間幕「遼と田中教授の雑談③:観測者問題」
※この話を読まなくても本編は成立します。かといって読まないでくださいと言っているわけでもありません。
※物理の話が含まれますが、かなり作者の主観が入っています。専門家の方はそっと閉じてください。
七月の午前。
田中教授の研究室に、また一枚のメモがあった。
遼が実験室に向かう途中、廊下で声をかけられた。
「柊くん、少しいいか」
「はい」
「来月の公開授業なんだが」
「はい」
「また事前に質問を募ったんだが」
田中教授はメモを差し出した。
遼は受け取った。
走り書きで、一行。
「シュレーディンガーの猫の理論はわかるのだけど、スリットの観測者の話はどうしてもわかりません。わかりやすくお願いします。」
遼は少し止まった。
もう一度、読んだ。
「……教授」
「うん」
「これ、ほんとに小学生の質問ですか」
田中教授はコーヒーを飲んだ。
「事前に質問を募ったと言っただろう」
「シュレーディンガーの猫を知っている小学生が、スリットの観測者問題でつまずいている、という状況が」
「子どもは最近いろいろ知ってるぞ」
「……そうですか」
遼はもう一度メモを見た。
「どうしてもわかりません」という文字が、妙に丁寧だった。
「……教授室、借りていいですか」
「どうぞ」
椅子に座って、遼はしばらく黙っていた。
田中教授はコーヒーを二つ用意して、一つを遼の前に置いた。
受け取ったが、飲まない。
「まず整理すると」
遼は口を開いた。
「シュレーディンガーの猫は、量子力学の重ね合わせの状態を分かりやすくした思考実験です」
「うん」
「箱の中に猫がいる。放射性物質が崩壊すれば猫は死ぬ、崩壊しなければ生きている。でも箱を開けて観測するまで、猫は死んでいる状態と生きている状態が重なり合っている、という話です」
「うん」
「これはあくまで思考実験で、量子力学の観測問題を日常のスケールに引き伸ばしたものです。実際の猫がそうなっているわけではない」
「うん」
「で、スリットの観測者問題というのは、これの実験版です」
遼は少し間を置いた。
「二重スリット実験、という実験があります。壁に二つの細い隙間、スリットを開けて、そこに電子を一個ずつ発射する」
「うん」
「電子が粒だとすれば、スリットを通った電子はその後ろのスクリーンに、二本の線を描くはずです。二つの穴を通った粒が積み重なるので」
「うん」
「でも実際には、波のような縞模様が現れる。干渉縞と呼ばれます。波が二つの穴を同時に通り、互いに干渉した結果です」
「つまり電子は波だ、と」
「そうとも言える。でも問題はここからです」
遼は続けた。
「どちらのスリットを通ったか観測しようとすると、干渉縞が消えます」
田中教授は少し眉を動かした。
「観測すると、消える」
「はい。観測装置を置いてどちらを通ったか確認しようとした瞬間、電子は粒のように振る舞い始める。波の性質が消えて、スクリーンには二本の線が現れる」
「なぜだ」
「それが分かれば、観測者問題は解決しています。分かっていないから問題なんです」
遼はコーヒーを一口飲んだ。
「サイコロで考えると少し近いかもしれない。投げている間、サイコロの目は全部同時に存在している。テーブルに置いた瞬間に、一つの数字に決まる」
「うん」
「ただしサイコロは、本当は転がっている間も物理的にどこかの面が下を向いている。電子は違う。見るまで、本当に決まっていない。どこにいるかの確率だけが存在している」
「その違いが大事か」
「一番大事なところです。日常のものは見なくても決まっている。電子は見るまで本当に決まっていない。見た瞬間に、初めて一つの状態に決まる」
田中教授はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「柊くん、一つ聞いていいか」
「はい」
「複数の人が同時に見たら、どうなるんだ」
遼は少し止まった。
コーヒーカップを両手で持ったまま、黙った。
「……それが、観測者問題の中で一番難しいところです」
「どういうことだ」
「一人が見た瞬間に状態が決まるなら、二人が同時に見たとき、どちらの観測が状態を決めたのか。それとも、二人が同時に見た瞬間に、それぞれの世界で別々に状態が決まるのか」
「別々に、とはどういうことだ」
遼は少し間を置いた。
「多世界解釈、という考え方があります。観測が起きるたびに、世界が枝分かれする、という解釈です」
「うん」
「二人が同時に電子を観測したとします。一人には右のスリットを通ったと見えた。もう一人には左のスリットを通ったと見えた。多世界解釈では、この瞬間に世界が二つに分かれます。右を通った世界と、左を通った世界に」
「……二人は同じ部屋にいるのに」
「解釈上は、その瞬間から別の世界にいることになります」
田中教授は少し黙った。
コーヒーカップを持ち上げたが、飲まなかった。
「二人は、そのことに気づかないのか」
「気づかないです。それぞれの世界で、それぞれが見たものだけが現実になる。もう一方の世界の自分がいることも、分からない」
「……それが、パラレルワールドか」
「解釈の一つとしては、そうなります。観測のたびに世界が分岐して、無数のパラレルワールドが生まれ続けている、という考え方です」
「本当にそうなっているのか」
「分かっていないです。多世界解釈はあくまで解釈の一つで、証明も反証もされていない。コペンハーゲン解釈という、世界は分岐しないが観測によって状態が確定するという考え方もある。どちらが正しいかは、2026年現在も決着していません」
田中教授はゆっくりと椅子の背にもたれた。
「つまり、見ると決まる、というところまでは実験で確認されています。なぜ見ると決まるのか、見たとき世界はどうなっているのか、は誰も知らない」
遼は少し間を置いた。
「……幅を広げて言うと」
「うん」
「この世には、起きていることは確認できるのに、なぜ起きるのかが説明できないことが普通にあります」
「例えば」
「重力もそうです。物体が引き合うことは確認されている。でもなぜ引き合うのか、重力とは何なのか、量子力学と一般相対性理論が矛盾したまま、まだ統一されていない」
「うん」
「意識もそうです。人間がなぜ何かを感じるのか、痛みや色がなぜ主観的な体験として存在するのか、物理では説明できていない」
「……工学の話ではないな」
「工学の範囲外です。でも、科学が『なぜ』を全部説明できているわけではない、ということは確かです」
田中教授はしばらく黙っていた。
窓から入道雲が見えた。
「それは、小学生に言うか」
「……言わない方がいいと思います」
「なぜ」
「収拾がつかなくなるので」
田中教授は少し笑った。
「では、小学生への答えは何になる」
遼は一度コーヒーを飲んだ。
少し考えて、言葉を選んだ。
「……誰かが見ていない間、電子はいろんな場所に同時にいます。見た瞬間に、一つの場所に決まります。なぜそうなるのかは、まだ誰も知りません。もしかすると、あなたが今ここで見ているこの瞬間にも、世界がそっと増えているかもしれません」
田中教授は少し間を置いた。
「最後の一文は」
「……また思ったより出てきました」
「いい意味でか」
「……たぶん」
田中教授は頷いた。
「それでいい」
遼は立ち上がった。
「あの、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「今回も、最初から答えを知っていたんじゃないですか」
田中教授は答えなかった。
ただ、コーヒーを飲んだ。
冷めたコーヒーを、静かに。
「……失礼します」
ドアが閉まった。
田中教授は窓の外を見た。
七月の空。
入道雲が、遠くに見えた。
なるほどと頷く。
そこまで答えは用意していなかった。
スマホを取り出した。
LINEを開く。
孫の名前を探した。
少し考えて、打った。
「見ていない間は決まっていない。見た瞬間に決まる。二人が同時に見たとき、世界が二つに分かれているかもしれない。なぜかは誰も知らない。これがスリットの観測者の話だ」
送信。
既読がついた。
しばらくして、返信が来た。
「じいじ、それ遼くんに聞いたでしょ」
田中教授は少し止まった。
返信しなかった。
スマホをしまって、コーヒーを飲んだ。
冷めたコーヒーを、静かに。
「……バレてた」
小さく、呟いた。
誰にも聞こえない声で。
教授の孫もまた天才肌なのかも知れない。
その話はまた後日。
この話に登場する物理概念は、すべて実在する理論および実験結果に基づいています。ただし解釈の部分はかなり作者の主観が入っています。専門家の方はそっと閉じてください。
二重スリット実験は実在します。量子力学の中で最も有名な実験の一つです。
観測者問題の「正しい解釈」は、2026年現在も決着していません。コペンハーゲン解釈、多世界解釈など複数の解釈が並立しています。どれが正しいかは誰も知りません。本当に誰も知りません。
「じいじ、それ遼くんに聞いたでしょ」という孫の返信は、観測によって状態が確定した瞬間です。




