柊遼 Episode 3「直すのが当然」
五年生の秋、遼が家に入ろうとしていたところへ詩織が来た。
遼は玄関の鍵を開けかけたところだった。振り返ると、詩織が道の向こうから歩いてくる。手は空だった。
「遼くん」
声がいつもより少し小さかった。
「ラジカセって直せる?」
遼は少し止まった。ラジカセ。どういう状態かによる。
「どんな状態?」
「電源入れても音が出なくなった」
「お父さんが、もうダメだって言ってた」
それを聞いて、遼は少し考えた。見てもいないのに「もうダメ」と言う。その感覚が遼にはよく分からない。どこが壊れているか見る。見てから考える。考えてから直す。それが当然の順番だと思っていたから、見る前に諦める人間がいることを、考えたことがなかった。
考えたことがなかったから、引っかかった。小石を踏んだような感触だ。
「持ってきてみて」と遼は言った。
詩織が「うん」と言って戻っていった。遼は家に入って、机の上を少し片付けた。
詩織がラジカセを抱えてやってきたのは、夕方になる少し前だ。
両手で胸の前に抱えるようにして、門のところで立ち止まった。遼は縁側に出て受け取った。ずっしりとした重さがある。外側に傷はない。落としたわけではなさそうだ。電源が入らないか、スピーカーの断線か、コンデンサか。見ただけでは絞れないが、たぶん直せる。
「時間かかるかもしれない」と遼は言った。嘘ではない。部品が必要になったら探す時間もかかる。ただそれだけのことを言ったのだが、言いながら詩織の顔をちらと見た。さっきより声の感じが戻った気がする。それを確認してから、遼はラジカセを持って家に入った。
机にラジカセを置いた。ドライバーでネジを四本外す。ケースが開く。
中を見た。
電解コンデンサが一つ、頭が膨らんでいる。ハンダ割れが二箇所。それから、テープのベルトが硬化して動かなくなっている。想定よりは多かった。でも直せないほどではない。
部品箱を開ける。コンデンサは手持ちがある。サイズを確認する。合っている。ハンダはある。ベルトは——少し細いが、代用できる。問題ない。
作業を始めた。
コンデンサから先に取り換える。古いものを外して、新しいものを足の向きを確かめてからはめる。ハンダ付け。次に割れたハンダの一つ目を盛り直す。二つ目に移る。ベルトは最後だ。
急いでいるわけではない。
ただ手が動いていると落ち着く。問題がある。見る。考える。直す。それだけのことで、他のことを考えなくていい。詩織が「集中できるから」と言っていたとき、遼はすぐに分かった。同じだ、と思った。集中していると、余計なものが全部消える。
作業の途中、ふと窓の外を見た。
いつの間にか、かなり夜が更けていた。深夜に近い時間だ。
斜め向かいの桜井の家。一階の窓に灯りがついている。
遼はすぐ手元に視線を戻した。まだ起きているんだな、と思っただけだ。それ以上の意味はない。
でも、その後の作業が少しだけ丁寧になった。
遼は気づかない。気づかないまま、次のハンダ付けをいつもより慎重に仕上げた。コンデンサの足の角度をもう一度確かめた。ベルトの張り具合を二回試した。
なぜそうしたか、聞かれても答えられない。ただ、そうした。
凛が部屋を覗いたのは、夜の十時を過ぎた頃だ。
「まだやってるの」
「うん」
「それ、誰の」
「向かいの桜井さんとこの」
凛は少し眉を上げた。「桜井さんとこって、詩織ちゃん?」
「そう」
「頼まれたの?」
「壊れたって言ってたから」
それだけの答えだったが、凛は何かを考えるような顔をした。何を考えているか、遼には分からなかった。特に気にもしなかった。
「ご飯、下に置いといたから」と凛が言う。「食べてよ」
「後で」
「冷めるよ」
「後で食べる」
凛はため息をついて、扉を閉めた。足音が廊下を遠ざかる。
遼は手元に戻った。
十分ほどして、また足音が来た。今度は軽い。華だ。
「遼ー、お姉ちゃんがご飯食べろって言ってた」
「分かった」
「直ってる?」
「まだ」
「誰の?」
「向かいの詩織ちゃん」
「詩織ちゃんの?」
華の声が少し明るくなった。詩織のことは知っている。時々家に来る、おとなしくてきれいな字を書く子、という認識だ。
「直してあげるの?」
「直す。あげるって感じじゃないけど」
「どういう感じ?」
遼は少し考えた。
「壊れてたから直す、っていう感じ」
「ふーん」
華はしばらく部屋の入り口から中を見ていた。机の上に並んだ部品と、その前に座っている遼の背中を見ていた。それから「ご飯食べなよ」と言って去った。
遼は作業を続けた。
凛と華が気にかけてくれたことは、頭の隅に残っている。残っているが、今は手が先だ。コンデンサをはめる。ハンダを流す。それが先だ。
家族のことを愛しているかと聞かれたら、遼はうまく答えられない。愛しているという言葉の重さが、自分の感覚と合っているのかどうか分からない。ただ、凛の足音と華の声が聞こえる家は、居心地がいい。それは確かだ。
ベルトを取り付け終えて、ケースを閉める。ネジを締める。スイッチを入れた。
音が出た。
ラジオの周波数を合わせていないから、ノイズと音楽が混ざった状態で流れる。でもスピーカーは鳴っている。ちゃんと鳴っている。
遼は一度うなずいた。
机の端にラジカセを置く。明日、返せばいい。
電気を消して横になった。すぐには眠れなかった。というより、眠ろうとしなかった。天井を見ながら、さっきの作業を頭の中でもう一度たどる。コンデンサの交換。ハンダの盛り直し。ベルトの代用。順番と理由を確認する。これは遼の癖で、作業が終わったあとに「正しかったかどうか」を検証する時間がある。
問題ない。
それを確認してから、遼は眠った。
翌朝、遼は六時前に起きた。
昨夜の作業を終えてから眠ったのは深夜近かったから、そう長くは寝ていない。でも目が覚めた。
起きてすぐ、机の上のラジカセを見た。ちゃんとそこにある。当然だが、確認した。
もう一度だけスイッチを入れた。音が出る。問題ない。スイッチを切る。
窓の外を見た。朝の光が、まだ斜めに差し込んでいる。斜め向かいの桜井の家。一階の窓のカーテンが閉まっている。まだ起きていないだろう。学校に行く前に渡せばいい。
台所に下りた。凛が昨夜置いておいてくれたご飯が、ラップをかけてテーブルの上にある。冷めている。レンジに入れて温める。食べた。
凛が気にかけていた。それは分かる。遼が夜遅くまで作業していると、凛は必ず何かしらを声をかけに来る。子供の頃からそうだ。「また遼がなんかやってる」と言いながら、近くにいる。
食べながら、そのことを考えた。
凛に「なんでいつも様子を見に来るの」と聞いたことが、一度ある。凛は「心配だから」と答えた。「何が心配なの」と聞いたら、「あんたが心配なの」と言った。それ以上の説明はなかった。
遼にはよく分からなかった。でも「心配」が悪いことではないと分かった。だから凛が部屋を覗きに来るたびに、「うん」か「後で」を言う。それで凛は帰る。そのやりとりで成立している何かがある。
朝ご飯を食べ終えてから、遼はラジカセを持って外に出た。
翌朝、学校に行く前に詩織に渡した。
「直った」と言って、ラジカセを差し出す。詩織が「え、本当に?」と言った。
「スピーカーのコードが断線してたとこと、コンデンサが一個いかれてた。あとベルト」
詩織はラジカセを両手で受け取った。
その両手を、遼は少しだけ目で追った。大事そうに持っている。それを見た。
「ありがとう」と詩織が言う。
「別に。壊れてただけだろ」
本心だ。壊れていたから直した。特別なことは何もない。壊れているものを前にして「もうダメだ」と言う人間と、直してみる人間がいる。遼は後者の側にいるというだけで、それは性質の話であって、偉いとか優しいとかそういうことではない。
踵を返して歩き出した。
歩きながら、少しだけ考えた。
渡す前に、もう一度音が出るか確認してから渡せばよかった。詩織の家で電源を入れてみればよかった。
言わなかった。もう渡してしまったし、言う理由も分からなかった。ただ、その考えが頭の中に少し残る。消えないまま、学校まで歩いた。
翌日の夕方、詩織がまた来た。
「ちゃんと鳴った」と言いに来た。それだけだった。用事はそれだけで、詩織はすぐ帰る。
遼は「そか」と言って、また机に向かった。
机には今日の作業が待っている。別の古いラジオ。こちらはチューナーの接点が酸化していて、周波数が合わない。接点復活剤で直るかもしれない。試してみる。
作業を始めながら、「ちゃんと鳴った」という言葉を、遼は一度だけ頭の中で繰り返した。
それから、なんとなく机に向かう気になった。
理由は分からない。いつも机に向かっているのだから、今日に限って「なんとなく」という感覚が生まれたこと自体、少し変だ。でも変だとも思わなかった。ただ手が動いた。
窓の外、斜め向かいの家。夕方の灯りがついている。
一秒だけ見て、遼は手元に視線を戻した。
その日の昼休み、遼は教室の窓際に座っていた。
クラスの誰かが遠くで笑っている。廊下で声がする。遼はそれらを聞きながら、手元のノートに回路図を描いていた。授業と関係ない。ただ手を動かしていると落ち着くから、描いていた。
詩織の「お父さんがもうダメだって言ってた」という言葉が、頭の中に浮かんだ。
その父親は、ラジカセを前にして諦めた。なぜ諦めたのか。見ていないからだ。見ていないのに「もうダメ」と判断した。
遼には不思議だった。見ていないのになぜ分かるのか。見なければ分からない。分からない段階で結論を出すのは、遼の考え方とは違う。
でも、諦めることを悪いとは思わない。
世の中には「見ても直せない」ものもある。見てから「これは無理だ」と判断するのは、正当な話だ。問題は、見る前に結論を出すことだと思う。見る前に「もうダメ」と言うのは、判断ではなく、放棄だ。
遼はノートの回路図から目を上げた。
詩織の席が見えた。詩織は本を読んでいた。「集中できるから悲しい話が好き」。
詩織にも何か「消したいもの」があるのかもしれない。そう思った。思ったが、それ以上考えなかった。人の内側のことは、相手が話してくれない限り、遼には分からない。分からないから聞かない。聞いてどうするかも分からないし、聞いて何か変わるかどうかも分からない。
ただ、詩織が「集中できるから」と言ったとき、その言葉の意味は分かった。
分かった、というのは遼にとって重要なことだ。分かる言葉を話す人間がいると、少し楽になる。
チャイムが鳴った。昼休みが終わる。遼はノートを閉じた。
そのころの遼に、詩織への「特別な感情」はない。
詩織は斜め向かいの家に住んでいる子だ。小学校が同じで、帰り道が重なることがある。本をよく読む。「集中できるから悲しい話が好き」と言った。それが遼には分かりやすかった。それだけだ。
なのに「鳴った」という報告が来て、机に向かう気になった。理由が分からない。
分からないから、考えなかった。手が動いているならそれでいい。それが遼のやり方だ。
ただ、この夜の作業は、少し丁寧だった。
昨日の作業も、少し丁寧だった。
遼は気づいていない。気づかないまま、ラジオのチューナーを静かに調整している。窓の外に夜が来て、斜め向かいの灯りが、また一つついた。
幸江はこの頃の遼をよく覚えている。
「ラジカセ直してやったんだって?」と聞いたら、遼は「斜め向かいの子の」と答えた。「喜んだ?」と聞いたら、「よく分からない」と言う。
「よく分からないってどういうこと」
「受け取る時、両手で持ってた」
幸江はその答えをしばらく考えた。
遼は「両手で持っていた」ことを覚えている。「喜んだかどうか」は分からないと言いながら、その受け取り方は記憶している。どういうことか、と言いたいところだったが、幸江は笑って「そうか」と言うだけにした。
コロッケを一個、揚げ網から取ってやった。「食べていき」
遼は「ありがとう」と言って食べた。何も言わなかった。窓の外をぼんやり見ていた。
どこを見ているのかは、幸江にも分からなかった。
でも、悪い顔じゃなかった。
その秋の終わりに、詩織から一度だけ聞かれた。
「なんで直せると思ったの。最初から」
遼は少し考えた。
「見れば大体分かるから」
「見ただけで?」
「うん」
詩織がじっとこちらを見ていた。何かを考えている顔だ。
「遼くんって、何でも直せるの?」
遼はまた少し考えた。
「直せないものもある。でも見てみないと分からない」
「見てみないと分からない、か」
詩織はその言葉を小さく繰り返した。なぜ繰り返したのか、遼には分からない。分からないまま、「じゃあ」と言って別れた。
帰り道を一人で歩きながら、詩織の父親のことを思い出した。「もうダメだ」と言って、それで終わりにした人間のことを。
見ていない段階で「もうダメ」と言う人間と、見てみないと分からないと言う人間がいる。
どちらが正しいかは分からない。でも遼は「見てみないと分からない」側にいる。そこは変わらない。
変える理由がない。




