柊遼 Episode 8「空になった家」
高校三年生の一年は、凛がさらに忙しくなる。
凛の仕事の量が増える。帰りが遅くなる日も増える。代わりに、家の中の時間が変わった。夕飯を遼と華だけで食べる日が増えた。華は文句を言わなかった。遼も言わなかった。二人で食べる。
華が準レギュラーのドラマに出るようになったのも、この年だった。学校に通いながら現場に入る。疲れているのは分かった。でも華は疲れた顔をあまり見せなかった。遼には理由が分からなかった。疲れているなら疲れた顔をすればいいと思うが、華はそうしなかった。そういう人間なのかもしれない。
遼は受験勉強をする。
勉強が嫌いではない。特に好きでもない。工学部に入るための勉強だから、やる。数学と物理は問題がない。英語は技術書で慣れているから読むのは早いが、試験の記述形式が手間だった。国語だけ少し時間がかかった。でもこなす。
受験の間も、夜は少し手を動かす。工具を触る時間を完全になくすと、どこかがおかしくなる気がする。一時間だけ、基板を見る。それで落ち着く。凛に「ちゃんと寝てる?」と聞かれた。「寝てる」と答えた。「本当に?」「本当に」。それで終わる。
詩織は変わらず、帰り道が重なると並んで歩いた。
高校三年になってから、詩織とのやりとりが少し変わった気がした。気がした、というだけで、何が変わったのかは言えない。帰り道の時間が変わったわけではない。話す量が変わったわけでもない。ただ、詩織が時々、遼の方を見る。見ていることに気づいて、でも何も言わない。そういうことが増えた気がする。
気のせいかもしれない。気のせいでも気のせいでなくても、遼には関係ない。詩織が何かを考えているなら、詩織が言いたいときに言うだろう。言わないなら言わなくていいことだ。
ただ、詩織が黙っているとき、遼は少しだけ歩くのを遅くする。気づかないまま、遅くなる。
合格発表は三月の初めだ。
スマホで確認する。番号がある。驚きはない。受かる見込みで準備していたから、番号があって当然だと思っていた。でも実際に見ると、少し胸の中で何かが落ち着いた。壊れかけていた部品がうまく嵌まったときに似た感覚だ。
帰り道を歩いていたら、詩織と会う。
「受かった」と言った。
「どこ」「工学部。遠くない」「よかった」「別に」。
よかった、というのが何に対するよかったなのか、遼には少し分からなかった。受かったことが「よかった」のか、遠くないことが「よかった」のか。聞こうとして、やめた。聞いても答えは変わらないだろう。
引っ越しが決まる。その少し後のことだ。
父から連絡が来る。「大学に合わせてみんなで引っ越す。マンションを探している」という話だった。遼は「どこ」と聞いた。場所を聞く。大学まで近いかどうかを確認する。問題ない。「分かった」と答えた。
幸江に話したら、「寂しくなるねえ」と言った。「引っ越すだけです」と遼は答えた。「そうだけどさ」と幸江は言う。「店には来ます」「遠くなるじゃない」「歩いて来られる距離です」。幸江がため息をついた。「遼くんはそういうところが」と言いかけて、笑った。「まあ、いいか」。
詩織には、ある帰り道に話した。「引っ越すことになった」と言った。「そか」「遠くなるの?」「大学の近く。今より少し遠い」「そっか」。
詩織は何も聞かない。遼も何も言わない。
でもその帰り道、いつもより少し歩くのが遅い。遼は気づかない。
引っ越しの前日、幸江の店に寄った。
「最後の挨拶に来た」と遼は言った。「最後じゃないよ、また来るでしょ」と幸江は言う。「来ます」「来ない人がよく言う台詞だよ」「来ます」「来るといいね」。
幸江がコロッケを三つ袋に入れた。「余分に入れた。持ってきな」と言う。「お金払います」「いいから」「払います」「頑固ねえ」。
払って、受け取った。
「遼くんが来なくなるのは寂しいけど」と幸江は言った。「でもよかった。ちゃんと大きくなって」。
遼には「ちゃんと大きくなった」の意味がよく分からなかった。でも幸江の顔を見たら、何か言葉を返した方がいい気がした。
「田中さんがいたから、この三年、夕飯があった」と遼は言った。
幸江がしばらく黙った。それから「そういう子だよ、遼くんは」と言った。声が少し違った。遼はその意味もよく分からなかった。でも、幸江が笑っていた。それで十分だ。
引っ越しの準備に、三週間かかる。
段ボールが一番多かったのは、部品箱だ。長年使ってきたもので、古い型番の部品は今では手に入らない。捨てられない。全部持っていく。
凛が「遼、荷物多くない?」と言う。「部品は全部要る」と答えた。「どれだけあるの」「数えてない」「そういうとこ」と凛は言った。何がそういうとこなのか、今回も分からない。
華が「遼の部屋のにおい、懐かしくなる」と言う。
「においなんかあるか」
「ある。ハンダのにおい。嫌いじゃなかった」
遼は何も言わなかった。でも翌日、換気扇を少し丁寧に掃除した。なぜそうしたのか、自分でも説明できない。ただ、そうしたかっただけだ。
机を動かし、棚を解体し、工具箱を梱包した。
何年もここにあったものを動かすと、床に跡が残る。机の四本足の跡。工具箱の底の跡。棚の端が壁に当たっていた薄い傷。遼はそれを少しだけ見た。物の形が、床や壁に残っている。物がなくなっても、あった事実だけが残る。
跡を見てから、段ボールを閉じた。
廊下から凛の声が聞こえた。華が返している。
感傷的になっているつもりはない。移れば移った先が家になる。でも物の跡を見ていたら、少し時間がかかった。なぜ時間がかかったのか、説明できない。
引っ越し当日は三月の終わりだった。
朝から業者が来る。手際がいい。遼が梱包した段ボールを次々と運び出していく。凛の部屋のものが先に消えた。華の部屋のものが消えた。台所のものが消えた。遼の部屋は最後だ。
部屋が空になっていく。
机があった場所に何もない。工具箱を置いていた棚が壁に残っているだけだ。コンセントの位置だけが変わらない。何年もこの配置で作業してきた。配置を覚えているから、何もなくなった今も、どこに何があったかが分かる。
広くなった。広くなって、かえって小さく見える。
不思議だ、と思う。物があった方が広く見えるのか。物が場所を作っていたのかもしれない。場所の方が物を決めているのではなく、物の方が場所を決める。
業者が最後の段ボールを持って出ていった。廊下に足音が響く。空の部屋に、足音だけが残る。
十八歳まで、ここにいた。
机の前に座って、工具を触って、コイルを巻いて、基板を見て、窓の外を時々見た。その全部が、この部屋でのことだ。小学三年から高校を卒業するまで、ここが自分の場所だ。
別に惜しいわけではない。移れば移った先が場所になる。でも「十八歳まで、ここにいた」という事実は変わらない。事実として残る。物の跡が床に残るように、時間の跡は何かに残る。どこに残るのか、遼には分からないが。
最後に一度、窓から外を見る。
商店街の方向。幸江の店。その先に続く道。
見慣れた景色だ。この窓から何年も見てきた。朝も夜も、暑い日も寒い日も、同じ角度でここから見てきた景色だ。
斜め向かいの家は、窓からは角度があって、うまく見えない。
遼は少し右に視線をずらす。
見えない。
なんとなく見ようとした自分に気づく。
詩織の家を確認しようとしていた。なぜそうしようとしたのかは分からない。旧居の窓から詩織の家が「見えた」という記憶が体にあって、最後にそれを確認しようとしたのかもしれない。でも見えない。角度が合わない。
それ以上は考えない。部屋を出る。
階段を降りながら、台所を一度だけ見た。母の鼻歌があった台所。凛が焦がした味噌汁の匂いがした台所。華が宿題を広げていた台所。今は何もない。
玄関を出る。鍵を閉める。
振り返らない。振り返る理由がない。でも少しだけ、足が遅くなる。
マンションの新しい部屋は、旧居より少し広い。
でも慣れていないから、動きにくい。コンセントの位置が違う。窓の向きが違う。廊下の長さが違う。全部が少しずつ違っていて、体が以前の配置を覚えているから、空振りが起きる。電気のスイッチに手を伸ばしたら、そこにない。そういうことが何度かある。
まあ、慣れる。慣れるまで少し時間がかかるだけだ。
最初に開けた段ボールは部品箱だった。机の上に置いた。電源タップをどこに引くかを考えた。実験に使う機材をどこに配置するかを考えた。配置を決めるのに、三十分かかる。
窓を開けた。
夜風が入った。旧居からは商店街が見えた。ここからは夜景が広がっている。別の景色だ。悪くはない。ただ、慣れていない。
しばらく窓の外を見る。
方角を確認しながら、なんとなく「詩織の家は見えるかな」と思う。
思ってから、少し止まる。
なぜそれを確認しようとしているのか、分からなかった。旧居からは詩織の家が見えていた。見えていたのを、見ていたわけではない。でも見ようとすれば見えた。それが今はできない。その事実を、なんとなく確認しようとしていた感じだ。
理由が分からないから、考えるのをやめる。段ボールの方に戻る。
次の段ボールを開けると、ハンダゴテが出てきた。梱包材を外して、机の脇に立てた。これで今夜は少し作業できる。コイルの続きがある。
手を動かし始めた。
動かしながら、華の「ハンダのにおい、嫌いじゃなかった」という言葉を思い出した。この部屋にも、そのうちそのにおいが染みるだろう。染みたら、この部屋が遼の部屋になる。それまでの話だ。
窓の外に夜景がある。詩織の家がどの方角かは、まだ分からない。
分からないまま、手を動かし続けた。




