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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
柊遼と桜井詩織

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柊遼 Episode 1「それだけ」

 (ひいらぎ)(りょう)という子は、静かな赤ちゃんだった。

 泣かないのではない。泣く前に、何かをじっと見ていた。

 窓から差し込む光が壁に作る四角い模様。台所の奥から聞こえてくる水音。母の手が布巾を絞るときの、きゅっという音。それらを遼はひとつひとつ目で追って、追い終わるまでは声を出さなかった。

 泣くのは、そのあとだ。

 田中幸江(さちえ)はよく笑ってそう言った。「遼ちゃんはね、全部確認してから泣くのよ。ちゃんと確認して、それでも解決しないから泣く。あの子、もう生まれたときから研究者みたいだった」

 母・由紀(ゆき)はそれを聞くたびに苦笑した。でも否定はしなかった。

 その通りだと思っていた。


 遼が生まれたとき、(りん)はまだ二歳だった。

 彼女はすでに、弟をどう扱うかを把握していた。なでる。話しかける。おもちゃを持ってくる。「凛ちゃんもうお姉ちゃんね」と大人に言われると、うれしそうにうなずいた。

 ところが遼は、姉がそばにいても特に喜ばなかった。

 泣いているときにおもちゃを差し出されても、受け取らずに壁の光の模様を見ていた。あやされても体をそらす。でも怒るわけでも拒むわけでもない。ただ、今は他のものを見ているというだけだった。

 凛にはそれが最初、少し不思議だった。自分があやすのに、なんで泣き止まないんだろ、と思った。でも遼は機嫌が悪いわけではなく、ただ自分のペースがあるだけだと気づくまで、そう時間はかからなかった。

 「しょうがないね」

 凛はよく言った。遼が何をしていても、最終的にはそう言って隣に座った。

 それが、姉の始まりだった。


 遼が最初に「直す」をやったのは、二歳か三歳の頃だ。

 台所の引き出しの開きが悪かった。何度か前から引っかかっていて、由紀は「また調子が悪い」と言いながらそのたびに力任せに引っ張っていた。開くのは開く。でも引き出しの底の奥のほうで、何かがこすれる音がする。

 ある朝、由紀が台所を離れた隙に、遼は引き出しの前にしゃがんだ。

 引っ張った。硬い。もう一度引っ張った。どこかが引っかかっている。指を隙間に入れて、レールのあたりを探った。小さな詰まりがある。爪の先でかき出した。もう一度引っ張った。

 するっと開いた。

 遼はしばらく開け閉めを繰り返した。開く。閉まる。開く。閉まる。さっきまでのひっかかりがない。スムーズに動く。それを確かめた。

 満足した。それだけで。

 由紀が台所に戻ってきたのは、すぐあとだった。引き出しを見て、遼の背中を見て、「あれ、直ってる」と言った。「遼、やったの?」

 遼は答えなかった。もうそちらには興味がなく、台所の出窓の鍵のほうを見ていた。外の光の当たり方が変わっていた。なぜそうなるのか、少し気になった。

 返事がない遼を由紀はしばらく見ていた。二歳か三歳の子が、台所の引き出しを直した。誰にも頼まれていないのに。怒られていないのに。ただ、開きが悪かったから直した。

 取り上げるのをやめよう、と決めたのはこの瞬間だった。

 この子の手が向くものを、止めない。そう決めた。


 惣菜屋「たなか」への通いが始まったのは、遼が歩けるようになってからだ。

 由紀は週に二、三回、夕方になると幸江の店に寄った。揚げたてのコロッケを三つ買う。それが柊家の夕飯の定番だった。

 遼は由紀に手をつないで歩きながら、いつも同じ場所で止まった。

 カウンターの端。幸江が鍋のそばに立つ位置から、少し斜めに見える場所。そこから、油の中でコロッケが転がるのを見た。

 「見たいの?」

 ある日、幸江が聞いた。

 「うん」

 「なんで?」

 遼は少し考えた。考えてから、「どうなってるか」と言った。

 幸江はその答えが気に入った。「そっかあ」と言って、鍋を少しだけ低い位置に傾けた。「ほら、こっちから見てみな」

 遼は顔を近づけた。熱い空気が顔に当たった。油が跳ねる音がした。コロッケの表面が、ぷつぷつと泡立っている。パン粉の隙間から、中の蒸気が逃げていく。それが遼の目に映った。

 由紀が「熱いよ」と言いながら引こうとした。遼は引かなかった。

 見終わるまでは、動けなかった。

 見終わると、遼はふっと体の力を抜いた。「分かった」とも言わなかった。ただ、さっきまでの真剣さが引いて、普通の顔に戻った。

 由紀が「ごめんなさい、じっとして」と幸江に謝った。幸江は笑って手を振った。「いいの。この子、物を好きになる子だわ」

 その言葉の意味を、遼はまだ分からなかった。

 でも幸江が笑って手を振った、ということは分かった。ここに来ると、何かを見せてもらえる、ということも分かった。

 次の週も、その次の週も、遼は同じ場所に立った。


 凛が遼の後を追うようになったのは、遼が自分で動けるようになってからだ。

 遼は突然、棚の下にもぐった。引き出しを端から順番に開けた。窓の鍵を何度も回した。階段の一段目を何度も踏んだり離したりした。誰かに頼まれたわけでも、怒られたわけでも、ゲームをしているわけでもない。ただ、気になったから。

 凛はその理由が分からなかった。

 「なんでそんなことするの」

 遼は棚の下から顔だけ出した。

 「どうなってるか」

 「どうなってるか分かったら、何がいいの」

 遼はしばらく黙った。黙ってから、「分かる」と言った。

 「それだけ?」

 「それだけ」

 凛はその答えを持て余した。「分かる」だけで何がいいのか、四歳の凛には理解できなかった。

 でも、遼はそういう子だと思った。邪魔しない。でも離れない。それが凛の結論だった。遼が棚の下にもぐっていても、凛はその横に座って自分の人形の洋服を着せた。遼が鍵を触っていても、凛は少し離れた場所で絵本を開いた。

 「また遼がなんかやってる」

 凛がよく言う言葉になった。怒っていない。あきれてもいない。ただ、そういうことが起きた、という報告だった。

 由紀はそのたびに「そうね」と答えた。取り上げに行かなかった。


 由紀は、遼の「手が止まるタイミング」を知っていた。

 何かを見つけたとき、遼の動きがゆっくりになる。体の重心が少し前に傾く。それが「本気で考えている」サインだった。そのときに声をかけると、遼は返事をしない。聞こえていないのではなく、今は他のことに使っている、という感じだった。

 由紀はそのタイミングで声をかけるのをやめた。

 待つ。終わるまで、待つ。

 終わると遼は何かが解けたような顔をした。「分かった」とは言わない。ただ、さっきまでの強張りが体から抜けて、また普通に動き始める。

 由紀はその顔が好きだった。うれしそうとは少し違う。安心、とも違う。何かが正しい場所に収まった、という顔だった。

 「この子は、何かを探してるんだな」

 由紀はそう思っていた。何を探しているのかは分からなかった。でも、それを奪ってはいけないと感じた。奪ったら、何かが壊れる気がした。

 だから止めなかった。


 ある日の夕方、幸江が由紀に言った。

 「遼ちゃん、将来何になるんだろうねえ」

 由紀は少し考えた。考えてから、笑った。

 「机の前に一日中いる人、じゃないですか」

 「職業じゃなくてそれ」

 「でも本当にそんな気がして」

 二人で笑った。遼はその隣で、幸江の棚の端の錆びたネジを見ていた。錆で少し固くなっている。少し触ると、やはり固い。でも回らないわけではない。どうすれば回るか、考えていた。

 考えるのが楽しかった。


 三歳の秋のことだ。

 玄関の鍵が、ある朝から調子が悪くなった。差し込んでも、回るのに少し引っかかりがある。父はもう海外に出ていて、由紀一人で子供を三人見ていた。後で業者を呼ぼうと思っていた。

 翌朝、由紀が玄関に来ると、鍵はもう直っていた。

 引っかかりがない。差し込むと、するっと回る。昨日までの固さがどこかに行った。

 由紀は少し不思議に思って、台所を見た。遼がいた。棚の下段の収納扉を開けて、中を覗き込んでいた。今日の「どうなってるか」の対象は、そちらに移っていた。

 「遼、鍵、直した?」

 遼は振り向かなかった。

 「なんか引っかかってたから」

 それだけだった。

 由紀はしばらく玄関に立っていた。三歳の子が、鍵を直した。業者を呼ぼうと思っていた、その鍵を。

 泣きそうになった理由が、自分でもよく分からなかった。

 でも目が少し熱くなったのは本当だった。

 遼は引き続き、収納扉の蝶番を調べていた。こちらも少し固い。どこが引っかかっているか、指で確かめていた。誰かに頼まれたわけでも、褒めてもらいたいわけでもない。固いから直す。引っかかっているから直す。

 それだけだった。

 でもそのシンプルさの中に、由紀はずっと言葉にできない何かを見ていた。


 凛は五歳を過ぎた頃、少しだけ「遼の後を追う理由」を理解した。

 遼が棚の下にもぐる。引き出しを開ける。鍵を触る。最初は「危ないから」追っていたのが、そのうち「何を見つけるか見たいから」に変わっていた。

 遼は必ず何かを見つけた。

 引き出しのレールに挟まったもの。棚の扉の蝶番のゆるみ。窓の鍵の、溝に溜まった埃。それを見つけて、直す。誰にも言わない。特に誇らない。ただ直して、次に移る。

 凛はそれを見るのが、いつの間にか好きになっていた。

 「また直してる」と由紀に言うと、由紀はいつも「そうね」と笑った。怒らない。止めない。ただ見ている。

 凛もそれを覚えた。

 遼の邪魔をしない。でも近くにいる。それでいい。

 遼は凛が近くにいても気にしなかった。気にしないのは、邪魔だからではなく、いて当然だからだ。凛がいると、何かあったときに「凛がいる」という事実がある。それが遼には、特に意識もしないけれど、ちゃんとある安心だった。

 言葉にはならなかった。


 遼が三歳の冬。

 その頃、由紀は少し疲れていた。父は長期で海外に出ていて、連絡が来るのは週に一度のメールだけだった。三人の子を一人で見るのは、体力より気力が先に削れる種類の疲れだった。

 ある夜、凛と華が寝たあと、由紀は台所でお茶を飲んでいた。静かだった。昼間の音が全部止んで、外の車の音だけが遠くにある。一人でいると、疲れているのか疲れていないのかも、よく分からなくなっていた。

 遼がいた。

 台所に入ってきて、由紀の横の椅子に座った。特に何も言わない。お茶を飲んでいる由紀の横で、ただ座っていた。

 「眠れないの?」

 由紀が聞いた。

 「ちょっと起きてた」

 「何かあった?」

 「別に」

 遼は答えてから、テーブルの上の由紀のお茶を少し見た。熱い。湯気が出ている。どうやって熱さが伝わっているのか、なんとなく気になった。でも今夜はそれを調べる気にならなかった。

 由紀の横で、ただ座っていた。

 由紀は何も言わなかった。お茶を飲みながら、遼の小さな横顔を見ていた。

 この子は、なんで起きてきたんだろ、と思った。眠れなかったわけでも、怖い夢を見たわけでもなさそうだった。ただ、台所に来た。母が一人でいると知っていたのかどうか、分からない。でも来た。

 「お母さん、疲れてた?」

 突然、遼が言った。

 由紀は少し驚いた。

 「どうして?」

 「なんか、疲れてる感じがした」

 三歳の子が言う台詞ではなかった。でも遼は普通の声で言った。当たり前のことを確認している、という顔で。

 由紀は少し笑った。

 「少し疲れてたかも」

 「そっか」

 遼はそれ以上聞かなかった。由紀の隣にいた。ただ、いた。

 どのくらい経ったか、遼は眠そうに目をこすり始めた。由紀が「おいで」と言うと、素直に手を伸ばした。抱き上げると、軽かった。まだこんなに軽いんだ、と思った。

 寝室に連れて行って、布団に寝かせた。遼はすぐ眠った。

 由紀はその顔をしばらく見た。

 「疲れてた?」と聞いた子が、こんなに小さい。でも確かに気づいていた。何も言わずにそばに来た。それだけで、ずっとかかえていた何かが少し軽くなった気がした。

 言葉にならなかった。でも確かにあった。


 幸江は後々まで、遼の話をするとき必ずこう言った。

 「あの子はね、何かをしてあげようとして動いてるんじゃないの。動いたら、結果的に誰かのためになってる。それだけ。そこが遼ちゃんらしいとこよ」

 由紀はそれを聞くたびに、「そうですね」と答えた。

 正確な言葉だと思っていた。

 遼は誰かを助けようとして引き出しを直したわけではなかった。ただ、引っかかっていたから直した。誰かを慰めようとして夜中に台所に来たわけではなかった。ただ、なんとなく起きていたから来た。

 でもその「なんとなく」の中に、見ていた、ということがあった。

 由紀が疲れているのを、見ていた。引き出しが引っかかっているのを、見ていた。鍵の回りが悪いのを、見ていた。幸江の鍋の中がどうなっているかを、見ていた。

 遼はよく見ていた。

 見ていて、動いた。

 言葉にしなかった。理由も言わなかった。でも、ちゃんと見ていた。

 その眼差しに、由紀はずっと気づいていた。


 遼が三歳になった冬の終わり、父から小包が届いた。

 宛名は「柊家へ」。中身は海外の小さなメモと、古い工具が数本。メモは英語だった。由紀が読むと、一行だけ日本語に訳せる文章が最後にあった。

 「触っていい」

 それだけだった。

 遼は工具をひとつ手に取った。重さを確かめた。柄の素材が何か、少し考えた。金属の質感が手のひらに伝わる。何かを直すための道具だと、すぐ分かった。

 「なんで送ってきたの」

 凛が由紀に聞いた。

 「遼に使ってほしかったんじゃないかな」

 「なんで」

 「……遼がそういう子だって、知ってるから」

 凛はよく分からなかった。遼はすでに工具の柄についた傷の形を観察していて、何も聞いていなかった。

 父は家にいなかった。でも父は知っていた。息子の手が、何に向くかを。

 遼はそのとき、父の顔をちゃんと思い出せなかった。顔よりも、帰ってくる日に玄関に置かれる大きなトランクの方がよく思い出せた。

 でも工具を持った手が、なんとなく温かかくなった。

 なんとなく、だ。

 理由は分からない。でも確かに、温かかった。


 遼という人間の根本は、ここにある。

 壊れたものに手が向く。どうなっているかを知りたい。分かったら、次に移る。誰かに頼まれていない。褒められたくてするのでもない。ただそうしたいから、する。

 でもその「そうしたい」の底には、必ずちゃんと、見ていた、があった。

 由紀が疲れていること。引き出しが不便なこと。鍵が回りにくいこと。幸江の鍋の中。凛が隣にいること。

 全部、見ていた。

 見て、動いた。それだけだ。

 それだけなのに、その「それだけ」がいつも誰かの何かを少し軽くした。遼はそのことに気づかなかった。気づかないまま、ずっとそうし続けた。

 言葉にならない愛情というのは、こういう形をしている。

 口から出てこない代わりに、手が先に動く。理由を言わない代わりに、いつの間にか隣にいる。それだけで、十分だった。

 遼はそれで十分だとも思っていなかった。

 ただ、それしか知らなかった。

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