壱話「となりの田中さん」
四月というのは残酷な月だと、柊凛は思っていた。
桜が散って、新学期が始まって、世界が「さあ新しくなった」という顔をする。でも実際には何も新しくなっていない。変わったのは周囲の景色だけで、自分の中身はまるっきり去年のままだ。
今年の四月は、特にそうだった。
母が出発したのは三月の終わりだった。空港まで三人で見送った。由紀は手を振って、笑っている。泣かなかった。凛も泣かなかった。遼は最初から無表情で、華だけが少しだけ目を赤くしたが、それでも声は出さなかった。
柊家の人間は、揃って我慢強い。
それがいいことなのかどうかは、凛にはまだ分からなかった。
母が出発してから三週間が経っていた。
最初の一週間は、三人とも妙に気を張っていた。凛は朝から夕飯の段取りを考えた。遼は言われる前に洗い物をした。華はこぼさないように気をつけてジュースを飲んだ。三人とも、どこかよそよそしかった。「できる」ということを証明しようとしていた。誰に対してでもなく、ただ証明しようとしていた。
二週間目には、少し慣れた。
三週間目には、日常になっていた。
朝は各自で起きて、各自で朝食を食べ、各自で家を出る。帰りは凛が一番遅くて、遼が次で、華が一番早い。夕飯は凛が作る。遼が食器を洗う。華がテーブルを拭く。それだけのことを、特に話し合いもなく自然にやるようになっていた。
うまくいっていた。
だから、少し油断していたのかもしれない。
問題が起きたのは、四月の第三月曜日だった。
遼は、その日学校が休みだった。先週の土曜日に学校行事があった分の振替休日で、一人だけ平日に家にいる状況だった。
午前中は自分の部屋で過ごしていた。やることは特になかったが、机の上に積んである基板を眺めたり、先日分解したラジオの残骸を整理したりしていた。
凛は高校へ、華は小学校へ、それぞれ行っている。
昼前に、固定電話が鳴った。
遼は受話器を取った。
「柊様のお宅でしょうか。○○小学校の保健室の者ですが」
遼は少し背筋を伸ばした。
「はい」
「柊華さんが体育の授業中に転んで、膝を擦りむきまして。大事はないんですが、保護者の方にご連絡をと思いまして」
「分かりました」
遼はそう言って、電話を切った。
それから、少し固まった。
保護者。
その言葉を頭の中で転がした。つまり、誰かが行かなければならない。凛は今高校で授業中だ。
傷が大したことないなら授業を抜けさせるのは避けたい。
自分が行くとして、中学生が保護者として小学校に行っていいのか。何を言えばいいのか。どんな顔をすればいいのか。
考えるほど、答えが出なかった。
気がつくと遼は玄関の外に出ていた。なんとなく外の空気が吸いたかったのか、それとも考えながら歩きたかったのか、自分でもよく分からなかった。玄関先でスマホを持ったまま、どこに電話すべきか考えながら立っていた。
隣から声がした。
「おや、遼くん。今日は休みかい?」
田中幸江《さちえ》だった。
惣菜屋の仕込みをしていたらしく、前掛けをつけたまま店の入り口に立っていた。五十代半ばの体格のいい女で、声がでかく、笑い声もでかく、でも目だけはいつも妙に優しかった。凛が赤ちゃんの頃から隣に住んでいる。柊家の子供三人のよちよち歩きを全部見ている、この辺りでは数少ない大人だった。
遼は少し考えてから答えた。
「振替休日で」
「あら、そうかい。どうしたの、そんな顔して」
幸江が遼の顔を見て言った。遼は自分がどんな顔をしているか分からなかったが、幸江には一目で分かったらしかった。
「華が学校で転んで、保護者に来てほしいって。でも凛は授業中で」
幸江は一秒も考えなかった。
「あたしが行くよ」
「え」
「あたしが行くっつってんの。早く住所言いな」
遼は反射的に小学校の名前と住所を言った。幸江は「よし」と言って惣菜屋の中に引っ込んだ。三十秒後に出てきた。前掛けは同じままだったが、エコバッグを一つ持っていた。
「行ってくる。凛ちゃんには後で連絡しといて。大事ないから余計な心配させんでいい。そう言えばいい」
「あの、田中さん、保護者でもないのに」
「細けえこと言いっこなし。隣のおばちゃんが来たって、先生も困らないから」
それだけ言って、幸江は歩いていった。
遼はしばらく、その背中を見ていた。
前掛けのまま、エコバッグ一つ持って、小学校へ向かっていく五十代の背中を。
助かった、という気持ちがあった。と同時に、こんなことで助けてもらっていいのかという気持ちも、同じくらいあった。でもどちらの気持ちも言葉にならなかった。
遼は凛にLINEを送った。
「華が転んで膝擦りむいた。田中さんが学校行ってくれた。大したことないから授業出てていい」
それだけ打って、送信した。
既読がついたのは五分後だった。授業の合間の休み時間に見たのだろう。
「田中さんに後でお礼言いに行く。遼もありがとう」
遼は「別に何もしてない」と返した。
実際、何もしていなかった。困った顔で玄関先に突っ立っていただけだ。
それでも凛はありがとうと言った。
遼はスマホをポケットにしまって、家に入った。
一時間半後、玄関の外から声がした。
「ただいまー!」
華だった。
膝に白い絆創膏が一枚貼ってあった。その横に幸江が立っていた。
「消毒して絆創膏を貼ったようだ。大したことなかったよ」
「ありがとうございます」
「いいっていいって」
幸江がエコバッグから紙袋を取り出した。
「帰り道のスーパーで買ってきた。夕飯の足しにして」
中を見ると、豆腐と卵と、缶詰が入っていた。
「そんな、いいです」
「いいから受け取り。困ったときはお互い様だから」
遼は受け取った。
「……ありがとうございます」
「で、華ちゃん。何か食べたい?」
「コロッケ」
即答だった。
「よし、夕方持ってきてやる」
幸江は笑って帰っていった。でかい笑い声が、路地に響いた。
遼は手の中の紙袋を見た。豆腐と卵と缶詰。凛なら何か作れるだろう。そう思った。
「遼」
華が遼を見上げた。膝に絆創膏を貼ったまま、どこかすっきりした顔をしていた。
「田中さんって、いいね」
「……そうだな」
遼はそれだけ言って、家に入った。
夕方、幸江は約束通りコロッケを持ってきた。揚げたてで、まだ温かかった。
授業を終えて帰宅した凛が、玄関先で幸江と鉢合わせた。
「田中さん、今日は本当にありがとうございました」
凛は深く頭を下げた。幸江は「いいっていいって」と言いながらコロッケの入った皿を渡した。
「凛ちゃん、あんた一人で全部やろうとしてたんじゃないの」
「……そういうわけでは」
「ま、いいや。何かあったらいつでも言いな。隣にいるから」
それだけ言って、幸江は自分の店に戻っていった。
凛はしばらく、コロッケの皿を持ったまま立っていた。
遼が横から「凛、中入ろ」と言った。
「……うん」
華がすでにリビングのテーブルについて「コロッケー!」と叫んでいた。
三人でコロッケを食べた。
揚げたては、やっぱりうまかった。
そうして柊家の最初の四月は、どうにか終わった。
穏やかではなかった。でも、致命的でもなかった。
それで十分だった。少なくとも、その夜は。




