柊遼 Episode 2「どうなってるか」
押し入れの奥に、工具箱がある。
父のものだ。
父は家にほとんどいない。玄関に大きなトランクが現れる日と、またそれが消える日までが、父のいる日だった。トランクが来るたびに凛は走って出迎えた。華はまだ意味が分からず、ただ凛の後ろをついていく。遼は扉のそばに立ち、トランクの鍵の仕組みを指でなぞっていた。
工具箱を見つけたのは、四歳になってすぐの秋だ。
押し入れの下段、古い毛布の奥。蓋に傷が何本もある。何年も使われてきた証拠で、鉄製の箱はずっしりと重い。開けると金属の匂いが広がった。
ドライバーが三本。ペンチ。レンチが二種類。ハンマー。小さな鑿。それから、名前の分からないものがいくつか。
遼は一本ずつ、手に取る。
重さが違う。形が違う。どれも、何かのための形をしている。何かに使うから、こういう形になっている。形に意味がある——そのことが、手のひらを通じてはっきり伝わってくる。
由紀が気配に気づいてやってきた。「危ないよ」と言いかけて、止まる。
遼は工具を床に並べ、ひとつひとつ見比べていた。壊そうとしている顔ではない。何かを理解しようとしている顔だ。由紀はそれを見て少し間を置いてから、「触るだけにしなさい」と言った。
「うん」と遼は答えた。
その「うん」に、嘘はない。
約束を守った。触るだけにした。
でも毎日、押し入れを開ける。工具をひとつ手に取って、しばらく眺めて、また戻す。それだけを繰り返した。
そのうち用途を考えるようになった。先が細くて十字の形のものは、回すためのもの。丸く掴む形のものは、引っ張るためのもの。叩くためのものは、持ち手が太くて重い。それぞれの形が、それぞれの仕事のためにある。
誰かに教わったわけではない。ただ考えて、考えて、分かった。
分かっても、うれしいわけでも誇らしいわけでもない。ただ正しい場所に収まる感じがする。それで十分だ。
五歳になってから、幸江の惣菜屋「たなか」への通いが日課になった。
由紀に連れられるだけでなく、一人でも足を向けるようになる。商店街の端から三軒目、赤い庇のある店。幸江はいつも揚げ物をしていた。
遼がカウンターの前に立つと、幸江は「今日も来たか」と言う。怒らない。邪魔にもしない。「見てていい?」と遼が聞けば、「好きなだけ」と返ってくる。
ある日、コロッケが油の中でぷつぷつと泡立つのを見ていた。いつもと少し音が違う。
「今日、衣が違う」
遼が言うと、幸江は手を止めた。「気づいた?」
「なんか厚い」
「パン粉を粗めにした。試してる」
「なんで試す?」
「カリッとするかもしれないと思って」
「カリッとする?」
「外側が硬くなって、食べたとき音がする感じ」
遼はその説明を聞きながら、もう一度油の中を見た。衣が厚い方が、外側は固まりやすいのかもしれない。でもなぜ固まるのか、まだ分からない。
「なんで揚げると固くなるの」
「衣がかたまるから」
「なんで衣がかたまる?」
「油が熱いから」
「なんで熱い油に入れると固まる?」
幸江はしばらく考えてから、「それはちょっと難しいね」と言った。
「分かんない?」
「分かんない」
「そか」
遼はそれで一度終わりにした。分からない答えに食い下がらず、頭のどこかに置いておく。置きながら、いつか分かるかもしれないと思っていた。
帰り際に「また来ていい?」と聞いた。「いつでも来い」と幸江は言う。
翌日も来た。
幸江は揚げ物だけでなく、煮物も作る。出汁を引く。味付けをする。
遼はそのすべてを見ていた。
「何が気になるの、毎回」
ある日、幸江が問う。
「全部、理由があるから」
「何の理由?」
「この形にした理由。この手順にした理由。この温度にした理由」
幸江は少し黙り、「そういう風に見てたのか」と言った。感心した声だ。でも遼には感心されている意味が分からない。当然のことを言ったつもりだった。
「全部、理由がある?」
「ある。形には意味がある。手順には意味がある。理由のないものは、壊れる」
五歳の子が言う言葉ではない。幸江はしばらく遼の顔を見て、それからコロッケを一個揚げ網に取り出した。「試食していきな」と言う。
遼は「ありがとう」と言って口に運んだ。外が少しカリッとしている。
「今日の、正解だった?」と聞くと、幸江は「まあまあかな」と笑った。
華は遼の後ろをよくついてきた。
遼が何かをしているとそばに来る。理由は特にないようで、バケツを持ってきたこともあった。なぜバケツかは、華自身にも分からない。「なんか役に立つかもしれない」という気がしたらしかった。
役に立ったことは一度もない。
「なにしてるの」と華が聞く。「見てる」と遼が答える。「なんで?」「面白いから」「どこが?」「ここ」「どこ?」「ここの隙間」
遼が指差す場所を、華は一生懸命見る。何が面白いのか分からない。でも遼が「面白い」と言うなら何かあるのだと、それだけは信じていた。
「見えない」と正直に言うと、遼は少し考えてから答えた。
「この部品と、この部品の間の、隙間」
「隙間?」
「隙間がちょうどいいかどうかで、動くか動かないかが決まる」
「ふーん」
全部は分からない。でも遼は嘘をつかない。「隙間がそういうもの」という事実だけは、華の中に残った。
遼は華がついてきても邪魔だと思わない。邪魔かどうかを考える前に、もうどこかで「華がいる」ことが前提になっている。華の足音と、バケツがぶつかる音が聞こえると、「ああ来たな」と分かる。
それだけだ。でも「来なかった日」は少し気になった。気になって居間に行き、華がお昼寝しているのを確認して、戻る。特に何もしない。ただ確認する。それだけのことだ。
凛はこの頃、遼をよく叱った。
「また押し入れ開けた」「また幸江さんとこ行ってた」「また庭のホースを分解した」。叱る、というより確認に近い。遼が何をしたかを把握して、問題がないと分かって、それで終わる。
遼はその確認を邪魔だと思ったことがない。
凛が確認してくる、ということは、凛が見ている、ということだ。見られていることを重荷に感じない。むしろ「凛が知っている」という状態が、どこかで安定の理由になっている。
言葉にはならない。でも凛の足音が聞こえると、少しだけ体の力が抜ける。知られている。それだけで何かが落ち着く。
凛はそれに気づいていないし、遼も気づいていない。ただそういうことが、毎日あった。
六歳の秋。小学校入学まで、半年を切った頃のことだ。
玄関の鍵の調子が悪くなった。
ここ数日、差し込んでも引っかかって回りにくい。由紀は「後で業者を呼ぶ」と言いながら、呼ぶ日を決めないまま過ごしていた。
遼は「引っかかり」のことが気になっていた。
鍵穴の中か。鍵の山の形か。使いすぎて溝が磨耗したのか。埃が入り込んでいるのか。
翌朝、家族がまだ眠っているうちに起きた。
玄関に行き、鍵を手に取る。差し込む。引っかかる場所がある。鍵穴に顔を近づけて覗くが、暗くて見えない。鍵を引き抜いて、山の形を指でなぞった。わずかに引っかかりの感触がある。
押し入れに行き、父の工具箱を持ってきた。
速乾の潤滑油を取り出す。鍵穴に少し入れる。差し込む。少しましになる。でも、まだ引っかかる。今度は鍵の山を紙やすりで軽くなぞった。差し込む。試す。また試す。
何度か繰り返した。
すっと入った。
回す。開く。
もう一度試す。引っかからない。また試す。引っかからない。問題ない。
工具箱を押し入れに戻し、自分の部屋に戻った。
それだけだ。誰にも言わない。言う理由がない。直っているなら、それでいい。
由紀が起きてきたのは、それから一時間後だ。
鍵を試すと、するっと入り、すっと回る。「あれ」と声が出た。遼の部屋を覗くと、遼はもう机に向かって何かを分解していた。
「遼、鍵直した?」
すぐには返事が来ない。少し間がある。
「なんか引っかかってたから」
由紀はその言葉を聞いて、玄関に立ったまましばらく動かなかった。
業者を呼ぼうと思っていた鍵が、朝の間に直っている。六歳の子が、早起きして、父の工具箱を出して、直した。頼まれたわけでも、褒めてほしかったわけでもない。「引っかかってたから」。それだけだ。
由紀は台所に行き、お湯を沸かす。お茶を入れる。飲みながら窓の外を見た。
泣きそうかどうかも分からない。ただ胸の中で何かが動く。重くも軽くもない。でも確かに、動いた。
幸江にその話をしたのは、その日の昼過ぎだ。「あの子、小学校行ったらどうなるんだろね」と幸江は笑う。由紀は「マイペースにやると思います」と答えた。
二人で笑った。由紀の笑いの中には、少しだけ心配もある。「普通の小学校」に遼が馴染めるかどうか。でも同時に、遼がどんな場所でも自分のやり方を見つけるという気もしていた。
遼はその頃、机の前で鍵のシリンダー構造を考えている。鍵の山が合うと回る、その仕組みが気になっていた。なぜ合うと回るのか。どこで何が動いているのか。考えていると手が自然に動く。楽しいとも思っていないが、手が止まらない。
その秋のある日、華が「コロッケたべたい」と言った。
夕方のことで、夕飯にはまだ早い。由紀は「晩ご飯まで待って」と言い、華は「うん」と答えてから黙った。
遼はその「うん」を聞いていた。
食べたかったんだろうな、と思う。思ったが、何もしなかった。由紀が「待って」と言ったし、それでいい。そう自分に言いながら机に向かった。
三十分ほどして、遼は立った。
「幸江さんとこ行ってくる」と由紀に言う。
「何か用事があるの?」
「……見たいものがある」
少し間があった。
「お金、ちょっと貸して」
由紀はその二言を続けて聞いた。見たいものがある、お金を貸して。コロッケ一個分には足りるくらいの小銭を、財布から出して渡した。何も聞かなかった。聞く必要がない気がした。
遼は「ありがとう」と言って出ていった。
商店街に向かい、幸江の店でコロッケを一個頼んだ。幸江は揚げながら遼の顔を見て、「一個でいいの?」と聞いた。「うん」と答えた。幸江はしばらく何も言わず、揚げ上がったコロッケを袋に入れて、もう一個つけた。「おまけ」とだけ言った。
帰ってきて、華に渡す。「買ってきた」とだけ言った。
華の目が丸くなり、それから笑顔になる。「遼、ありがとう!」と言ってすぐにかじった。熱くて「あちっ」と言う。でも離さない。
遼はそれを見ていた。
「ちゃんと食べろ、急がなくていいから」
言いながら、もう自分の部屋に戻る。
後から由紀が「さっきの見たいもの、何だったの」と聞いた。
「揚げ方が変わってたかもしれなかった」
「変わってた?」
「変わってなかった」
それで終わりだ。
由紀はしばらくそれを考えた。見たいものは、なかった。見たいものを理由にして、コロッケを買いに行った。華が「食べたい」と言っていたのを、覚えていたから。
言わない。でも覚えている。覚えていて、なんとなく動く。遼という子の温かさは、いつもそういう形をしている。
六歳の終わり、小学校入学の準備が始まった。
ランドセルを買いに行った。凛が「こっちがかわいい」「こっちの方が丈夫そう」と言い続ける横で、遼は黒いランドセルを一度手に取り、留め具の動きを確かめた。「これでいい」と言う。由紀が「もう少し見ようよ」と言ったが、遼はもう決めていた。留め具がちゃんと動く。それでいい。
帰り道、凛が「小学校、楽しみ?」と聞く。
遼は少し考えた。
「どうなってるか、気になる」
「小学校が?」
「うん」
凛はその答えを笑った。「それ楽しみって言わないよ」と言う。でも遼には「楽しみ」と「どうなってるか気になる」の違いがよく分からない。同じことのような気がしていた。
気になる。だから行く。行ったら分かる。それでいい。
シンプルなことだ。
由紀も幸江も凛も華も、遼が「気になる」と思う相手だ。
ただ、遼はそんなことを考えない。
小学校がどうなっているか、知りたい。それだけだ。
でも「それだけ」が、遼にとってのいつもの始まりだった。




