柊遼 Episode 4「向こう側の静けさ」
柊家はうるさい。
遼は小学校に上がった頃から、そのことを知っていた。凛は声が大きく、華はよく笑い、よく泣いた。台所では母が歌を鼻歌まじりに歌い、父が帰ってくる夜は玄関に声が溢れた。夕飯の席では誰かが何かを言っていて、誰かが返している。何の話かよく分からないときでも、音が絶えない。
それが普通だと思っていた。
全部の家がそういうものだと思っていた。
斜め向かいの桜井の家が、なんとなく静かなのに気づいたのは、小学一年生の春が終わる頃だ。気づいた、というより目に入った。夜、自分の部屋で作業をしていると、斜め向かいの窓に灯りがついたり消えたりするのが見える。一つの灯り。二つの灯り。消える順番が、柊家とは違う。
意味はなかった。ただ目に入った。
詩織という子が斜め向かいに住んでいると知ったのは、小学校の廊下で「同じ学校だよ」と言われた時のことだ。
顔は知っていた。公園でよく見かけた。砂場のそばに座って本を読んでいる子だ。声は聞いたことがなかった。いつも静かでいた。
「知ってた?」と詩織が聞いた。「なんとなく」と遼は答えた。
それだけで終わった。詩織はまた本の方を向いた。遼は教室に戻った。
静かな子だ、と思った。なぜ静かなのかは、考えなかった。
小学校の低学年の頃、遼は放課後になると惣菜屋「たなか」に寄るか、家に帰って作業をするか、どちらかだ。
幸江の店に寄ると、幸江は「今日も来たか」と言う。「今日は何が気になった?」と聞いてくることもある。遼はその日に気になったことを話した。揚げ油の温度の変化。煮物の出汁がどの段階で染みるか。鍋の蓋の重さと蒸気の逃げ方。幸江はだいたい「そういう風に考えるのか」と言って笑った。答えを知っていることもあれば、「それは分からないな」と言うこともある。
遼にはそのやりとりが心地よかった。
分からないことを一緒に分からないと言える。知っていることを教えてもらえる。答えを知らなくても「面白い」と思ってくれる。それだけで十分だ。
ある夕方、幸江の店の前に詩織がいた。惣菜を買いに来たらしく、ビニール袋を手に持っている。遼と目が合った。詩織は少し会釈した。遼も会釈した。
それだけだったが、遼はそのときちらと詩織の顔を見た。
疲れているのか、そうでないのか、よく分からない顔をしていた。機嫌が悪いわけではない。でも何かを考えている。今ここにいるのに、どこか別のことを考えている顔だ。
遼には意味が分からなかった。でも目に残った。
小学校の中学年になると、詩織とは教室が別になった。
廊下でたまに顔を合わせる。本を持っていることが多い。休み時間も本を読んでいることがある。
「本、面白いの?」
ある日、廊下で聞いた。詩織は少し驚いた顔をして、「面白い」と答えた。「どんな話?」と聞いたら「悲しい話」と言う。「悲しい話が好きなの?」と聞いたら、「集中できるから」と答えた。
遼はその答えを聞いて、少し止まった。
集中できるから。
遼が機械をいじる理由と同じだ。集中していると、他のことが消える。別のことを考えなくていい。それが好きだから、手が向く。詩織は本でそれをやっている。
「なるほど」と遼は言った。
詩織がまた少し驚いた顔をした。なぜ驚くのか、遼には分からなかった。当然の答えのように思えたが、詩織にとっては当然ではなかったらしい。
それ以上の会話はなかった。廊下を別々の方向に歩いた。
でもその「集中できるから」という言葉は、その後もしばらく頭に残った。言葉そのものではなく、「同じだ」という感覚が残った。
小学校の高学年になると、斜め向かいの家の様子が少し変わった。
以前は夜に二つあった灯りが、一つになっていることが増えた。台所の灯りが早く消えるようになった。それほど気にしていたわけではない。ただ、作業しながらふと窓の方を見ると、違う、と分かった。
詩織に「家のこと」を聞いたことはない。聞く理由がなかった。詩織から話してくることもなかった。
でも、惣菜屋の前で時々詩織を見かけるようになった。一人でビニール袋を持って、夕飯のおかずを買いに来ている。一人で来る回数が増えた。
ある日、詩織が店の前で幸江と話しているのを見た。幸江が「今日は何にする?」と言って、詩織が「コロッケ、二つ」と答えていた。二つ。家族が何人いるか、遼は正確に知らなかった。
幸江が遼に気づいて「遼くんも来たの?」と言った。遼はうなずいた。詩織が振り返ってまた会釈する。遼も会釈した。
並んで買い物をした。特に話さなかった。
帰り道、少しだけ同じ方向に歩いた。詩織がビニール袋を両手に持って歩いていた。遼は「持つ」と言おうとして、やめた。詩織が特に困った顔をしていなかったから。
詩織の家の前で「じゃあ」と言って別れた。詩織が「うん」と言った。それだけで終わった。
中学校が同じになった。
クラスは別で、部活も別だ。でも帰り道が同じで、校門を出たところで自然と並ぶことが多くなった。どちらが誘ったわけでもない。同じ方向に歩くから、並んだ。それだけのことだ。
詩織は黙って歩いていることが多かった。鞄に本を入れていて、時々取り出して少し読んでから戻す。遼は歩きながら今日の作業のことを考えていた。部屋に帰ったら何をするか。どの工具を使うか。どこから手をつけるか。
二人で黙って歩いていても、別に困らなかった。
誰かと一緒に歩くとき、何か喋らないといけない気がすることがある。でも詩織とはそれがない。「喋らなくていい」ではなく、「喋っても喋らなくてもどちらでもいい」という感じだ。その「どちらでもいい」が、遼には楽だ。
ある帰り道、詩織が鞄から文庫本を少し出した。遼はそれを見て「その本、何の話」と聞いた。詩織が「女の人が一人で旅をする話」と答えた。「面白いの」「面白い。でも少し寂しい話」。
しばらく歩いてから、遼は「機械をいじってるときと少し似てるかもしれない」と言った。「うまく説明できないけど、集中してると他のことが消える感じ」。
詩織が「それだと思う」と言った。
遼は「そか」と言って、また黙った。
その返事が少し早かった。考えてから言ったのではなく、もう分かっていたから言った速さだった。遼は気づかなかった。ただ、その帰り道は、なんとなく悪くなかった。
ある日、帰り道に幸江の店の前を通ったとき、「ちょっと待って」と呼び止められた。揚げたてのコロッケを二つ袋に入れて、「持っていき」と言う。「いつも来てくれてるから」と幸江は言った。遼が「いくら」と聞くと「今日はいい」と言った。
遼は「ありがとうございます」と言って受け取り、詩織に一つ渡した。詩織が「ありがとう」と遼に言った。遼は「幸江さんが」と言った。幸江が「素直じゃないね」と笑った。
歩きながら食べた。コロッケはまだ熱かった。詩織が「あつい」と言いながらかじっている。遼は熱さを確かめてから端からかじった。
「おいしい」と詩織が言った。
「いつもおいしい」と遼は答えた。
それだけだ。でもその帰り道は、少し歩くのが遅くなった。遼は気づかなかった。ただ、詩織が熱いコロッケと格闘しているのを横目で見ながら、なんとなく歩調を合わせていた。
柊家の夕飯はいつも賑やかだ。
凛が学校であったことを話す。華が途中で割り込む。由紀がそれを聞きながら「ちゃんと聞いてよ」と凛に言い、凛が「聞いてる」と言い返す。父が帰ってくる夜は、その音量がさらに上がる。
遼はそれを聞きながら、だいたい食べることに集中している。会話に参加しないのではなく、参加するタイミングが分からない。音が多すぎて、どこに入ればいいか判断する前に次の話に移っている。
でも、嫌だとは思わない。
凛の声が聞こえる。華の声が聞こえる。由紀の声が聞こえる。それがある、ということが、遼には当たり前の一部だ。なくなったら困るかどうかを考えたことはない。ただ、ある。ある間は気にしない。でも絶対に、なくなってほしくない。
そのことに、遼は気づいていない。気づかないまま、今日も夕飯を食べている。
母が海外に行くと決まったのは、遼が中学一年生の秋のことだ。
父からの電話で話が決まった。父は「俺は止めない」と言った。それだけだった。電話が終わって、母が台所で何かを片付けている音がした。凛が「大丈夫。私がいる」と言った。
遼は自分の部屋にいた。
その夜、何も考えなかった。考えようとしなかった。机の上の基板を見て、ハンダゴテを手に取った。手が動いていると、他のことが消える。詩織の「集中できるから」という言葉を、そのとき思い出した。そうだな、と思う。遼も同じだ。
夜が更けてから、ふと窓の外を見た。
斜め向かいの桜井の家。一階の窓に灯りがついていた。
一つだけ。
遼はしばらくその灯りを見ていた。
なんで見ているのか、自分でも分からなかった。ただ、灯りがある。向こうにも誰かが起きている。それだけのことが、その夜の遼には少し、落ち着くものがある。
「なんでこっちを見てるんだろ」とは思わなかった。向こうがこちらを見ているとも思わなかった。ただ灯りがあった。それでよかった。
手元に戻った。ハンダゴテの先が冷めていたので、また温めた。
翌日の学校で、詩織と帰り道が重なった。
いつものように、特に何も言わずに並んで歩いた。詩織は本を鞄に入れたまま出さなかった。遼も何も言わなかった。
何も言わなくていい日だった。ただ並んで歩いた。それだけで十分だった。
幸江はこの頃の遼のことを、後々よく話した。
「遼くんはね、人のことをちゃんと見てるのよ。でも見てるって言わないの。見てる、ってことを気づかせないまま、なんとなくそばにいる」
由紀がそれを聞いて「そうですね」と答えた。
「桜井さんとこの子とよく一緒に帰ってるじゃない。あの子、大変そうだなって思ってた。遼くんは気づいてたと思うよ。でも何も言わないでしょ」
「言わないですね」
「でもそばにいる。それでいいんだと思う。あの子には」
由紀はしばらく黙っていた。
遼にその話をしたことは一度もない。遼に言っても「そうかな」と言って作業に戻るだけだろうと思った。言わなくていいことは言わない。それが遼という子の性質で、同時にそれが遼の強さだと、由紀はいつ頃からか分かっていた。
柊家はうるさい。今もそうだ。
母がいなくなって、少し静かにはなった。でも凛がいる。華がいる。二人がいる間、柊家は完全には静かにならない。凛は相変わらず声が大きく、華は笑い声が廊下まで届く。
それが当たり前だと遼は思っている。
斜め向かいの家の静けさは、そのうるさい家の窓から、ずっと見えていた。意味はなかった。意味をつけようとしなかった。ただ、夜に窓の外を見ると、灯りがある。一つのときも、二つのときも、消えているときもある。
遼はそれを数えたりしなかった。でも、なんとなく知っていた。
詩織の家の灯りが一つになった頃から、詩織は惣菜屋に一人で来るようになった。詩織の帰り道が、遼の帰り道と重なった。詩織の沈黙は、遼の沈黙と似た種類をしている。
遼はそれを、気づいていて、言わなかった。
言う理由がなかった。でも近くにいた。それだけだ。
それだけのことが、この時期の遼にとっての「向こう側への応え方」だった。言葉を使わない。踏み込まない。でも、いる。その距離感を、遼は意識して選んだわけではない。ただ自然に、そうなっていた。
向こう側で灯りがついている。こちら側でも灯りがついている。それで十分だ。




