証言 「柊華・向こう側にいた人」
柊華が「役にすぐに入って、すぐに抜ける」という話は、業界の中では有名だった。
カットがかかる。一秒。それで終わり。どれだけ重い役でも、どれだけ暗い場面でも、「カット!」の声と同時に華はあの笑顔で戻ってくる。天真爛漫な、くりくりした目の、二十歳の女優に。
それが当たり前だと、みんなが思っていた。
三日目の昼休憩まで。
これは、その日のことを覚えている人間たちの話。
うまく語れない、と彼らは言う。何があったかは説明できる。ただ、何が怖かったかだけは——どうしても言葉にならない、と。
撮影三日目の昼休憩のことを、現場のスタッフは長い間、話題にする。
正確には——話題にしたいのに、うまく話せない。
何があったかは説明できる。でも何が怖かったかは言葉にならない。そういう種類の記憶として、あの日はみんなの中に残った。
その現場で柊華が演じているのは、連続殺人犯。
製作発表の記者会見で、キャスティングが発表されたとき、ネットには「えっあの子が?」という声が溢れた。当然だった。茶髪のショートカット、くりくりした目、天真爛漫な笑顔——どこをどう見ても、そういう役とは結びつかない。
本人は会見の場で特に何も言わなかった。キャスティングの経緯を聞かれて「やります、と言いました」とだけ答えた。
翌日、華はマネージャーに「一回だけ遼に話聞いてもらう」と言った。それきり、準備については口を閉じた。
華が台本を受け取ったとき、まず向かうのは凛か遼のどちらかだった。
凛には「この人はどういう顔をしていると思う?」と聞く。
遼には「この人はなぜこういう行動をするんだと思う?」と聞く。
遼は台本を読んで演技の話をするわけではない。ただ「この人物の行動の理由」を、感情ではなく論理で、淡々と返してくれる。その言葉が、華にとって役の「芯」になった。
今回は、遼だけでよかった。この役には、感情がいらなかった。
撮影一日目。
第一カットから、現場の空気が変わった。
カメラが回ると同時に、柊華がどこかへ消えた。
テーブルに向かって静かに座る女がいた。瞬きの間隔が、おかしい。長すぎるわけではない。むしろ普通の間隔に見える。
なのに、目が——動いていない。
正確には動いているのだが、何かを「見て」いない。視線が定まっているのに、焦点がどこにもない。「目が笑ってない」と誰かが言いかけて、止まった。違う。
笑っていないのではない。笑う、という概念がそこにない——そういう目。
「カット!」
監督の声で、現場が動き出す。
役者が立ち上がる。スタッフが動く。
華は椅子から立って、隣の照明スタッフに「あっち暑くないですか、大丈夫ですか」と話しかけた。
くりくりした目が笑っている。さっきまでとは別の人間だった。
照明の大野は後で「そのギャップで逆に怖かった」と言う。
二日目、三日目と撮影が進む中で、現場にひとつの安心が生まれていた。
カットがかかれば、柊華は戻ってくる。
どれだけ重いシーンでも、どれだけ暗い場面でも、「カット!」の声と同時に華はあの笑顔で戻ってくる。「お腹空いたー」とか「次のシーン何時からですか」とか、そういうことを普通に言う。
それが、現場の全員の無意識の前提になっていた。
三日目の朝、クライマックス近くの尋問シーンに入る。
警察に追い詰められた殺人犯が、刑事の目の前で初めて「笑う」場面。
台本の上ではそれだけの描写。笑う。
ただそれだけ。
なのに、台本を最初に読んだとき監督は長い時間ペンを止めた。「ここを誰に任せるか」と考えて、結局最初に浮かんだ顔が華だったと、後日のインタビューで話すことになる。
本番。
モニター越しに、スタッフ全員が息を止めた。
笑っていた。
明るく、楽しそうに。二十歳の女が、刑事の顔を見ながら心の底から笑っている。
目が細くなって、口角が上がって、頬に力が入っている。
作った笑顔ではない。本当に嬉しいから笑っている——その「嬉しい」の中身が、見ている側には一切分からないのに。セリフの内容と、その笑顔の温度が、致命的にズレている。
ズレているのに、笑い方だけがリアルで、だからこそ背筋が冷えた。
「カット!」
監督の声が、わずかに上擦った。
「完璧です。昼にしましょう」
弁当が配られた。
役者とスタッフが食堂スペースに散らばる中、柊華はパイプ椅子に一人で座っていた。衣装のまま。ヘアセットが、少し崩れていた。
撮影中に乱れたのか、セット前からそうだったのか、どちらか分からない。
ただ、毛先が数本、頬にかかったまま、整えられていない。いつもの華なら気にする。鏡を見て直す。なのに、そのままでいる。
弁当箱は膝の上に乗っている。蓋は、開いていない。
「柊さん、お疲れさまでした!」
新人の制作進行、村田が明るく声をかけた。
入社半年、二十二歳。元気のいい子だと周囲から言われている。
華が、顔を上げた。正確には——首だけが、ゆっくり回った。
肩は動かなかった。体も動かなかった。首だけが、ゆっくりと、村田の方へ向いた。それだけの動作なのに、村田は一歩、後ろに下がった。本人は気づいていない。体が勝手に動いた。
目が合った。笑っていた。
口角が、少し上がっている。柔らかい笑顔。感じのいい笑顔。なのに——目が、笑っていなかった。目の形は笑顔の形をしているのに、その奥に何もない。温度がない。村田を「見ている」のに、村田を認識していない——そういう目。人間を見る目ではなく、空間の一部を確認する目。
「……あ、お、お疲れさまです」
村田はもう一度言って、早足でその場を離れた。
心臓が、うるさかった。
三谷が少し離れた場所から見ていた。五十近いベテランの助監督。この業界で二十年以上、様々な現場を見てきた人間。
「……抜けてない」
隣の照明、大野に囁く。
大野は無言で華の方を三秒見た。それだけで充分だった。二人とも、何も言わなかった。
弁当の蓋が、まだ開いていない。
柊華が昼休憩に弁当を食べないことは、ありえない。この三日間、毎日完食していた。撮影中にお腹が鳴ったと助監督に向かって普通に報告してくるような人間が、今、弁当に触れてすらいない。
食欲がないわけではない。そういう顔ではない。
今ここに座っているものが、弁当を必要としていないだけだった。
給湯室で、村田が大野に話しかけた。声が、少し震えていた。
「あの……柊さん、なんか変じゃないですか」
「変?」
「首の動き方が変で。笑ってるのに怖くて。なんか……怖かったです」
大野は湯呑みを持ったまま、少し考えた。
「あの子はね」と大野が言う。「普段はカットかかった瞬間に戻ってくる。昨日も一昨日も、スイッチ切るみたいに切り替わってた。それがこの業界で一番難しいことなんだけど」
「……今日は」
「今日は、まだ向こうにいる」
村田はもう一度、食堂スペースの方を見た。
パイプ椅子に座った華の横顔が、遠くから見える。頬にかかった毛先は、まだそのまま。弁当箱を膝に乗せたまま、動いていない。ただ、座っている。
誰かが華の近くを通るたびに、その人間の足が少し速くなる。たいていの人間は気づいていない。自分の歩調が変わったことに。ただ何となく、華の前を通るとき、体が急いでいる。理由は分からない。華は何もしていない。ただ椅子に座って、前を向いているだけ。
なのに。
「怖いですよね」と村田が言う。
大野は少し間を置いてから、「うん」と答えた。五十二歳のベテランが、それだけ言った。
カメラマンの西島が弁当を持ったまま食堂スペースに戻ってきたのは、それから数分後のこと。
空いている椅子を探して、何気なく華の隣に腰を下ろした。長いつきあいのベテランスタッフ。現場で一番、役者との距離が近い。
華が演じている役の動機を、西島はよく知っていた。
幸せそうな家族を持つ人間が、許せなかった。夫がいて、子供がいて、笑って食卓を囲んでいる人間が。自分にはないものを当たり前のように持っている人間が。だから殺した。特定の誰かを狙ったわけではない。家族のいる人間なら、誰でもよかった。
その役が、今、隣に座っている。
「お疲れさまです、柊さん。午前中すごかったですね。あのシーン、モニター越しに鳥肌立ちましたよ。笑顔が——」
「西島さんって」
声が聞こえて、西島は箸を止めた。
「家族、いますか」
静かな声だった。抑揚が、ほとんどない。
西島は反射的に華の方を見た。こちらを見ていた。まっすぐに。頬に毛先がかかったまま、整えられていないまま、まっすぐこちらを見ていた。
笑っていた。
さっきと同じ笑顔。口角が上がって、頬に力が入って——目だけが、笑っていない。目の形だけが笑顔の形をしていて、その中に何もない。好奇心でも、敵意でも、親しみでもない。ただ、聞いている。答えを待っている。それだけ。
「……妻と、子供が一人」
「そうですか」
華は前を向いた。それきり何も言わない。
西島には、分かった。
何を聞かれたのかが、分かった。なぜ聞かれたのかも、分かった。だから——答えた瞬間に、背中が冷えた。
この役は、家族のいる人間を殺す。西島は今、家族がいると答えた。隣に座っている何かに向かって、自分から、答えた。
「なんであのとき答えたんですか」と後日、三谷に聞かれる。
「分からない」と西島は言う。「聞かれたから。なんか、答えないといけない感じがして。逆らえない感じ」
三谷は頷いた。そういう目だった。
西島はその後、弁当を半分残した。食欲がなくなったわけではない。ただ、早くその椅子を離れたかった。
助監督の三谷が、意を決して華に近づいたのは休憩も半ばを過ぎた頃。
業務的な理由をひとつ用意して、近くまで歩いた。「午後の段取りを確認しておきたくて」という口実。実際には——ただ、確かめたかっただけだった。まだそこにいるのかどうか。
「柊さん、午後の最初のシーンなんですが」
華の首が、ゆっくりと回った。
また、あの動き方。肩から動くのではなく、首だけが、滑らかに、こちらへ向く。人間の動き方ではないとは言えない。でも、何か——違う。関節の動き方が、どこかで計算されているような、そういう滑らかさ。
目が合った。
笑っていた。
「はい」と華が言う。
「十三時半から、Bセットに移動します」
「分かりました」
また、前を向く。それだけだった。
三谷は手帳に何かを書くふりをしながら、その場から離れた。
五メートル歩いてから、息を吐いた。
何もされていない。何も言われていない。「はい」「分かりました」、ただそれだけ。なのに——心拍数が、上がっていた。
監督が隣に座ったのは、休憩も終わりに差し掛かった頃だった。
何も言わずに並んで、しばらく同じ方向を向いていた。現場の監督歴が長い人間だった。役者の状態を見慣れている。見慣れているはずなのに——この三十分で、二度、給湯室に行った。用があったわけではない。
「……食べなくていいの」
間があった。
「食べようとしてるんですけど」
声の温度が、ない。怒っているわけでも、疲れているわけでもない。ただ、平坦。
「なんか。開けるのが、面倒で」
監督は頷いて、何も聞かなかった。自分の弁当箱の蓋を開けて、箸を取った。
隣で、しばらく経ってから、かちり、と小さな音がした。
弁当の蓋が開く音。
それだけで、三谷は密かに息を吐いた。
大野も、村田も、気づかないふりをしながら同じことをした。現場全体が、ほんの少しだけ、呼吸を再開した。
箸が動き始める。華が食べている。普通に、黙って、食べている。その普通の動作が、なぜかひどく安心させた。
村田は自分が安堵していることに気づいて、それがまた怖かった。弁当を食べているだけで安心するとは、さっきまでどれだけ異様だったのかと——改めて分かった。
着替えを終えた華が食堂スペースに戻ってきたのは、午後の撮影の十分前。
「三谷さーん! 午後って何時からでしたっけ」
くりくりした目が、こちらを向いている。声が高い。髪が整っている。頬にかかっていた毛先が、きれいに直っている。
いつもの柊華だった。
「十三時半です」
「よかったー! お腹空いたー、さっき全然食べた気しなくて」
言いながら、差し入れのお菓子の方へ向かっていく。
村田の隣を通りがかって「村田ちゃんもいる! さっきはありがとうね、お疲れさまって言ってくれて」とにこっと笑った。
村田は「あ、は、はい」と答えた。
さっきとは別の笑顔だった。目が、笑っている。ちゃんと笑っている。
華は何も気づいていない。
さっきのことを覚えているのかどうかも分からない。
ただにこにこして、お菓子を手に取って、「三谷さんも食べますか!」とこちらに向けた。
「ありがとうございます、いただきます」
受け取りながら、三谷は思う。
あの目のことを、まだ覚えている。
ゆっくりと首だけが回ってこちらを向いた、あの動き。
笑顔の形をしているのに何もなかった、あの目。
西島が青い顔で「答えてよかったのか分からない」と言った、あの質問。
弁当の蓋が三十分、開かなかった、あの静けさ。
柊華が演じた人間は、今はどこにもいない。
午後の撮影が始まれば、また戻ってくる。
それが分かっていても——三谷には、少しだけ、躊躇いがあった。
あの日だけだったのか、と聞かれれば——違う、と三谷は答える。
翌日も、その翌日も、昼休憩になると華はあの目で戻ってきた。
ただし毎回、着替えを終えて食堂スペースに現れる頃には、ちゃんと華に戻っていた。
それだけは変わらなかった。
「カットがかかれば抜ける」という前提が「着替えれば抜ける」に変わっただけで、戻ってくること自体は、最後まで続いた。
だから現場は回った。撮影は続いた。
ただ、昼休憩だけが——毎日、少し長かった。
撮影が終わってから、西島はしばらく眠れなかった。
理由は分かっていた。あの問いのことを、考え続けていたから。「家族、いますか」。笑顔の形をした目で、抑揚のない声で、聞いてきたあの問い。
怖かったのは、聞かれたことではない。
答えたことだった。
妻と、子供が一人。自分から、はっきりと、答えた。この役が何をする人間か、知っていたのに。家族のいる人間なら誰でもよかった、という動機を、台本で読んでいたのに——答えた。止められなかった。
何年か経って、西島はようやく三谷にその話をした。声が、少し低かった。
「あの瞬間、俺は対象として認識されたと思う」
三谷は何も言わなかった。
「柊さんじゃない。あの役に。昼休憩の食堂で、弁当も食べずに座ってたあれに——家族がいる人間として、認識された」
認識された。それだけのことが、何年経っても消えない。
「でも」と西島は続ける。「その後、何もなかった。『そうですか』って言って、前を向いて、それだけで終わった」
「終わったから、怖いんじゃないですか」と三谷が言う。
西島は少し黙った。
「……そうかもしれない」
確認だったのだ、と三谷は思う。
撮影の外で、役が、周囲の人間を確認していた。
帰る場所のある人間かどうかを。対象になり得るかどうかを。そして西島は、自分から手を挙げた。
何もされなかった。
ただ、覚えられた——そういう感覚が、西島の中からなくならない。
三谷はその話を聞いて、しばらく黙っていた。
それから一言だけ言った。
「柊華は、ちゃんと抜けてきたよな」
西島は頷いた。
「うん」
「毎回」
「毎回」
あの現場にいた人間は全員、同じことを知っている。
着替えを終えた華が戻ってきたとき——あれは、ちゃんと戻ってきたのだということを。そしてそれは、それまでは向こうにいたということを、意味するのだということも。
クランクアップの打ち上げで、華はよく食べてよく笑っていた。隣に座った村田に「村田ちゃん、撮影中ずっと緊張してたでしょ、顔に出てたよ」とにこにこ言った。
村田は「そうですか」と答えながら、思った。
あなたのせいです、とは言えなかった。
クランクアップから少し経った頃、黒瀬との会話の中で、華はこう言った。
「今回の役さ、抜けるのちょっと遅かったんだよね」
「遅いって、どのくらい」
「お昼ご飯食べるのが毎回遅くなっちゃって」
黒瀬はしばらく華の顔を見た。
「……それだけ?」
「それだけ」
あの三十分のことを、華は覚えていない。村田が一歩退いたことも、西島に家族のことを聞いたことも、三谷の心拍数が上がったことも——何も、知らない。
ただ、「抜けるのが少し遅かった」とだけ、思っている。
向こうに何があったかは、誰にも分からない。
華本人にも、たぶん分からない。
ただ、あの昼休憩だけ、食堂スペースのパイプ椅子に、柊華ではない何かが座っていた。
頬に毛先をかけたまま、弁当の蓋を開けないまま、ゆっくりと首を回しながら。
笑顔の形をした目で、人間を見ていた。
帰る場所があるかどうかを、確かめながら。




