参話「あんた何者だ」
遼が田中幸江を苦手としていたのには、理由があった。
声がでかいからだ。
他意はない。ただそれだけだ。幸江が悪い人間だとは思っていない。むしろ、華の膝の件も、凛の熱の件も、幸江がいなければどうなっていたか分からない。感謝もしている。
ただ、声がでかい人間と長く話すのが、遼は昔から得意ではなかった。
だから幸江と話すとき、遼はいつも短く答えた。「はい」「そうです」「大丈夫です」。それで会話が終わるように、必要最小限の言葉だけを返した。
幸江はそれを分かっているのかいないのか、特に気にした様子もなく、おかずを持ってくるときは「はい、これ」と言って渡し、受け取ったら「ありがとうございます」と言う。それだけの関係だった。
遼にとっては、それで十分だった。
七月の半ば、夏休みに入る少し前のことだった。
遼は中学校の帰り道に商店街を通っていた。
暑かった。蝉が鳴いていた。アスファルトから熱気が立ち上っていて、少し遠回りでも日陰を選んで歩いていた。
惣菜屋「たなか」の前を通りかかったとき、幸江が店の前にしゃがんでいるのが見えた。
冷蔵庫の前だった。
業務用の白い縦型冷蔵庫。惣菜を並べておくやつだ。その前で幸江がうちわを使いながら、難しい顔をしていた。
冷蔵庫は動いていなかった。
遼は通り過ぎようとした。
でも、足が少し止まった。
コンプレッサーの音がしていない。夏場の業務用冷蔵庫がこの状態なら、中の惣菜は数時間で駄目になる。外気温のせいでサーマルヒューズが飛んだか、あるいは制御基板が熱でやられたか。どちらにしても、見れば大体分かる。
遼は少し考えた。
関わると会話が長くなるかもしれない。
でも、このまま通り過ぎるのも、なんとなく気持ちが悪かった。
「……見てもいいですか」
幸江が顔を上げた。
「え?」
「冷蔵庫」
幸江は遼を見た。中学の制服を着た少年が、カバンを持って、冷蔵庫を指差している。
「……分かるの?」
「たぶん」
幸江は二秒ほど考えて、「じゃあ頼む」と言った。
遼は店に入って工具箱を借りた。
「どこにありますか」
「台所の棚の下」
台所に入ると、古い木の棚の下に工具箱があった。プラスドライバーとマイナスドライバー、ペンチ、あとスパナが何本か。最低限だが、とりあえず使えそうなものは揃っていた。
遼は冷蔵庫の背面パネルをドライバーで外した。
基板が見えた。
少し眺めた。
案の定、サーマルヒューズが切れていた。過熱で飛んだのだろう。基板自体は生きている。部品さえ替えれば動く。
「部品、どこかにありますか」
「あるわけないでしょそんなもん」
「近所に電気屋は」
「商店街の奥。でも今日開いてるかどうか」
遼はカバンからスマホを取り出して検索した。開いていた。
「行ってきます」
「え、自分で行くの」
「買ってこないと直せないので」
幸江が何か言う前に、遼は商店街の奥へ向かっていた。
電気屋は小さな店だった。部品の在庫を聞いたら、規格を確認されたので型番を答えた。店主が奥から持ってきた。値段は三百円しなかった。
遼は代金を払って、惣菜屋に戻った。
幸江がぽかんとした顔で待っていた。
「……戻ってきた」
「はい」
「型番とか分かったの」
「基板に書いてありました」
遼はヒューズを交換した。パネルを戻した。電源を入れた。
コンプレッサーが動き始めた。
低い振動音が、店内に戻ってきた。
幸江はしばらく無言で冷蔵庫を見ていた。
二十年近く前のことが、ふと頭をよぎった。
越してきた初日、この冷蔵庫が壊れていた。途方に暮れていたら、隣に越してきた旦那が気づいて直してくれた。三十分で。何も言わずに。「あんた何者だ」と聞いたら「部品が劣化してたんで」とだけ言って、引っ越しの作業に戻っていった。
目の前の中学生が、全く同じことをしていた。同じ時間で、同じ顔をして、同じことを言っている。
血というのは、不思議なものだ。
そう思いながら、口から同じ言葉が出た。
「あんた何者だ」
「サーマルヒューズが切れてたんで」
「そういうことじゃなくて」
遼は工具を片付けた。工具箱を台所の棚の下に戻した。カバンを持って、帰ろうとした。
「ちょっと待ち」
幸江が店の奥に引っ込んだ。三十秒後に出てきた。コロッケが二つ、紙に包んで持っていた。揚げたてだった。
「これ持ってけ」
「いいです」
「いいから持ってけ。部品代も払ってない」
「三百円以下でした」
「そういう問題じゃない」
遼はコロッケを受け取った。
「ありがとうございます」
「こっちがありがとうだよ」
幸江がでかい声で言った。遼は少し肩をすくめた。
家に帰る途中、紙包みから湯気が出ていた。
遼はコロッケを一口食べた。
揚げたてはうまかった。
それから数日後、幸江がおかずを持ってきた。
夕方、玄関のチャイムが鳴った。凛が出ると、幸江が皿を持って立っていた。
「はい、肉じゃが。今日多めに作ったから」
「ありがとうございます。でも、いつも」
「いいから受け取り。あ、遼くんいる?」
「います」
「呼んでくれる?」
遼が呼ばれて玄関に出ると、幸江が遼を見て言った。
「先日はありがとうね。おかげで惣菜が全部助かったよ」
「大したことじゃないです」
「大したことだよ。あのまま動かなかったら全部捨てることになってた」
「……そうですか」
「そうだよ」
幸江は少し遼を見た。
「あんた、ああいうの学校で習うの?」
「習わないです」
「じゃあどこで」
「自分でやってたら分かりました」
幸江はしばらく遼を見ていた。
それから、「そうか」と言った。それだけだった。
肉じゃがは、三人で食べた。
鍋ごと持ってきたので、好きなだけ食べられた。肉が、いつもスーパーで買うものより少し柔らかい気がした。気のせいかもしれなかったが、そんな気がした。
それから、幸江は週に二回ほどおかずを差し入れるようになった。
曜日は決まっていなかった。火曜日だったり木曜日だったり、ときに月曜日だったりした。持ってくるものも毎回違った。肉じゃが、きんぴらごぼう、ひじきの煮物、鶏の唐揚げ。惣菜屋のものなのか自分で作ったものなのか、遼には分からなかった。
遼は毎回「ありがとうございます」と言って受け取った。
凛も「ありがとうございます」と言った。
華は「やったー」と言った。
それぞれの受け取り方だった。
ある日、遼が一人で受け取ったとき、幸江が言った。
「あんた、うちの冷蔵庫が壊れたら、また来てくれる?」
「壊れたら言ってください」
「業者呼ぶより早そうだもんね」
「直せるかどうかは見てみないと分かりません」
「そうだね」
幸江は少し笑った。
「でもあんた、見たら分かるんでしょ」
遼は少し考えた。
「……たいてい」
「そうか」
幸江は皿を渡しながら言った。
「あんた偉いよ、ほんとに」
遼は何も言わなかった。
褒められることには慣れていなかった。慣れていなかったというより、褒められても何がどう褒められているのかよく分からなかった。冷蔵庫を直したのは、直せそうだったから直しただけだ。それ以上でも以下でもない。
「……普通のことだと思います」
「普通じゃないよ」
「そうですか」
「そうだよ」
幸江はでかい声でそう言って、自分の店に戻っていった。
遼は皿を持ったまま、少し立っていた。
普通じゃない。
そう言われても、実感がなかった。
でも、コロッケはうまかった。肉じゃがも、唐揚げも、きんぴらごぼうも。
それは確かだった。
遼は「まあ、いいか」と呟きながら家に入った。




