第6話「天才の苦悩」
火曜日の朝。
柊家のリビングで、華が台本を読んでいた。
今日は映画の撮影日。
主演映画の重要なシーンが控えている。
「華、朝ごはん食べた?」
凛が声をかける。
「うん、食べた」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
華は台本から目を離さない。
集中している様子だ。
凛は少し心配そうに華を見た。
「華、無理しないでね」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
華は笑顔で答える。
だが、その笑顔は少し硬かった。
遼がリビングに入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
華が顔を上げる。
「遼、今日何時に帰る?」
「分からん」
「そっか」
華は再び台本に目を落とす。
遼はそれを見て、少し首を傾げた。
「……大丈夫か?」
「え?」
「なんか、いつもと違う」
「そう? 普通だよ」
「そうか」
遼は特に追及せず、朝食を食べ始めた。
華は小さくため息をついた。
午前10時。
映画の撮影現場。
都内の公園で、ロケ撮影が行われていた。
華は主演として、重要なシーンを撮影する。
今日のシーンは、主人公が亡き母への想いを語る場面。
感情の深さが求められる、難しいシーンだ。
「柊さん、準備いいですか?」
監督が声をかける。
「はい、大丈夫です」
華は答える。
だが、内心は緊張していた。
「このシーン、大事なんです。主人公の核心部分ですから」
「分かっています」
「柊さんなら大丈夫でしょう。いつも通り、お願いします」
「はい」
華は撮影位置につく。
スタッフが最終確認をする。
「それでは、本番いきます!」
ADの声。
「よーい……スタート!」
カメラが回る。
華は深呼吸をした。
そして──
表情が変わる。
主人公の感情が、華の顔に浮かぶ。
悲しみ、懐かしさ、後悔。
全てが混ざった複雑な表情。
「お母さん……」
華の台詞。
声が震える。
涙が溢れる。
自然な涙だった。
「私、頑張ってるよ……見ててくれてるかな……」
華の演技は完璧だった。
感情が溢れている。
計算ではない、純粋な表現。
「カット! OK!」
監督の声。
スタジオに拍手が起きる。
「柊さん! 素晴らしい! 完璧です!」
「ありがとうございます」
華は笑顔で頭を下げた。
だが──
その笑顔の裏で、華は違和感を感じていた。
「……本当に、これでいいの?」
昼休み。
華は控室で一人、弁当を食べていた。
だが、箸が進まない。
さっきのシーンを思い出している。
「完璧……か」
華は小さく呟いた。
監督は絶賛していた。
スタッフも拍手していた。
でも──
「私、納得できない……」
華は自分の演技を分析する。
涙のタイミング。
声の震え。
表情の変化。
全て、自然に出た。
でも、何かが足りない気がする。
「もっと……もっと深く、感情を出せたはずなのに……」
華は弁当を置いた。
食欲がなくなっていた。
午後の撮影。
次のシーンは、主人公が友人と会話する場面。
華は再び完璧な演技を見せた。
「カット! OK! 柊さん、今日も絶好調ですね!」
監督が絶賛する。
華は笑顔で頭を下げる。
だが、内心は複雑だった。
「……また、これでいいって言われた」
華は自分に満足できない。
完璧だと言われても、納得できない。
もっと、上手くできたはずだ。
もっと、深く表現できたはずだ。
「私……このままでいいの?」
華は小さく呟いた。
撮影が終わり、午後6時。
華は車で帰宅していた。
マネージャーが運転している。
「柊さん、今日もお疲れ様でした」
「ありがとうございます」
「監督も絶賛してましたね。完璧だって」
「……そうですね」
華の返事は素っ気ない。
マネージャーがそれに気づいた。
「何か、気になることありました?」
「え?」
「いえ、なんとなく元気ないかなって」
「……大丈夫です」
華は笑顔を作った。
だが、マネージャーには見抜かれている。
「柊さん、完璧主義ですもんね」
「え?」
「監督がOK出しても、自分で納得できないと満足しないタイプでしょ?」
「……そうかもしれません」
華は窓の外を見た。
夕暮れの街。
人々が歩いている。
「でも、それが柊さんの強さですよ」
「強さ……ですか?」
「はい。だから、天才って呼ばれるんです」
「天才……」
華は小さく呟いた。
天才。
よく言われる言葉。
でも、華にはその実感がない。
「私、天才じゃないですよ」
「え?」
「ただ……満足できないだけです」
華は小さく笑った。
マネージャーは何も言わなかった。
午後7時、柊家のリビング。
凛がソファでテレビを見ていた。
ニュース番組だ。
遼は自室にいる。
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
華だ。
「おかえり!」
凛が駆け寄ってくる。
「華、お疲れ様!」
「ただいま」
華は笑顔で答える。
だが、疲れた表情だ。
「大丈夫? すごく疲れてるみたいだけど」
「ううん、大丈夫」
「嘘。顔に出てるよ」
「……そうかな」
華は苦笑した。
リビングに入ると、遼が自室から出てきた。
「おかえり」
「ただいま」
「撮影、どうだった?」
「うん……順調だよ」
「そうか」
遼は淡々と答える。
だが、華の様子が気になった。
「華」
「何?」
「顔色悪いぞ」
「え?」
「ちゃんと食べてるか?」
「うん、食べてる」
「嘘だろ」
遼は華の顔をじっと見た。
華は少し驚いた。
遼が、こんなに自分を気にかけるのは珍しい。
「……お昼、あんまり食べられなかった」
「なんで?」
「なんとなく……」
「体調悪いのか?」
「ううん、そうじゃなくて……」
華は言葉を切った。
遼は少し考えた。
「何か作るか?」
「え?」
「腹減ってるんだろ」
「……うん」
「じゃあ、雑炊でも作る」
「ありがとう」
華は嬉しそうに笑った。
遼はキッチンに向かう。
凛が華の隣に座った。
「華、本当に大丈夫?」
「……お姉ちゃん」
「何?」
「私……自分の演技に、満足できないんだ」
「え?」
「監督は完璧だって言ってくれる。スタッフも拍手してくれる」
「うん」
「でも、私は納得できない」
華は膝を抱えた。
「もっと、上手くできたはずなのに……」
「華……」
「お姉ちゃんは、そういうことない?」
凛は少し驚いた。
そして、苦笑した。
「……あるよ」
「え?」
「私も、いつも思ってる。このままでいいのかって」
「お姉ちゃんも?」
「うん」
凛は華の頭を撫でた。
「でも、それは悪いことじゃないよ」
「そうかな……」
「うん。だって、それがあるから成長できるんだもん」
「成長……」
「華は、天才だって言われてる。でも、華自身はそう思ってない」
「うん」
「それが、華の強さだよ」
凛は優しく笑った。
華は少し救われた気がした。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
その夜、遼の部屋。
遼は卓論を書いていた。
だが、ふと手を止めた。
華の様子を思い出す。
疲れた表情。
どこか悩んでいる感じ。
「……完璧主義なんだろうな」
遼は小さく呟いた。
華の性格は、昔から知っている。
何事にも全力で、妥協しない。
それが華の強さだ。
でも、時々、それが苦しみにもなる。
「まあ、俺には関係ないか」
遼はそう言いながらも、少し気になっていた。
そして、スマホを取り出す。
華にLINEを送ろうとした。
だが、何を書けばいいか分からない。
「……余計なお世話か」
遼はスマホをしまった。
その時──
部屋のドアがノックされた。
「遼?」
華の声だ。
「開いてる」
ドアが開き、華が入ってきた。
パジャマ姿だ。
「どうした?」
「ちょっと、話してもいい?」
「ああ」
遼は椅子を勧める。
華は座った。
数秒の沈黙。
そして、華が口を開いた。
「遼は……自分の技術に、満足してる?」
「は?」
「いや、その……遼っていつも機械いじってるでしょ?」
「まあな」
「それで、完璧にできた時、満足する?」
遼は少し考えた。
「満足はしない」
「え?」
「直ったら、次はもっと良くできないか考える」
「そうなんだ……」
「なんで?」
「私も、そうなんだ」
華は膝を抱えた。
「監督が完璧だって言ってくれても、私は納得できない」
「ふーん」
「もっと、上手くできたはずなのにって思う」
「そうか」
遼は淡々と答える。
華は少し不満そうだった。
「もうちょっと、何か言ってよ」
「何を?」
「励ましとか……」
「別に、それでいいんじゃないか?」
「え?」
「満足できないってことは、まだ伸びしろがあるってことだろ」
「伸びしろ……」
「ああ。俺も、機械直して満足したら、そこで終わりだ」
遼は淡々と続ける。
「でも、満足しないから、もっと良くしようと思う」
「そっか……」
「華も、同じだろ」
「うん」
華は少し救われた気がした。
遼の言葉は、いつも短い。
でも、的確だ。
「ありがとう、遼」
「別に」
遼は再びパソコンに向かう。
華は立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「おう」
華は部屋を出ていく。
遼は小さく笑った。
「……相変わらずだな」
翌朝、柊家のリビング。
華は朝食を食べていた。
表情が、昨日より明るい。
「華、元気そうだね」
凛が言った。
「うん! 今日も頑張る!」
「そうだね」
凛は笑顔で答える。
遼がリビングに入ってきた。
「おはよう」
「遼、ありがとう」
「何が?」
「昨日の話」
「……ああ」
遼は特に気にした様子もなく、朝食を食べ始める。
華は嬉しそうに笑った。
凛がそれを見て、微笑んだ。
その頃、都内の大学。
遼の研究室の前に、スーツを着た数人の男たちが立っていた。
世界的企業の幹部たちだ。
「ここが、柊遼の研究室か」
「はい」
「入るぞ」
CTOがドアをノックした。
だが、返事はない。
「いないのか?」
「まだ来ていないようです」
「なら、待つ」
男たちは廊下で待ち始めた。
世界的企業が、一人の学生のために待つ。
異例の事態だった。
だが、遼は知らない。
自分が、どれだけ求められているかを。




