桜井詩織 Episode 7「閉じた家、開いた距離」
高校三年生の一年間は、静かに過ぎた。
凛ちゃんの仕事がさらに増えて、華ちゃんは準レギュラーのドラマを抱えて、柊家の窓の動き方が変わる。左の窓が消えている夜が増えた。下の小さな窓も、以前より遅い時間に消えるように。
右の窓だけが、変わらない。
遼は変わらない。
毎晩、同じ時間に点いて、同じくらいの時間に消える。詩織はそれを確認した。確認することが当たり前になって、当たり前になっていることに気づかないまま、高校三年の一年間が終わった。
三月の初め、帰り道で遼が言った。
「受かった」
「どこ」
「工学部。遠くない」
「よかった」
「別に」
よかった、と言いながら、胸の中で別のことを考えていた。
大学に入ったら、一人暮らしをするのかもしれない。柊家から通うのかもしれない。
柊家から通ってほしい、と思った。
思った瞬間、その考えを心の奥に押し込んだ。押し込む手つきが、だんだん迷わなくなっていた。
柊家がマンションに引っ越すと聞いたのは、それから少し後だ。
遼から聞いた。帰り道で、いつもと同じ調子で言った。「引っ越すことになった」。それだけだった。
「どこに」
「駅の近く。凛の仕事が増えてきたから、場所変えた方がいいって話になって」
「そっか」
「三月末」
「そっか」
二度同じ言葉を返した。遼は気にした様子もなく前を向いている。詩織はそれ以上何も聞けなかった。
商店街を歩いた。
足が少し重かった。
重い理由を、考えなかった。
引っ越しの前日、遼が来た。
インターホンが鳴って、出たら遼だった。
「明日引っ越すから」
それだけだった。挨拶に来た、ということらしい。
「うん、知ってる」
「段ボール余ったから」
手に、潰した段ボールを数枚持っている。
「いらないけど」
「そっか」
遼は段ボールを玄関に立てかけて、「じゃあ」と言った。
「うん」
詩織は笑って答えた。笑えた。声も震えなかった。
遼が帰っていく後ろ姿を、ドアの隙間から少し見ていた。
いつもと同じ歩き方。同じ背中。何も変わっていない。
ドアを閉めた。
段ボールを見た。
いらない、と言ったのに受け取っていた。
しばらくそれを見てから、押し入れの奥にしまった。捨てる気にはなれなかった。
引っ越しの日は三月の終わり。
詩織は自分の部屋にいた。
外に出られなかった。出たら見てしまう。見てしまったら、何かが変わる気がした。だから部屋の中で、カーテンを少しだけ開けて、斜め向かいの柊家を見ていた。
朝から業者が来る。段ボールが運び出される。大きな家具が出てくる。台所の窓に人影が動いて、消えた。台所の灯りが消えた。
昼を過ぎて、一階の窓が順番に暗くなる。
夕方、二階の左の窓が消えた。凛ちゃんの部屋。
しばらくして、下の小さな窓が消えた。華ちゃんの部屋。
最後に——右の窓が消えた。
遼の部屋。
カーテンの隙間から、それを見ていた。
消えた。
それだけだった。それだけのはずだった。でも胸の中で何かが、ぎゅっと縮んだ。縮んで、それからゆっくり広がった。広がった先に何があったのか、名前がつけられない。
名前をつけたくなかったのかもしれない。
翌朝、窓を見た。
引っ越し後の、空の柊家。
右の窓はそこにある。窓の形は変わっていない。でも灯りがない。灯りが入る気配もない。ただ窓枠だけがそこにある。
しばらく、それを見ていた。
灯りのない右の窓を、見ていた。
見ていることに意味があるのか分からない。でも目が離せない。七年以上、この窓を見てきた。灯りがついているかどうかを確認してきた。それが習慣になって、習慣が体に刻まれて、灯りがなくなっても窓を見る。
空の窓を、見ている。
その事実に、少し止まった。
止まって、それから前を向いた。
その夜が、一番苦しかった。
電気を消して、布団に入る。いつもの時間に、いつもの姿勢で横になった。
目を開けた。
右の窓の方向を見た。
カーテン越しに、向かいの家の壁が見えるだけだ。灯りはない。右の四角い光がない。瞼の裏に焼き付いているはずのあの形が、今夜は外から補充されない。
眠れない。
本を取った。開いた。文字が目に入らない。同じ行を三回読んで、何も入らないまま閉じる。
スマホを取った。遼のトーク画面を開いた。最後のやり取りは三週間前。他愛のない、短い会話。それだけだった。
何か送ろうとした。
送れなかった。
今何してる——違う。元気?——違う。新しい部屋どう——違う。おやすみ——一番違う。
言いたいことは別にある。でも言葉にならない。言葉にしたら何かが終わる気がして、スマホを伏せた。
天井を見上げる。
遼が今夜どこにいるか、詩織は知っている。新しいマンションの一室だ。でも窓がどこを向いているか分からない。灯りがついているか分からない。今夜何をしているか分からない。
わからない
その五文字が、思ったより重かった。
七年以上、分かっていた。右の窓を見れば分かった。灯りがついていれば、そこにいる。消えていれば、眠っている。それだけで詩織は眠れた。落ち着けた。朝を迎えられた。
今夜、分からない。
分からないまま、横になっている。
胸の中がひりついていた。痛い、とは少し違う。何かが欠けている感じ。毎晩そこにあったものが今夜だけない——でも「だけ」じゃない。
明日もない。明後日もない。これからずっと、右の窓はあの場所にない。
布団の中で膝を抱えた。
子供みたいだ、と思う。幼なじみが引っ越しただけで膝を抱えている。でも体が勝手にそうなった。体の方が正直だった。
遼は今頃何をしているだろう。新しい部屋で機械をいじっているかもしれない。段ボールを開けているかもしれない。もう眠っているかもしれない。
遼はどこにいても遼だ。引っ越しても変わらない。明日も機械をいじって、「別に」と言って、淡々としている。詩織がどれだけ苦しくても、遼には届いていない。届けていない。届けるつもりもない。
それでいい。そういうものだ。
そう思っていた。でも今夜は、そう思えない。
あの家にいてほしかった。右の窓にいてほしかった。詩織が毎晩確認できる場所にいてほしかった。確認して、落ち着いて、それで十分だったから。それだけでよかったから。
本当に、それだけでよかったのか。
よかった、と思っていた。よかった、と思おうとしていた。でも今夜、右の窓がなくなって初めて分かる。よくなかった。全然よくなかった。足りなかった。足りないまま足りていると言い聞かせて、七年以上続けてきた。
続けてきたものが、今夜、剥がれた。
剥がれた下にあったものが、むき出しで目の前にある。
触りたくない。見たくない。でも目が離せない。
遼がいる、ということが詩織にとって何なのか。毎晩確認する、ということが何なのか。この七年間ずっと続けてきたことが、何なのか。
恋だと思っていた。
でもこれは恋より前から、もっと深いところにあるものだ。恋は相手を想うものだが、詩織がしてきたのはもっと自分勝手なことだ。
遼を、詩織の中に閉じ込めてきた。
閉じ込めて、詩織だけが確認できる場所に置いてきた。遼は知らない。遼の意志でも何でもない。ただ詩織が勝手に、七年かけて、深く、深く——
胸の奥で何かが音を立てた。
音というより、亀裂だった。
目を閉じた。
瞼の裏に、右の窓の形を思い浮かべる。灯りがついている右の窓。遼がそこにいる夜の窓。毎晩見てきた、あの四角い光。
思い浮かべると、少し落ち着いた。
本物がなくなっても、思い浮かべれば落ち着く。
それが今夜、初めて怖かった。外の遼が消えても、詩織の中の遼は消えない。詩織の中に棲んでいる。勝手に、いつの間にか、もう出ていかれない深さで棲んでいる。
出ていかないでほしい。
どこにも行かないでほしい。誰にも見つけられないでほしい。詩織の知らない場所で詩織の知らない誰かに詩織の知らない顔を見せないでほしい。
詩織だけが知っていれば、それでいい。
詩織だけが、ずっと、見ていれば——
その声の深さを、この夜だけ、正面から聞いた。
聞いて、何も言えなかった。反論できなかった。否定もできなかった。
それが自分の声だから。
否定したら、七年間を否定することになるから。
膝を抱えたまま、目を閉じていた。
右の窓の光を、瞼の裏で灯し続けていた。
大学に入って、部屋を探した。
不動産屋で三件内見した。一件目は駅から遠かった。二件目は日当たりが悪かった。三件目に入った瞬間、「ここにする」と思った。
なぜかは分からない。条件が特別いいわけでもない。でも決めた。
契約して、引っ越した。
引っ越した夜、窓を開けた。
夜景の中に、一棟のマンションが見える。
見覚えのある形。
しばらく見てから、カーテンを閉めた。
閉めてから、気づいた。
あのマンションを知っている。あの棟の、遼がいる。
気づいてから、何も思わなかった。思わないようにした。
思わないようにした——その能動性に、詩織は気づかなかった。
ただカーテンを閉めて、布団を敷いて、横になった。
でも翌朝、カーテンを開けた。
マンションが見える。どの部屋かはまだ分からない。
場所が変わった。
でも私は、また窓から見ている。
その「また」という言葉が、頭の中を通り過ぎた。
また。
また、窓から見ている。
少しだけ止まった。
止まって、それから何事もなかったように朝の支度を始める。
止まった理由を、考えなかった。
考えないまま、朝の支度を始める。
ずっと、そうしてきた。




