弐話「大丈夫じゃない人間が大丈夫って言っている」
五月の連休が明けた週の水曜日、柊凛は朝から体が重かった。
前日の夜から少しおかしいとは思っていた。喉の奥がひりひりして、目の奥が痛い。熱かもしれない、と思いながら布団に入った。朝になれば治っているかもしれない、とも思った。
治っていなかった。
起き上がろうとして、めまいがした。壁に手をついて、少し考えた。
今日は一限から授業がある。小テストもある。休むわけにはいかない。
でも足に力が入らなかった。
廊下に出たところで、遼と鉢合わせた。遼は凛の顔を見て、一瞬だけ止まった。
「……顔色悪い」
「大丈夫」
「熱あるんじゃないの」
「大丈夫って言ってる」
遼はしばらく凛を見ていた。何か言いたそうな顔をして、でも何も言わなかった。
「……学校行くの?」
「行く」
「そう」
遼は引き下がった。凛はそのまま洗面所に向かった。
鏡の中の自分は、確かに顔色が悪かった。でも認めたくなかった。認めたら誰かが心配する。心配させるわけにはいかなかった。
華を送り出して、自分も家を出た。
学校に着いたのは一限の十分前だった。教室の椅子に座った瞬間、少し楽になった気がした。気のせいかもしれなかったけれど、そう思うことにした。
小テストは何とかなった。二限も三限も乗り切った。
四限の途中で、限界が来た。
黒板の字がぼやける。先生の声が遠くなる。額に手を当てると、自分でも分かるくらい熱かった。
保健室に行って、体温を測ったら三十八度七分だった。
保健の先生に「お家の方に連絡しましょうか」と言われた。
「大丈夫です。自分で連絡します」
保健室のベッドで横になりながら、スマホを取り出した。遼に電話した。
コール音が鳴り続けた。
出なかった。当たり前だ。今は授業中のはずだ。
凛は少し考えた。
このまま自力で帰ることはできる。電車に乗って、歩いて帰れば済む話だ。でも帰っても誰もいない。鍵を開けて、一人で横になるだけだ。
それでいい、と思っていた。それで十分だと思っていた。
でも今日は、なぜか少しだけ躊躇した。
凛は連絡先を見た。
田中幸江。
母が登録しておいてくれた番号だった。「何かあったら田中さんに」と、出発前に言っていた。
凛は少し迷ってから、電話をかけた。
「はいはい、田中ですよ」
二コール目で出た。
「田中さん、柊です。凛です」
「あら、凛ちゃん。どうしたの、学校じゃないの」
「保健室にいます。熱が出て。三十八度七分で」
一瞬の間があった。
「今から帰れる?」
「はい。電車で」
「帰ってきたらすぐ横になってな。わたしもすぐにいくから!」
「あの、別に来ていただかなくても」
「いいから!」
電話が切れた。
凛はしばらくスマホを見ていた。
タクシーで帰るか電車で帰るか少し考えて、電車にした。タクシー代がもったいなかった。我ながら貧乏性だと思ったが、染みついた感覚はそう簡単に抜けなかった。
家に着いたのは昼過ぎだった。
玄関の鍵を開けようとしたがすでに開いていて、台所から音がした。
出汁の匂いがした。
「凛ちゃん、おかえり」
幸江が台所から顔を出した。前掛けをつけたままだった。いつの間に入ってきたのか、勝手知ったる顔で鍋をかき混ぜていた。
「……いつの間に」
「少し前に。合鍵、由紀ちゃんから預かってるから」
そういえば母がそう言っていた気がした。凛はぼんやりとそれを思い出した。
「着替えて寝てな。おかゆ、もうすぐできるから」
凛は着替えて、布団に入った。
天井を見た。
静かだった。
昼間の家はこんなに静かなのか、と思った。母がいた頃は昼間に家にいることなんてほとんどなかったから、知らなかった。
しばらくして、ドアがノックされた。
「入るよ」
幸江が盆を持って入ってきた。おかゆだった。梅干しが一粒乗っていた。
「食べられそう?」
「……はい」
「よかった。食べな」
幸江は部屋の隅の椅子を引っ張ってきて、そこに座った。帰る気配がなかった。
凛はおかゆに手をつけながら言った。
「田中さん、お店は」
「今日は夕方からでいいから」
「でも、わざわざ」
「わざわざじゃないから、食べな」
凛は黙っておかゆを食べた。
出汁の味がした。昆布と鰹節、それとほんの少し梅干しの酸味が混ざって、体に染みた。
幸江はしばらく黙って凛が食べるのを見ていた。それから、ふいに言った。
「今朝、学校行こうとしてたんだって」
遼から聞いたのだろう。
「……はい」
「三十八度七分で」
「小テストがあったので」
「小テスト」
幸江が繰り返した。呆れているのか怒っているのか、よく分からない声だった。
「自分たちでやれるって、由紀ちゃんに言ったんでしょ」
「……はい」
「だから無理するの」
「無理じゃないです」
「無理じゃない人間が三十八度七分出して学校行こうとするかい」
凛は黙った。
反論できなかった。
「由紀ちゃんに約束したのは分かる」と幸江は言った。「でも約束ってのは、無茶をするってことじゃないから」
「でも弱いところを見せたら」
「誰に」
凛は答えられなかった。
誰に、と言われると、分からなかった。遼に?華に?それとも、もういない母に?
「今、大丈夫じゃない人間が大丈夫って言ってんだよ」
幸江の声は、怒っていなかった。ただ、静かだった。
「見りゃ分かる。遼くんも今朝から分かってたんじゃないの」
「……分かってたと思います」
「そうだろ。あの子、口数少ないけど、ちゃんと見てるから」
凛はおかゆの椀を持ったまま、少し俯いた。
「頼るのは負けじゃないから」
幸江が言った。
「あんたが強いのは知ってる。でも強い人間だって、しんどいときはしんどい。それを認めるのは、弱さじゃない」
凛は何も言わなかった。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
「おかゆ、全部食べな」
幸江はそれだけ言った。説教でも慰めでもなく、ただそれだけ言った。
凛はおかゆを食べた。全部食べた。
食べ終わったら、少し楽になった。熱のせいかおかゆのせいか、それとも別の何かのせいか、分からなかった。
幸江が帰ったのは夕方だった。
玄関先で「また何かあったら言いな」と言って、自分の店に戻っていった。
夜、遼が帰ってきた。
凛の部屋のドアを少しだけ開けて、中を見た。
「……熱、下がった?」
「少し。ごめん、電話出られなかったね」
「授業中だったから」
遼は少し間を置いた。
「田中さん、来てくれたんだろ」
「うん」
「……よかった」
それだけ言って、遼はドアを閉めた。
凛はしばらく天井を見ていた。
頼るのは負けじゃない。
幸江の言葉を頭の中で繰り返した。
分かっている。頭では分かっている。でも体がついてこない。染みついた習慣はそう簡単に抜けない。
それでも。
今日のおかゆは、うまかった。
出汁の味が、まだ口の中に残っていた。
凛は目を閉じた。
今度はすぐに眠れた。




