桜井詩織 Episode 3「家の中の音」
家の音が変わったのは、六年生の春のことだ。
正確に言えば、音が減った。
夕飯の時間に父がいないのはもう普通になっていたけれど、母も遅くなる日が増えた。台所に一人で座って、コンビニのおにぎりを食べる夜が週に何度かある。別に辛くはなかった。ただ、静かだった。
家の中の静けさには種類がある。
誰もいないから静かな夜と、誰かがいるのに静かな夜は、同じ沈黙でも空気の重さが違う。うちは後者に近かった。父か母のどちらかがいても、会話が生まれない。テレビだけが鳴っていて、それぞれが別々の沈黙の中にいる。
私はその頃から、本を読むようになった。
図書室で借りてきた文庫本を、夕飯の後に読む。寝る前に読む。休み時間に読む。最初は暇つぶしだったけれど、そのうち分かってきた。本を開いている間は、家の静けさが気にならなかった。
ページの中には別の声がある。別の家族がいる。怒鳴り合う親も、泣く子供も、笑い転げる兄弟も。どれも私の家にはないものだったが、読んでいる間はそこにいられた。
感情を出しても何も変わらない、ということを、私はいつ覚えたのだろう。
泣いても父の帰りは早くならない。黙っていても、遅くならない。だったら何もしない方がいい。感情はしまっておく方が楽だ。そのことに気づいたのが何年生の頃だったか、もう覚えていない。気づいたときにはもう、そうなっていた。
静けさは、諦めの上に育つ。
中学に上がると、遼くんとの帰り道が少し変わった。
同じ中学に進んだが、クラスが違う。部活も違う。でも帰り道はほとんど同じで、校門を出たところで自然と並ぶことが多かった。
遼くんはあまりしゃべらない。
私もあまりしゃべらない。
それでも一緒に歩くのが、いつの間にか習慣になっていた。
特に何かを話す必要はなかった。遼くんは歩きながら何かを考えていることが多く、私は鞄の中の文庫本のことを考えていることが多く、二人の沈黙は似た種類のものだった。少なくとも、家の中の沈黙とは違った。
ある日の帰り道、遼くんが突然言った。
「その本、何の話」
私が鞄から少し出していた文庫本のことだ。
「女の人が一人で旅をする話」
「面白いの」
「面白い。でも少し寂しい話」
「寂しい話が面白いのか」
遼くんは不思議そうだった。理解できないというより、純粋に仕組みを知りたがっているような顔だ。
「悲しい話を読むと、なんか楽になるときがある」
「なんで」
「分からない。でもそういうときがある」
遼くんはしばらく黙って歩いた。
「機械をいじってるときと少し似てるかもしれない」
「え、どういうこと」
「うまく説明できないけど、集中してると他のことが消える感じ」
他のことが消える。
私はその言葉を、歩きながら頭の中で転がした。
そうだ。本を読んでいる間、家の静けさは消える。父がいない夕飯も消える。母との会話のなさも消える。別の誰かの声が、代わりに聞こえてくる。
「それだと思う」
私が言うと、遼くんは「そか」と言った。それだけだった。
でもなぜか、少し嬉しかった。
梅雨の頃、桜井家からまた音が一つ消えた。
父がほとんど帰ってこなくなった。
月に二、三度、夜遅くに帰ってくることがある。翌朝には出ていく。それが続いた。母は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
テーブルのお皿は二つだったのが、気づけばひとつになっていた。
母が食べるより先に寝てしまう夜もある。私はコンビニで買ったものを台所で食べて、洗い物をして、自分の部屋に戻る。別に誰かに頼むことでもない。困ってもいない。
ただ、静かだった。
本を読んだ。図書室で三冊借りてきて、一週間で全部読んだ。
活字の中には声がある。それだけで十分だった。
ある夜、窓から斜め向かいを見ていたら、柊家の台所に人影が二つあった。
遼くんと、凛ちゃんだと思う。何かをしている。話している。影が動いて、また止まって、また動く。
笑い声が聞こえた気がした。
気がした、だけかもしれない。でも窓から見ていると、あの家にはいつも何かがある。声でなくても、気配がある。誰かがいる、という重さが、窓の外から伝わってくる。
台所の灯り。二階の左の窓。二階の右の窓。
三つ、全部ついている。
右の窓を確認する。遼くんの部屋。
ついている。
それだけで、少し落ち着いた。
自分でも妙だとは思う。斜め向かいの窓の灯りで落ち着く、というのは、普通じゃないかもしれない。でも普通かどうかを考え始めると面倒だったから、考えないことにしていた。
ついている。遼くんはそこにいる。
それだけでよかった。
中一の秋、クラスの女子の間で遼くんの話が出るようになった。
運動会で目立ったらしい。リレーで転んだ子のバトンを拾って、そのまま追い抜いたと聞いた。本人は何も思っていないだろうが、見ていた人には印象に残ったようだった。
「柊くんって、かっこよくない?」
隣のクラスの子が廊下で言っていた。
「あんまり喋らないけど、それがまたいい感じ」
私は少し離れたところでそれを聞いていた。
聞いていた、というより、聞こえてしまった。
別に何も思わなかった。
思わなかった、と自分では思っていた。
でも。
その夜、いつもより長く遼くんの窓を見ていた。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
ただ、見ていた。消えるまで、見ていた。
ずっと、そこにいた。
十二月、学校の帰り道に遼くんが言った。
「詩織、最近本ばっかり読んでる」
「前から読んでるよ」
「前より増えた」
よく見ているな、と思った。でも顔には出さなかった。
「冬は読みたくなる」
「なんで」
「寒いと、どこかに入りたくなるから」
遼くんは少し考えてから、「本の中に入るのか」と言った。馬鹿にしているわけじゃなく、本当に確認しているだけの声だった。
「そういう感じ」
「そか」
しばらく黙って歩いた。
交差点で信号待ちをしているとき、遼くんが言った。
「どんな話が好きなの」
珍しかった。遼くんから聞いてくることは少ない。
「一人の人間が、ずっと何かを続ける話」
「続ける話」
「やめないで続ける人の話が好き。何があっても」
遼くんは信号を見ながら、少し黙った。
「それって、機械みたいだな」
「機械?」
「壊れても直して、また動かす。やめない」
信号が青になった。
私たちは並んで渡った。
遼くんは機械の話をするとき、少しだけ声が変わる。別に大きくなるわけでも、早くなるわけでもない。ただ、確かになる。迷いがなくなる感じがした。
私はその横顔を、一秒だけ見た。
一秒だけ、のつもりだった。
年が明けて、冬の終わりの頃。
父が荷物を取りに来た。
平日の昼間だったから私はいなかったが、母から聞いた。大きなバッグを持ってきて、服と何かを持っていったと。それだけだった。
母は淡々と話した。感情が乗っていない声だった。
私も淡々と聞いた。
何も言わなかった。何を言えばいいか、分からなかった。というより、言っても変わらないと知っていた。
その夜、台所でひとりで夕飯を食べた。
お皿はひとつだった。
食べ終わって、洗い物をして、自分の部屋に戻った。
本を開いた。
ページをめくった。
文字が目に入ってきた。でも頭には入らなかった。
本を閉じた。
窓から外を見た。
柊家の台所の灯り。二階の左の窓。二階の右の窓。
三つ、全部ついていた。
右の窓を見た。
遼くんの部屋の灯りが、白く四角く、いつもと同じところにある。
ついている。
揺れもしない。消えもしない。昨日と同じ場所に、同じ明るさで、ただそこにある。
私の家が変わっても、あの灯りは変わらない。
父が荷物を取りに来ても。お皿がひとつになっても。
遼くんの灯りは、そこにある。
ゆっくりと息を吐いた。
窓ガラスに額をつけた。冷たかった。その冷たさが、少し心地よかった。
遼くんがいる。
あの窓の向こうに、今夜もいる。
明日もいるだろう。明後日も。来週も、来月も、来年も——
そこにいてくれる。
そういう人だから。どこにも行かない人だから。
機械をいじって、壊れたものを直して、当たり前みたいな顔でそこにいる。
私の家が静かになっても、あの家は変わらない。
遼くんがいるから。
私はその確信を、胸の奥のどこかに、そっとしまった。
誰にも見せない場所に。鍵をかけて。
もう随分前からそこにあったものを、この夜、初めてちゃんと認識した気がした。
遼くんは私が毎晩この窓から見ていることを、知らない。
右の窓だと決めていることも、知らない。
灯りが消えるまで待っていることも。
全部、知らない。
知らなくていい。知られなくていい。
ただ、そこにいてくれれば。
あの灯りが、毎晩ついていれば。
それだけでいい——と、思っていた。
思っていた、はずだった。
でも本当は。
遼くんの灯りが消えた後も、私はしばらく窓の前に立っていた。
消えた窓を、見ていた。
暗くなった四角を、ただ見ていた。
もう灯りはないのに、目が離せなかった。
この感覚に、まだ名前はない。
でも——確かに育っている。
根が深くなっている。
私の知らないところで、私の中で、静かに、ずっと。
壊れていくものの隣で、壊れないものを見続けてきた。
気づいたら、壊れないものの方が、私になっていた。
遼くんが誰かのものになる、という考えが頭をよぎったのは、その夜が初めてだった。
廊下で聞いた声が、耳の奥で蘇る。
かっこよくない? あんまり喋らないけど。
私は目を閉じた。
その声を、頭の中で、静かに押しつぶした。
音もなく。表情も変えずに。
誰にも気づかれないまま。




