桜井詩織 Episode 2「壊れたラジカセ」
五年生の秋、家のラジカセが壊れた。
台所の棚の上に置いてあるやつで、母がよく料理中に鳴らしていたものだ。ある夜、電源を入れたら音が出ない。何度押しても同じだった。
父がそれを見て言った。
「もうダメだな」
特に残念そうでもなく、怒っているわけでもない。ただ状況を確認するみたいに言って、父はテレビのリモコンを手に取った。
私は台所に立ったまま、ラジカセを見ていた。
壊れたら、ダメなのか。
捨てるのか。このまま棚の上に置き続けるのか。
誰も答えなかった。母もそれ以上何も言わず、夕飯の音だけが台所に戻ってくる。
もうダメだな、という言葉が、妙に頭の中に残っていた。
翌日の放課後、遼くんの家に寄った。
四年生のあの春から、それが普通になっている。特に約束するわけでもなく、帰り道が同じだから自然と一緒に歩いて、自然と柊家の前まで来る。そのまま入ることもあれば、門の前で別れることもある。
その日は遼くんがちょうど家に入るところだった。
「ラジカセって直せる?」
玄関先で聞いたら、遼くんは少し立ち止まる。
「どんな状態?」
「電源入れても音が出なくなった」
「持ってきてみて」
ラジカセを抱えてまた柊家に来たのは、夕方になる少し前のことだ。
台所の棚から下ろすとき、思ったより重かった。小学生の腕にぎりぎり収まる大きさで、それを抱えて道を横切る。
遼くんはリビングのテーブルで待っていた。
私がラジカセを置くと、すぐに裏側を見始める。少し指で触って、何かを確かめて、また別のところを触る。工具箱がそばに置いてあったが、まだ開けていない。
華ちゃんが覗きに来た。
「何それ」
「ラジカセ」
「どうするの」
「直す」
「直せるの?」
「分かんない。でもたぶん」
華ちゃんは「ふーん」と言って、また別の部屋へ消えた。
私はテーブルの向かいに座って、遼くんの手元を見ていた。特に何かするわけではない。ただ、見ていた。
「借りていい?」
遼くんが言った。
「え」
「時間かかるかもしれないから」
私は少し考えた。
「……うん、いいけど」
「明日返す」
「直せたら、だよね」
「たぶん直せると思うけど」
たぶん直せる、と遼くんは言う。
私はその言葉をじっと聞いた。
たぶん、という言葉に迷いがない。確認する前から既に、直せるかどうかを感じ取っているみたいな声だった。
「分かった。じゃあよろしく」
「うん」
遼くんはラジカセを脇に置いて、また別の何かをいじり始めた。今日はもう別の用があるらしい。
私はしばらくそこにいて、それから家に帰った。
夜、布団の中で目が覚めた。
何時かは分からない。家の中は静かで、台所の電気も消えていた。
天井を見ながら、ふと考える。
返ってくるかな。
ラジカセが、ではなかった。遼くんが直して返してくれるかな、ということだった。
明日返す、と言っていた。たぶん直せると思う、とも言っていた。
信じていいのか。
そう思った自分に、少し驚いた。
遼くんが嘘をつくとは思っていない。でも、直せないこともあるかもしれない。明日返すつもりでも、できないことはある。父が「もうダメだな」と言ったのも、嘘じゃなかった。ただ本当にそう思ったから言っただけで——諦めていたから言っただけで——
遼くんは諦めていなかった。
借りていいか、と言った。時間がかかるかもしれない、と言った。
その違いは、何なんだろう。
考えているうちに、また眠った。
翌朝、起きて窓から外を見たら、柊家の台所の灯りがついていた。
いつもより早い気がする。六時前だった。
誰かが起きている。
私はそれを見ながら、ラジカセのことを考えていた。
学校から帰ると、玄関先に遼くんが立っていた。
手にラジカセを持っている。
「直った」
それだけだった。
「え、本当に?」
「スピーカーのコードが断線してたとこと、コンデンサが一個いかれてた。あとベルト」
私は受け取って、すぐ台所に置いて電源を入れた。
音が出た。
昨日まで沈黙していたスピーカーから、ラジオの声が流れ出す。
「ありがとう」
私が言うと、遼くんは少し肩をすくめた。
「別に。壊れてただけだろ」
壊れてただけ。
だから直した。それだけのことだ、という顔だった。
遼くんはもう帰りかけていた。
「遼くん」
呼び止めたら、振り返る。
「なんで直せると思ったの。最初から」
遼くんは少し考えてから言った。
「見れば大体分かるから」
「見ただけで?」
「だいたいは」
それだけ言って、遼くんは自分の家に帰っていった。
台所で、しばらくラジカセの前に立ったまま、音楽を聴いていた。
夕方のラジオだった。
父は「もうダメだな」と言った。
遼くんは「たぶん直せる」と言った。
同じものを見て、どうしてこんなに違うのか。
壊れたら終わりじゃない、と遼くんは信じている。壊れたものを前にして、諦めることが最初の選択肢に入っていない。見て、触って、直せるかどうかを確かめる。それが遼くんにとっての当たり前だった。
うちの家は、壊れているのだろうか。
その問いがまた浮かぶ。
父の帰りが遅くなったのは、もう一年以上前のことだ。家の中の空気がいつから薄くなったのか、正確には分からない。気づいたらそうなっていた。
誰かが「もうダメだな」と言ったわけじゃない。
でも誰も「直せる」とも言わなかった。
ラジカセは音を出している。昨日まで無音だったのに、今日は鳴っている。遼くんが一晩かけて直したから。
私の家には、遼くんみたいな人がいない。
そのことが、静かに、確かに、胸の底に沈んでいった。
夜、窓から柊家を見た。
台所の灯り。二階の左の窓。二階の右の窓。
三つ、全部ついている。
右の窓を見た。遼くんの部屋はたぶん右だと思っている。根拠はないけれど、そう決めていた。
今夜もあそこで、遼くんは何かをいじっているんだろう。壊れたものを開けて、問題を探して、直す方法を考えている。当たり前みたいな顔で。誰にも言わないで。
私は窓に手をついたまま、右の窓を見続けていた。
遼くんがいるから、あの家は壊れない。
そう思ったとき、何かが胸の中でかちっとはまる感覚があった。
音のない、静かな感覚。でもその感覚は確かで、一度はまったら動かなそうだった。
壊れたって、戻ってくる。あの人がいれば。
遼くんの灯りが消えるまで、そこから離れられなかった。
消えてから、布団に入る。
目を閉じると、あの窓の四角い光がまぶたの裏に残っていた。
遼くんは私のものじゃない。分かっている。
でも。
あの人は、私が見ていてもいい。見ていることを、誰も知らなくていい。
五年生の秋の夜、私の中で何かが静かに根を張った。
それが何なのか、まだ名前を知らなかった。
ただ——消えない、と思った。
もう止まらない気がした。




