桜井詩織 Episode 6「夕焼けのチェーン」
詩織のEpisode 6です。
このシリーズももう折り返しを過ぎました。終わりに向かっています。
本編では描ききれなかった二人の心の中を、どうしても書いておきたくてこのシリーズを作りました。読んでいただけているなら、うれしいです。
第二部は3月14日からの予定ですので、よければそちらもおつきあいください。
七月の放課後は、空気が重い。
校庭に出ると、グラウンドの砂が熱を持っていて、体育館の方から部活の声が聞こえてくる。詩織は自転車置き場に向かった。今日は図書館に寄るつもりだった。新しく入った文庫本を確認して、気に入ったものを借りて帰る。そういう予定だった。
自転車のペダルを踏んだ。
動かなかった。
チェーンが外れていた。
しゃがんでチェーンを見た。外れているのは分かる。でも直し方は分からない。指でチェーンを触ってみたが、どこにどうはめればいいのか見当もつかない。油で手が汚れただけだった。
立ち上がって、どうしようかと思った。
「何やってんの」
声がした。
振り返ると、遼くんが自転車を押しながら立っていた。
「チェーン外れた」
遼くんは自分の自転車をスタンドで立てて、詩織の自転車の前にしゃがんだ。
何も言わない。ただチェーンを見て、指で確認して、慣れた手つきで動かし始める。三十秒もかからなかった。チェーンがスプロケットに収まる音がした。
「終わり」
「早い」
「これくらい」
立ち上がって、手のひらを確認する。詩織よりずっとしっかりチェーンに触れていたはずなのに、ほとんど汚れていなかった。
「ありがとう」
「別に」
それだけ言って、遼くんは自分の自転車の方へ歩いていく。詩織はその背中を少し見た。
帰ろうとして、足が止まった。
「ねえ」
呼んでいた。気づいたら呼んでいた。
遼くんが振り返る。
「なんで機械ってそんなに好きなの」
我ながら唐突な質問だと思った。でも出てしまった。
遼くんは少し考えた。考えているときの顔は、いつもと少し違う。目が少しだけ遠くを見る。
「壊れても、直せるから」
それだけだった。
「それだけ?」
「それだけ」
「壊れなければ直さなくていいんじゃないの」
「壊れるから面白い」
詩織は少し考えた。
「壊れる方が面白いの」
「壊れたものを直すのが面白い。壊れなければ触る理由がない」
前を向いたまま、淡々と言う。自慢でも説明でもなく、ただそういうことだ、というように。
詩織はその言葉を、胸の中で転がした。
壊れても、直せるから。
壊れたものを直すのが面白い。
この人は、壊れたものから逃げない。諦めない。持ち帰って、時間をかけて、必ず戻してくる。小学五年生のラジカセのときから、ずっとそうだった。ずっと——
胸の奥で、何かが音を立てた。
音、というより、感触だった。何かが確定するような、静かで重い感触。
夕焼けが始まっていた。
西の空がオレンジに染まって、校舎の影が長く伸びている。遼くんの横顔が夕暮れの光の中にあった。汗をかいている。シャツの首元が少し濡れている。前髪が額に貼りついていた。
詩織はその横顔を見た。
見ていた。
見続けていた。
見続けていることに、気づいた。
胸の奥に確定したものに、この瞬間、名前がついた。
恋だ。
と思った。
恋だ——でも、それは今始まったのではない。今名前がついただけだ。小学五年生の夜から、ずっとあったものに、この夕暮れに初めて名前がついた。それだけのことだ。
それだけのことなのに、胸が少し痛かった。
痛い、というのも正確ではないかもしれない。熱い。熱くて、少し重い。
「帰らないの」
遼くんが言った。詩織がじっと自分を見ていることに、気づいているのかいないのか。
「帰る」
詩織は自転車を押して歩き出した。
並んで歩いた。商店街に向かう道。夕焼けの中。
しばらく無言で歩いていた。
詩織は前を向いていた。でも視界の端に遼くんがいる。自転車のハンドルを持って、少し前傾みにして歩いている。いつもの歩き方だ。何も変わっていない。さっき「壊れても、直せるから」と言った人間と同じ歩き方で、同じペースで歩いている。
「遼」
呼んでいた。
呼んでから、少し止まった。
遼くん、ではなかった。遼、と呼んでいた。
「なに」
遼は気にした様子もなく返した。詩織が「くん」をつけなかったことを、指摘しない。気づいていないのかもしれない。あるいは気にしていないのか。
「なんでもない」
「そか」
また無言になった。
詩織は自分が「遼」と呼んだことを、頭の中で確認した。いつから、そう呼んでいたのか。今日が初めてなのか、気づかないまま以前からそうだったのか。
分からなかった。
分からないまま、また前を向いた。
右隣に遼がいる。夕焼けの中を歩いている。
それだけのことが、今日はなぜか、少し違う重さを持っていた。
家に帰って、鞄を下ろした。
台所の窓から柊家の窓を確認した。遼の部屋の灯りはまだついていない。帰ってきてすぐに部屋の電気をつけるタイプではないから、少し遅れてつく。詩織はそれを知っていた。
知っていた——この「知っている」は何なのか、と思った。
遼がいつ部屋の電気をつけるか、知っている。遼がどのカフェをよく使うか、知っている。遼が実験室に残る曜日、知っている。遼がLINEを既読にしない時間帯、知っている。遼が田中さんのところでどのおかずを選ぶか、だいたい知っている。
別に調べたわけじゃない。ただ、見ていたら分かった。聞いていたら分かった。長く隣にいたから、自然に分かっていった。
それだけのことだ。
それだけのことだ——と、詩織は心の中で繰り返した。
繰り返す必要があったのかどうか、自分でも分からなかった。
夜、窓を見た。
右の窓に灯りがついた。いつもの時間より少し早かった。
詩織はそれを確認して、今日の夕暮れのことを思い出した。
壊れても、直せるから。
その言葉が、まだ胸の中にある。消えていない。今日の夕焼けの色も、遼の横顔も、自転車のチェーンの音も、まだそのままある。
恋だ、と思った瞬間のことも。
胸の奥の静かな場所に、それが収まっていた。収まった、というより、沈んだ。沈んで、底に落ち着いた。小学五年生の夜から積み重なってきたものの一番上に、今日の夕暮れが乗った。
積み重なっている。
その言葉が浮かんで、詩織は少し止まった。
いつから積み重なっているのか。
ラジカセを直してもらった夜から。理科室の七秒から。廊下の声を消した夜から。それより前から。柊家の窓に灯りを見つけた、もっと前から。
積み重なっている。
ずっと、積み重なっている。
その重さに、今日初めて気づいたような気がした。気づいたような——でも本当は気づいていなかったのかもしれない。気づいていなかったから、ここまで重くなった。気づいていたら、どこかで止めていたか。
止めていたか?
問いが来た。
止めていたか。止めようとしたか。止めたかったか。
答えが来なかった。
答えが来なかったのは、答えたくなかったからかもしれない。答えを知っているから、出さなかったのかもしれない。
右の窓を見た。
灯りがついている。遼がそこにいる。今日も、昨日も、変わらずそこにいる。
詩織はその灯りを見ながら、胸の中の声を聞いた。
ここにいてほしい。
ずっとここにいてほしい。
どこにも行かないでほしい。
誰にも見つけられないでほしい。
外に連れていかれないでほしい。
変わらないでほしい。
今日のまま、この灯りのまま、右の窓にいてほしい。
その声は、静かだった。叫んでいるわけでも、懇願しているわけでもない。ただ静かに、水が染み込むように、胸の底から湧いてくる。
詩織はその声を聞いていた。
聞きながら、何もしなかった。
おかしい、とは思わなかった。こわい、とも思わなかった。それが詩織の中に最初からあったものだから、今更驚く気持ちにならなかった。
右の窓がある。
遼がそこにいる。
それだけで十分だ。
十分——と思った瞬間、別の声が来た。
十分じゃない。
十分じゃないから、こんなに確認している。毎晩確認している。灯りがついているかどうか、消えていないかどうか、まだそこにいるかどうか。確認して、確認して、確認し続けている。
十分なら、確認しなくていいはずだ。
十分なら、この重さはなんだ。
その問いに、詩織は答えなかった。
答えなかったのか、答えられなかったのか。
もう、どちらか分からない。
ただ窓を見ていた。灯りが消えるまで。
消えてから、布団に入った。
今日遼と並んで歩いた道を、目を閉じながら思い出した。夕焼けの中、右隣に遼がいた。
右隣。
その位置を、詩織は正確に覚えていた。
右隣に、いた。
それを正確に覚えていることを、詩織はおかしいと思わなかった。
おかしいと思わない、ということ自体がすでに——
その先は、眠りが来て、消えた。




