第16.5話「黒瀬綺羅という秘密」
生放送というのは、獣の匂いがする。
華はそう思っていた。
リハーサルと本番では空気が違う。カメラが赤く光った瞬間、スタジオ全体がぴりっと締まる。その感覚が、華は嫌いじゃなかった。
音楽番組「ミュージックランダム」。
出演映画の主題歌アーティストの応援ゲストとして、今夜ここにいる。歌うわけじゃない。トークと、曲紹介と、笑顔。それだけでいい。
控え室に向かう廊下を歩いていると、マネージャーの田村が言った。
「今日、AURUMも出るから。楽屋隣だよ」
「あ、そうなんですね」
「知り合いとかいる?」
華は少し考えた。
「……まあ、一応」
「一応?」
「なんでもないです」
田村が首を傾げたが、華はさっさと歩き出した。
控え室のドアを開けて、荷物を置いて、鏡の前に座った。
スタイリストの坂本さんがヘアセットを始めながら言った。
「華ちゃん、今日AURUMと共演じゃない。黒瀬くん好き? すごい人気だよね」
「知り合いです」
「え、知り合いなの?」
「ちょっとだけ」
坂本さんが目を輝かせた。
「どこで知り合ったの?」
「……秋葉原で」
「秋葉原で!?」
「ロケで行ったとき」
「そうなんだ! でも黒瀬くんって秋葉原行くイメージないよね。あんなクールな王子様なのに」
華は鏡の中で、ちょっとだけ笑いをこらえた。
「そうですね。意外でした」
リハーサルで、AURUMを遠目に見た。
五人が横一列に並んだだけで、スタジオの空気が変わった。
先頭の黒瀬綺羅が、ディレクターと打ち合わせをしている。完璧な立ち姿。落ち着いた声。どこからどう見ても、「王子様」だった。
その隣で、白石奏斗がスタッフに柔らかく微笑みかけていた。
橘悠真はイヤモニの調整をしながら、軽く体を揺らしていた。リズムが体に染み付いているのが分かる。
東條理人はタブレットを見ながら何かを確認していた。メガネ越しの目が、するどい。
朝倉玲央だけが、リハーサル前なのにそわそわと周りを見回して、スタッフに話しかけていた。最年少らしい、落ち着きのなさだった。
華はそれをぼんやり眺めながら思った。
(あ、そういえば連絡先、聞いてなかった。)
秋葉原以来、一度も連絡していない。
向こうも連絡してきていない。
お互いに連絡先も知らないのだから当たり前か。
次会ったら聞こうと思っていたが、まったくその機会がなかった。
今日がちょうどいいかもしれない。
本番は滞りなく進んだ。
AURUMのパフォーマンスは、客観的に見てすごかった。
黒瀬のセンターポジションは伊達じゃない。ステージに立った瞬間から空気が変わる。さっきまで廊下でディレクターと話していた人間と同一人物とは思えなかった。
カメラが回っている間、黒瀬は完璧だった。
笑顔のタイミング。視線の送り方。体の使い方。全部が計算されていて、でも計算に見えない。
(プロだな)
華は素直にそう思った。
自分もそうありたいと思った。
MCコーナーで、司会者が華に話を振った。
「柊さん、AURUMさんと共演していかがですか?」
「かっこよかったです。普通に見とれちゃいました」
会場が笑った。黒瀬が「光栄です」と王子様スマイルで返した。
華はそのスマイルを見ながら、心の中だけで思った。
(秋葉原の顔と全然違う。)
収録終了。
スタジオの熱が引いていく。スタッフが機材を片付け始める。出演者たちが楽屋に戻っていく。
華は田村と話しながら廊下を歩いていた。
そこでちょうど、AURUMの五人と鉢合わせた。
タイミングがいい。
華は素直に声をかけた。
「あ、黒瀬くん。連絡先教えてよー」
その瞬間の、五人の反応は忘れられないものになった。
まず朝倉玲央の目が、ぱかっと開いた。
「え?」
次に橘悠真がにやりとした。
「おおー?」
「おおー?」
声がかぶった。悠真と玲央だった。
「珍しくない?」東條理人がメガネを押し上げながら、冷静な分析官のような顔で言った。「リーダーが女優さんに個人的に連絡先聞かれるの」
「距離近くない?」白石奏斗が、穏やかな微笑みのまま燃料を静かに投下した。「なんか、親しそう」
華はAURUMメンバーの反応を見回して、じわじわと面白くなってきた。
黒瀬はというと。
完璧なアイドルスマイルを貼り付けたまま、耳が赤かった。
「……もちろんです。光栄ですよ」
声は完璧だった。
表情も完璧だった。
ただ、耳だけがどうにもならなかった。
「なにそれー!」
華が吹き出した。
「メンバーの反応が面白すぎる!」
「「「ですよね!?」」」
三人が同時に食いついた。玲央、悠真、理人だった。
「リーダーって基本クールじゃないですか」
「でも今ちょっと変じゃなかったですか」
「耳赤くないですか?」
「赤くない」黒瀬が静かに、しかし確実に動揺しながら言った。「全く赤くない」
「赤いですよ」華が穏やかに指摘した。
「……赤くない」
「赤いです」
「赤くない!」
玲央が「うわーリーダーが否定を重ねてる!」と騒いだ。
悠真が「珍しいもん見た」と腕を組んだ。
理人が「統計的に見て、これは動揺のパターンです」とわけの分からない分析をした。
奏斗だけが、にこにこしながら黒瀬の隣に立って、小声で言った。
「綺羅くん、耳、冷やす?」
「冷やさなくていい!!」
黒瀬が、ぐっと低音を出して言った。
「お前ら、うるさい」
その一言で、メンバーたちは面白そうに笑いながらも少し引いた。さすがリーダーの圧だった。
黒瀬が、改めて華に向き直った。
完璧な笑顔に戻っていた。耳はまだ赤かったが。
「失礼しました。ええと、連絡先は」
そこで田村が「華ちゃん、そろそろ」と声をかけてきた。
「あ、行かなきゃ」
「では、また別の機会に」
「うん、また!」
華が歩き出そうとしたとき、後ろで玲央の声が聞こえた。
「……リーダー、結局交換できてないじゃないですか」
「うるさい」
「悔しくないんですか?」
「うるさい!!」
華は歩きながら、こっそり笑った。
廊下の角を曲がったところで、足音が聞こえた。
振り返ると、黒瀬が早足でこちらに向かってきた。
一人だった。
「……少しだけいいか」
低音。王子様スマイルは、もうなかった。
「いいですよ」
田村が「私、先に行ってますね」と気を利かせて離れた。
黒瀬が、華にスマホを差し出した。
「連絡先。今のうちに」
「あ、うん」
華もスマホを出した。
二人でQRコードを読み込んだ。十秒もかからなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
黒瀬が踵を返しかけた。
華は思わず言った。
「メンバーに何か言われそう」
黒瀬が、少しだけ眉をひそめた。
「言われる」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
それだけ言って、黒瀬は廊下を戻っていった。
華はその背中を見送りながら、また笑いをこらえた。
帰りの車の中で、田村が言った。
「黒瀬くんに呼び止められてたね。何だったの?」
「連絡先の交換です」
「え、そうなの」
「はい」
田村がうーんと唸った。
「黒瀬くんって、女優さんと個人的に連絡先交換するイメージなかったけど」
「知り合いなので」
「どこで知り合ったの?」
「ロケで」
「秋葉原の?」
「そうです」
田村は納得したのかしていないのか分からない顔で、窓の外を見た。
華はスマホを開いて、特に意味もなくニュースを眺めた。
自室に戻って、シャワーを浴びて、ベッドに転がったところで、スマホが鳴った。
黒瀬 綺羅、と表示されていた。
開く。
今日は本当にごめんなさいね。
変な空気にしちゃって。
あの子たち悪気はないの。
私がちゃんとしてなかったのよね。
あなたに迷惑かけたくなかったの。
もし嫌な思いさせてたら、本当にごめんなさい。
華は画面を見たまま、三秒フリーズした。
「え?」
もう一度読んだ。
「ごめんなさいね」。「のよね」。「なかったのよね」。「かけたくなかったの」。
完全に出ていた。
華は口元を手で押さえた。
笑いをこらえようとして、こらえきれなかった。ベッドの上で静かに悶えた。
続きが来た。
それとね。
今日、あなたが自然に笑ってくれたの、救われたの。
本当にありがとう。
笑いが、すうっと引いた。
華は天井を見た。
思い出したのは、秋葉原の非常階段だった。
黒マスクに黒キャップ。BLアンソロを手に持って、絶望した顔をしていた黒瀬綺羅。「内緒にして」と本気で言った声。「俺は王子様なんだよ」と切実に言った声。
あの日も、こういう人だった。
繊細で、気遣い屋で、自分が迷惑をかけたことをちゃんと気にする人だった。
今夜の楽屋前。
メンバーに囲まれながら耳を赤くして、それでも「光栄です」と完璧な声で返していた黒瀬綺羅。
廊下で一人追いかけてきて、無言でスマホを差し出した黒瀬綺羅。
あの人は、いつも頑張っている。
王子様を、頑張っている。
華は少し考えてから、返信を打った。
ぜんぜん気にしてないよ?
むしろ面白かったし!
綺羅ちゃん、そのままでいいじゃん。
てか今度ゆっくりアニメ語ろうよ笑
送信して、スマホを置いた。
十秒も経たなかった。
既読がついて、すぐ返ってきた。
……あなた、本当にすごいわね。
私、あなたのこと好きだわ。
(友達としてよ?)
華はしばらく画面を見つめた。
それから、一人でにやにやした。
「この人、ほんとに可愛い」
思わず声に出ていた。
華はもう一度返信を打った。
私も好きだよ、綺羅ちゃん。
(もちろん友達としてね!)
既読がついた。
今度は返信がなかった。
でも、なんとなく分かった。
向こうでも、一人でにやにやしているんだろうな、と。
少し経って、もう一通来た。
連絡先、今日ちゃんと交換できてよかったわ。
……全くもう、あの子たちったら。
華はまた笑った。
最後の一行が、完全に素だった。
「あの子たちったら」。
それはもう、どこからどう見ても、黒瀬綺羅の素の言葉だった。
華は返信した。
あと「あの子たちったら」って可愛すぎるよ笑
既読がついた。
しばらく間があった。
それから、一言だけ返ってきた。
……見なかったことにして。
華は声を出して笑った。
その夜、柊家はいつも通りだった。
凛が「眠い」と言いながらソファで寝落ちしていた。
遼がモニターの前で何かを分解していた。
リビングを通り過ぎながら、華は「おやすみ」と言った。
遼が「ああ」と言った。
凛は既に返事をする体力もなかった。
自分の部屋に戻って、もう一度スマホを開いた。
トーク画面には「……見なかったことにして。」が最後に残っていた。
華はそれを見て、もう一度だけ笑った。
芸能界には、いろんな人がいる。
完璧な王子様が、夜中にオネエ言葉でメッセージを送ってくる。
それを「可愛い」と思える自分が、華は少し好きだった。
スマホを閉じて、目を閉じた。
次に会ったとき、推し語りをしよう。
今度は非常階段じゃないところで。




