。
スマホを取り出した。
遼のトーク画面を開いた。
少し考えた。何を送るか。おめでとうはもう言った。お疲れは違う。ただ送りたかっただけとは書けない。
「みんなでどこかで撮ろうか」
送った。
送ってから、少し止まった。
「みんなで」。
その「みんな」に、私が入っている。柊家の三人に、私が混ざっている。混ざれると思った自分がいた。混ざりたいと思った自分がいた。
「うん」
すぐに返ってきた。
たった二文字。
それで今日がまた変わった。
数日後、大学近くのカフェ。
向かい合って座った。遼はコーヒーを頼んで、私はカフェラテを頼んだ。大学に入ってからずっとそうだ。このカフェで何度向かい合って座ったか、数えたことはないが、何十回かになる。何十回かの全部を、私はたぶん覚えている。
「TechVisionの件、どうするの?」
聞いた。何でもないように聞いた。
「……CEOと会うことになった」
「え、CEO?」
「うん。来月、日本に来るって」
少し驚いた。驚いてみせた。本当は数日前から知っていた。遼が迷っていることも、オファーが本格化していることも、田中さんから断片的に聞いていた。知っていたのに、知らない顔をした。
「それって、すごいことじゃない?」
「まあ」
曖昧に答える遼を見た。コーヒーカップを両手で包んで、窓の外を見ている。遼が窓の外を見るとき、何かを考えている。その癖を、私は知っている。小学生の頃から知っている。
「……遼、本当はどうしたいの?」
「どうって?」
「その会社に入りたいの?それとも、他のことがしたいの?」
遼は少し考えた。
「……分からない」
分からない、と言った。
遼が分からない、と言うのは珍しい。大体のことを「別に」で済ませる人間が、今日は分からないと言っている。
遼が、迷っている。
その事実が、どこか嬉しかった。
嬉しい——なんで嬉しいのか、と一瞬だけ思った。思った瞬間に分かった。迷っているということは、まだ決まっていない。まだここにいる。まだ動いていない。
その安堵を、笑顔の下に隠した。
「会社に入ったら、自由にできなくなる。でも、会社に入らないと、できないこともある」
遼は少し困った顔をした。
「だから、分からない」
その顔を見た。
この人が迷っている顔を、私は何回か見てきた。中学の頃、進路のことで少しだけ迷っていた。高校の頃、凛ちゃんのことで何かを考えていた。でも今日の顔は、それより深いところから来ている。
「遼」
「何」
「私、どうなっても応援するよ」
遼が顔を上げた。
「遼がどこに行っても、何を選んでも」
真っすぐ言った。真っすぐ遼を見た。
「私は、応援する」
遼は少し止まった。
それから、小さく言った。
「……ありがとう」
「うん」
笑った。
笑いながら、胸の中で声が鳴っていた。
行かないでほしい。
どこにも行かないでほしい。
カフェラテを飲んだ。温かかった。飲みながら、声を飲み込んだ。
帰り道、一人だった。
応援する、と言った。
本当のことだ。遼が何を選んでも、応援する。それは嘘じゃない。でも——
応援する、という言葉の中に、全部押し込んだ。
行かないでほしい。変わらないでほしい。遠くへ行かないでほしい。誰にも見つけられないでほしい。詩織の知らない場所で、詩織の知らない誰かに、詩織の知らない顔を見せないでほしい。
全部押し込んで、「応援する」の四文字に換えた。
換えるのは得意だ。小学生の頃から練習してきた。感情を出しても何も変わらないと分かってから、ずっと練習してきた。
今日の私は上手くできた。真っすぐ言えた。遼は「ありがとう」と言った。
上手くできた。
上手くできたことが、帰り道、少し苦しかった。
夜、部屋に帰った。
コートを脱いで、鞄を下ろして、窓を開けた。
夜風が入ってきた。三月の終わりの夜風。桜の匂いがする気がした。気がした、だけかもしれない。
窓の外に、マンションが見える。
遼のいるマンション。何階の、どの窓かも、もう分かっている。四年間、毎晩見てきたから。灯りがついていれば、そこにいる。消えていれば、眠っている。それだけのことを、また確認している。
今夜も見た。
遼の部屋の窓を見た。灯りがついていた。
いる。そこにいる。
ベッドに座った。スマホを持った。遼のトーク画面を開いた。「うん」という返信。たった二文字。今日この二文字をもう何回読んだか分からない。
数えたら怖い気がして、数えなかった。
今日一日を、頭から順番に思い出した。
朝、一人で家を出た。誰も来なかった。誰にも来てほしいと言わなかった。
式典で目が合って、手を振ってもらった。
「詩織も」と言ってもらった。
「また連絡する」と言ってもらった。
「みんなで」と送ったら「うん」と返ってきた。
「ありがとう」と言ってもらった。
ぜんぶ遼からもらったものだ。今日という日に意味を与えたのは、ぜんぶ遼だった。
一人で式場に向かった朝のことを思い出す。誰かに来てほしかったか——今なら答えられる。
来てほしかった。遼に来てほしかった。
でも言えない。言えるはずがない。私たちは幼なじみで、ただの幼なじみで、遼には凛ちゃんと華ちゃんがいて、私には友達がいる。それぞれの場所に、それぞれの人がいる。
それが正解だ。それで正しい。
正しい、と分かっている。
分かっていて、それでも。
遼に来てほしかった、という事実は変わらない。変えられない。小学一年生から積み重なってきたものは、変えられない。
窓を見た。
遼の部屋の窓に、灯りがついている。
CEOと来月会う。それが終わったら、何かが決まるかもしれない。遠くへ行くかもしれない。シリコンバレーとか、どこか遠いところへ。詩織の知らない場所で、詩織の知らない人たちに囲まれて、詩織には想像もできない仕事をする。
そうなったとき、詩織は何になるのか。
ただの、元幼なじみ。
小学生の頃から同じ道を歩いた、元幼なじみ。
それだけ。
それだけに、なる。
その未来を想像した瞬間、胸の奥で何かが締まった。締まって、痛かった。痛い、というのも少し違う。もっと静かで、もっと暗い。暗い場所から何かが這い上がってくるような感触だった。
応援する、と言った。
本当のことだ。
でも——応援したくない。
行ってほしくない。
動いてほしくない。
変わってほしくない。
遠くへ行かないでほしい。
誰にも見つけられないでほしい。
詩織だけが知っていれば、それでいい。詩織だけが毎晩あの窓を見ていれば、それでいい。灯りがついていれば、そこにいる。消えていれば、眠っている。それだけ分かれば、それでいい。
それだけで——
十分だったはずだ。
十分じゃなかった。
十分じゃないから、今夜もこうして窓を見ている。遼がシリコンバレーへ行ったとして、窓の外に何が見える? あのマンションの灯りを見れなくなったとき、私は何を確認するのか。
右の窓がなくなった夜のことを思い出した。
引っ越しの夜。灯りのない右の窓を、空の一軒家を、何度も何度も見た夜。
あれよりひどくなる。
もし遼がいなくなったら、あれよりはるかにひどいことになる。
分かっている。
分かっていて、応援すると言った。
遼が迷っているとき、真っすぐ目を見て「応援する」と言った。笑って言えた。声が震えなかった。
それは私の勝利なのか、敗北なのか。
もう分からない。
スマホを置いた。
窓を閉めた。
布団に入った。
電気を消した。
暗い天井を見た。
遼は今頃、何をしているだろう。CEOのことを考えているかもしれない。機械をいじっているかもしれない。もう眠っているかもしれない。
私には分からない。
分からない——でも知りたい。
知りたい、というのも正確じゃないかもしれない。もっと根っこの方の話だ。知りたいというより、知っていたい。常に、今この瞬間も、遼が何をしているかを知っていたい。遼の呼吸の数を数えるくらい近くにいたい。
そういう欲望が、自分の中にある。
ずっとある。
小学五年生のラジカセの夜から、ずっとある。
名前はある。恋、と言う。高2の夏に名前がついた。でも名前がついてから変わったわけじゃない。名前がつく前から、もうあった。恋より古い何かが、恋の形をとって今もここにある。
手放せない。
手放す気がない。
手放したいとも思っていない。
もし遼がシリコンバレーへ行ったとして、私はおそらく引っ越す。行き先ではなく、遼が抜けた後のこの街に合わせて、何かを変える。あのマンションが見えなくなっても、遼の気配がどこかにある場所を探す。
それが正常じゃないことは、分かっている。
分かっていて、どうにもできない。
どうにかしたいとも思っていない。
この重さが、私の中にある限り——遼は詩織の中にいる。外の遼がどこへ行っても、詩織の中の遼は消えない。小学一年生の夜から積み重なってきたものは、もう詩織の一部だ。剥がせない。剥がしたら何かが壊れる。
壊れても、直せるから——遼は言っていた。
壊れても直せるのは機械だけだ。
人間は違う。詩織は違う。
詩織が壊れたら、遼は知らない。知るはずがない。
それでもいい。
知られなくていい。知られたくない。知られたら全部終わる。終わったら何も残らない。
だから言わない。
笑って、「応援する」と言う。
それだけでいい。
それだけしか、できない。
目を閉じた。
瞼の裏に、カフェでの遼の顔が残っていた。窓の外を見ながら、少し困った顔をしていた。分からない、と言っていた。
迷っている遼の顔が、好きだ。
好きだ——と思って、少し止まった。
好きだ、という言葉を、私はどれくらい封印してきたか。数えられない。数えるたびに重くなる。
好きだ。
ずっと好きだ。
右の窓に灯りがついていた頃から。夕焼けのチェーンの夜から。引っ越しの夜、膝を抱えた夜から。ずっと、ずっと好きだ。
言えない。
言うつもりもない。
言ったら何かが変わる。変わったら今が終わる。今が終わったら、今より遠くなる。今が終わらない限り、遼は詩織の中に住んでいる。
だから言わない。
遼がどこへ行っても、応援する。
遼が何を選んでも、笑って送り出す。
それだけが、今の詩織にできることだ。
できることしか、しない。
そのかわり——
この部屋の窓からあの窓を見続ける。遼がどこへ行っても続ける方法を、きっと見つける。
それが詩織だ。
それが、小学五年生のラジカセの夜から変わっていない、桜井詩織だ。
眠りが来た。
来る前に、一度だけ思った。
遼、どうか——
その先は、眠りに消えた。
消えても、胸の奥には残った。
朝になっても、きっと残っている。
明日も、明後日も。
ずっと。




