桜井詩織 Episode 1「斜め向かいの灯り」
最初に気づいたのは、音だった。
斜め向かいの家から、誰かの声がする。
夕方になると決まってそれが聞こえてくる。女の子の笑い声と、少し低い男の子の声と、もっと低い声で笑う大人の声。それがぜんぶ混ざって、窓を通り抜けて、私の耳まで届いた。
私が小学一年生の春のことだった。
うちの家は、静かだった。
父も母もいないわけじゃない。毎日夜には帰ってくる。ご飯だって食べる。でも夕飯の間、誰かがしゃべることは少なかった。テレビの音だけが鳴っていて、父はリモコンを持ったままうとうとして、母は洗い物を先に始める。
喧嘩してるわけじゃない。怒鳴り声が聞こえるわけでもない。
ただ、静かだった。
家の中の空気が、なんとなく、薄かった。
だから斜め向かいの声が、不思議だった。
窓から見ると、黄色い光が漏れている。台所の窓だと思う。カーテンが半分開いていて、誰かの影がゆれている。夕飯の支度をしているんだろう、油の音がする夜もあった。
あそこには何があるんだろう。
子どもの私には、それしかわからなかった。
梅雨の手前、雨が降る前の夕方に、私は初めて斜め向かいの子たちを近くで見た。
公園だった。家から少し歩いたところにある、滑り台と砂場だけの小さな公園。母に「少しだけ」と言って外に出た日だった。
砂場に、三人いた。
一番上の子は女の子で、背が高くて、きれいな髪をしていた。少し離れたところに座って本を読んでいる。もう一人は男の子で、砂場のふちにしゃがんで何かを掘っていた。一番小さい子は女の子で、バケツを持ってそこらじゅうを走り回っていた。
私はブランコに座って、三人を見ていた。
男の子が掘っているのを見ていたら、目が合った。
男の子は少し止まって、それからまた砂を掘り始めた。
怒るでも笑うでもなかった。ただ、見た。それだけだった。
私は少し恥ずかしくなって、ブランコを揺らした。
その子たちが柊家の三兄妹だと知ったのは、もう少し後のことだ。
一番上のお姉さんが凛ちゃんで、中の男の子が遼くんで、一番小さいのが華ちゃん。
母が教えてくれた。斜め向かいに越してきたのはうちと同じくらいの時期らしかった。
「仲良くできるといいね」と母は言ったけれど、それきり何も言わなかった。自分から挨拶に行くこともなかった。
うちはそういう家だった。
小学二年生になった頃、私は斜め向かいの窓の光を数えることを覚えた。
夜、自分の部屋から見える柊家の窓は三つある。一階の台所の窓と、二階の窓が二つ。台所はいつも一番明るい。誰かが何かを作っている。二階の窓はそれぞれ色が違う気がした。片方は温かい色で、片方は白っぽい色だった。
私の部屋の電気はひとつだった。
父は帰りが遅かった。ある週から、もっと遅くなった。理由は聞かなかった。母は聞かないから、私も聞かなかった。
家のどこにいても、斜め向かいの声はした。
笑い声だったり、誰かが呼ぶ声だったり、怒っているようで全然怒っていない声だったり。
私はそれを、布団の中で聞いていた。
遼くんと初めてちゃんと話したのは、小学二年の秋だった。
帰り道に傘の骨が折れた。
大雨の日で、信号待ちをしているときに風が来て、傘が内側にめくれあがった。骨が一本、ぽきっと曲がった。
どうしようもなかったので、折れたまま持って歩いた。雨が横から来るから、半分びしょぬれになった。
路地を曲がったところで、前に人がいた。
遼くんだった。傘をちゃんとさして、スクールバッグを持って、立ち止まっている。
「傘、折れてる」
遼くんが言う。
「うん」と私は答えた。
遼くんはしばらく私の傘を見ていた。それから「ちょっと」と言って、手を伸ばした。
私は反射的に傘を渡した。
遼くんは傘を受け取って、折れた骨を指で確かめた。少し押して、少し引っ張る。何かを見極めようとしているような目だった。
「直せるかもしれない」
「え」
「家に工具があるから」
そう言って遼くんは歩き出す。自分の家の方向に。
私はしばらく雨の中に立っていた。
遼くんが三軒先で振り返った。
「来ないの」
「……行っていい?」
「持ってきたんだから来ていいでしょ」
私は走って追いかけた。
柊家に入ったのはそれが初めてだった。
玄関を入ると、出汁の匂いがした。台所から音がしていて、華ちゃんの歌声みたいなものも聞こえた。
「おかえりー!」
奥から声がする。華ちゃんだった。でも遼くんと一緒に知らない女の子がいるのを見て、華ちゃんはぴたっと止まった。
「だれ」
「さくらいさん。斜め向かい」
「しおりちゃん?」
私はびっくりして遼くんを見た。
「名前、知ってたの?」
「凛が教えてくれた」
遼くんはそれだけ言って、台所の奥から工具箱を持ってきた。小さな箱だったけれど、中に色んなものが入っていた。
テーブルの上に傘を置いて、遼くんは骨を確認した。
「石突きと骨の接合部が外れただけだ」
私には意味がわからなかった。でも遼くんは何かを引っ張って、何かを嵌めて、三分もしないうちに傘を元に戻した。
「直った」
傘を広げると、ちゃんと開いた。
「ありがとう」
「別に。外れただけだから」
遼くんは工具箱を片付け始めた。
私はその間、台所の方を見ていた。窓から夕方の光が入ってくる。テーブルの上に宿題らしい紙が広げてあって、華ちゃんが戻ってきてそこに座った。家のどこかから凛ちゃんの声がする。
騒がしい。
でも、温かかい。
これが、あの窓の光の中にあるものか、と思った。
七歳の私には、それ以上の言葉がなかった。
三年生になると、私は時々公園で遼くんと会うようになった。
遼くんはいつも何かを持っていた。拾ってきた部品だったり、壊れたラジオだったり、どこかから持ってきた小さなモーターだったり。それをベンチに広げて、一人でいじっている。
最初は私もブランコに座って、少し離れたところにいた。でも遼くんは気にしなかったから、だんだん近くのベンチに座るようになった。
遼くんはほとんどしゃべらなかった。
私もほとんどしゃべらなかった。
それでも、隣にいることが自然になっていった。
ある日、遼くんが小さなモーターを分解していた。
私はそれを横から見ている。
「それ、何をしてるの」
「どうやって動いてるか確認してる」
「壊れてるの?」
「壊れてる」
「直せる?」
遼くんは少し考えてから言った。
「直せると思う」
「なんで壊れたか分かるの?」
「見ればだいたい分かる」
私は遼くんの手元を見た。細い指が、小さなネジを外している。丁寧だった。急いでいなかった。
「壊れたもの、直すの好きなの?」
遼くんはしばらく黙っていた。
「嫌いじゃない」
それだけだった。
三年生の冬、父が家を空けることが増えた。
最初は出張だと思っていた。でも一週間が二週間になって、二週間が一ヶ月になった。
母は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
家はもっと静かになった。母は夕飯を作ったけれど、作る量が少し少なくなった。テーブルに二つだけ並ぶお皿を見て、私は何か言おうとして、やめた。
何を言えばいいか、わからなかった。
夜、窓から斜め向かいを見た。
台所の窓に灯りがついている。二階の窓に灯りがついている。
声は聞こえない。でも光はあった。
三つの光が、それぞれのところに灯っていた。
私はそれを見ながら、布団の中にいた。
うちの家は、何かが足りなかった。
何が足りないのか、三年生の私にはまだ言葉がなかった。ただ、斜め向かいの家と見比べると、何かが違うことはわかった。
騒がしさ、ではない。
明るさ、でも少し違う。
誰かがいる、という感じ。
誰かが誰かのことを気にしている、という感じ。
柊家の窓の光は、毎晩消えなかった。
誰かが起きていた。誰かがそこにいた。
それだけで、あの家は違って見えた。
私はまだそれを、「ふつうの家」という言葉で呼んでいた。
自分の家が「ふつうじゃない」とは思っていなかった。
ただ、斜め向かいの光が、すこし遠かった。
すこしだけ、まぶしかった。
春になって、四年生になった。
桜が散るころ、公園で遼くんに会った。
遼くんはベンチに座って、相変わらず何かをいじっていた。今日は小さなラジオだった。
「直ってる?」
「まだ」
「むずかしいの?」
「少し。でも直せると思う」
私はとなりのベンチに座った。
「遼くんはさ、なんで壊れたもの直すの好きなんだろうね」
「好きかどうかわからない」
「じゃあなんで直すの」
遼くんは手を止めた。しばらく考えてから言った。
「直せるから」
「直せるから直すの?」
「うん」
私はそれを聞いて、少し黙った。
直せるから直す。
理由はそれだけで十分なのか。
壊れていても、直せるなら、直す。
私の家は、壊れているのだろうか。
そんなことを、なんとなく考えた。考えた、というより、浮かんだ、という感じだった。
答えは出なかった。
遼くんはまたラジオをいじり始めた。
しばらくして、カチ、という音がした。
ラジオから音が出た。
「直った」
遼くんは特に嬉しそうでもなかった。
ただ、直った、と言った。
それだけだった。
私はそのラジオの音を聞きながら、春の公園にいた。
桜の花びらが一枚、ベンチに落ちてきた。
遼くんはそれに気づかなかった。
私だけが、気づいていた。




